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麒麟の帰還

年が明けて長い冬が終わり、春になった。


だがいまだに雪は解けておらず、ひどい日にはツララまでできる寒さである。

本当に春なのかと疑いたくなる気温であった。


案の定、桜は咲かず未だ蕾すら膨らんでいない。

曇天の空を見上げるたび、今年の収穫にも不安が募った。


「叔父上の米沢は大丈夫かなぁ」

寒さに手を揉みながら、鈴は身体に乗っている猫たちの温もりで暖を取っていた。


「お前たちの子供もどうしよう。たぶん、この村ではもう飼えないだろうし……」

猫たちは、年が明けると子を身ごもっていた。

新しい命は喜ばしい。

だが、食料のことを考えると素直に喜ぶこともできなかった。


おそらく他の村でもそうだろう。

何しろ猫が守るはずの蔵に、米が入っていないのである。


どこか他の藩の人に引き取ってもらえたら嬉しいが、そんな伝手は薩摩のミクニくらいしか思い当たらない。

そして薩摩は遠い上、気軽に行ける距離でもなかった。


どうしたものかと悩んでいると村の広間の方で歓声が沸き上がる。

何事だろうと首をかしげていると、トシが転がり込むように鈴の元へ走ってきた。


「どうしたのトシ、そんなに慌てて」

「キジ兄が、帰ってきた!」


それは鈴にとっても驚天動地の朗報だった。

猫たちを腕に抱えたまま、鈴は駆け出していた。




「坊ちゃん、よく帰りなさった!」

「キジが居れば、百人力だ!」


寒空でなかなか家から出るのを躊躇っていた村人たちが、村の広間に一斉に集まっていた。

その輪の中心には、林家の羽織をまとった偉丈夫が立っていた。

鈴は猫を抱えながら、転ばぬよう駆け寄った。


「叔父上、おかえりなさい!」

「リンか。苦労を掛けたな」


久しぶりに見た喜二郎は頬がこけ、以前より痩せて見えた。

それでも人々の輪の中心に立つだけで、その場の空気が変わる。


ただそこに立っているだけなのに人々の視線は自然と彼へ集まる。

目が潤む鈴が飛び込もうとすると、先に芳が飛び込んでいた。


「キジ兄、待ってたんだよ。本当に、ずっと」

「芳。それは亭主にやってやれ、六郎太がむくれている」


人目もはばからず喜二郎の胸に頭をくっつける芳に、六郎太が天を仰いでいた。

だが、ずっと村の中で緊張続きだった芳がそうなるのも仕方がなかった。


名主となった芳の責任は、非常に重くなった。

減り続ける備蓄と日に日に現実味を帯びる飢餓の未来に、何日もろくに眠れていないのを鈴は知っている。


「喜二郎、米沢はいいのか?」


集まった人は、口々に喜二郎へ自らの苦境を告げていた。

そこへ割って入ったのが仁八である。


喜二郎は頷く。


「ああ。詳しくは後で話そう、ひとまず暖を取らせると助かる」

喜二郎はこの寒空の下で、綿入れのない木綿の着物だった。






---

「米沢は、持ちこたえる目算が立った」

名主の家の大部屋に集まった面々に、喜二郎がそう告げた。


「米沢が?」

「消費より生産の方がなんとか上回っている。そして治憲様が米沢に戻られた」


あの治憲様が米沢に帰還されたらしい。

たしかにあの名君が居れば、米沢はもうちょっとのことでは揺るがないだろう。


安心するとともに、なぜ喜二郎が戻れたのか理由が知りたい。

米沢は喜二郎を手放すつもりはないと思っていたからだ。


「詳しくは言えないが、御家騒動に近い動きがあってな。その流れで某は仙台に戻ってこれた」

「お家騒動……」

この言葉でおおよその予想はつく。


治憲と喜二郎。

両者が並び立てば面白く思わぬ者もいるだろう。


おそらくそんな出来事があって、仙台へ戻ることができたのではないだろうか。

見当違いかもしれないが、それをこの場で口にするのは憚られた。


「先ほどの皆の話では、仙台の食糧事情はかなり厳しい状況か」

「ええ。今年も不作だと、もう乗り切れない」

喜二郎の問いに芳が答える。

ただ、名主の村はまだいい方だ。


今年は奇跡的に餓死者を一人も出さなかったのだから。

しかし近隣の村では冬を越せなかった人もいるという話を聞いている。

仙台藩はもはや気力で持っている状態だった。


「仁八、戻って来たばかりで済まないが文を仙台城へとどけてくれないか」

「わかった」


喜二郎が取り出した文を、仁八は何も聞かず受け取って走り出す。


「城に?」

「ああ」

喜二郎は頷く。


「天候を見る限り今年も不作の可能性は高い。もはや他藩から米を買うしか道はない」

「他藩から……でもどの藩も余裕がないって聞くよ」

「たしかに陸奥の国はどこも余裕がない。しかし米を持っている藩はある」


その先の言葉を皆が待った。


「加賀藩。そして西海道だ」




「加賀と、西海道?」

鈴の問いかけに、喜二郎は頷く。


「陸奥の国は壊滅的だが、加賀藩は被害が比較的小さいらしい。西の情報はまだ少ないが、西海道には被害の少ない藩もあると聞く」


米沢にいる傍ら、各地の情報を集めていたらしい。

その中でも比較的被害が少ない藩を喜二郎は挙げていった。


「加賀は某が築いてきた商業の繋がりで伝手がある。この飢饉を考えるとそれほど買い付けることはできぬかもしれぬが、この村が飢饉を越せるだけの米は買い付けてみせる」

その言葉に、村人たちから歓声が上がる。


だが同時に鈴は思った。


喜二郎は「この村が」と言ったのだ。

鈴の懸念を察したのか喜二郎は頷いた。


「察しているだろうが、米を集めても仙台藩が領内を生かすために徴収するだろう。この村だけが助かるというのは難しい」

「そんな……。じゃあ隠すしかねぇべか」

喜二郎は首を振る。


「お前たちはこの村にため込んだ米を仙台藩に譲り渡したと聞いた。それはなぜだった?」

「この村に……米があることを知られると、他の村の標的になるからだべ」

喜二郎がうなずく。


「某が加賀藩で買える米は、仙台全体で見るとそれほどの量を手に入れられるわけではない。西の助けも必要だ。……そして」

言葉をいったん区切って、皆を見渡す。


「西の米を欲しがっているのは、仙台だけではない」

陸奥の国、全てが生き残りをかけて米の買い付けを始めているのである。






---

「水ですまぬな、久蔵」


村での話し合いがひと段落し、喜二郎は墓地に来ていた。

だれもいない深夜の墓場に付き従うのは、一匹の白猫だけ。


生前、名主がビャッコと可愛がっていた猫である。

猫の本当の名前はモチなのだが、本人は最期までビャッコと呼び続けていた。


盃に水を満たし墓の前に置く。


名主と喜二郎の関係は、最初は対立者だった。

喜二郎が作った堰をめぐり、双方の言い分で譲れない関係だった。


それを解消してくれたのがスズである。

渡すことで守れることがあるのだと、あの時スズが教えてくれた。


「お主が育てたテンは、某も見違えた」


鈴が時掛けをしてから初めて会ったのは仙台城であった。

居並ぶ家老達に囲まれながら、その小さな背中はたった一人で抗っていた。


美しくそして立派に成長した姪は、きっとこの名主が手塩にかけて育てたのだろう。

幸運を運ぶ獣。天の使いとして、村のために一人立ち向かったのだ。

冷え切った墓石にそっと手を添える。


「間に合わなかった某を許せ、久蔵」

病が村を襲ったと聞いた時、叶うことならすぐにでも駆け付けたかった。


だがそれは果たされず、こうして二度と会うことなく今ここに眠っている。

彼がこの村で育て上げた人材は、一人一人がもはや替えの利かない力を持っている。


喜二郎が米沢に拘束されてから、喜二郎に代わってこの村を守り続けてくれたこの名主には感謝してもしきれない。

あのとき、カラスやらタヌキやら呼び合っていた頃が急に懐かしい。


「もう一度だけ、テンの力を貸してもらうぞ。タヌキ親父」


喜二郎は水で満たされた盃を、一気に飲み干した。

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