テンのイトと観測者
鈴は実家へ戻ると、真っ先に祖父を訪ねた。
祖父の什吾は藩医であるが、宝暦の大飢饉では多くの命を救った名医でもある。
林家に伝わる常備薬も什吾が考案したものだった。
鈴が祖父の部屋を訪ねると「入れ」と短い返事が返ってきた。
「お爺様。お帰りなさいませ」
「……」
祖父は書き物をしたまま返事をせず、鈴を一瞥した。
幼い頃はよく遊んでもらった祖父だ。
穏やかな笑顔しか知らなかった。
だが、鈴に接する態度は他人のそれだ。
やはりこの非常時で気が立っているのだろうか。
それに祖父の口元には布が巻かれており、まるで大掃除の最中のような格好だった。
鈴は平伏し、願い出る。
「お爺様。病の広がりが早く、市井の者たちが苦しんでおります。何か方法は――」
「――ない。どうにもならぬ」
遮る言葉はあまりにも強く、鈴はたじろいだ。
「お前は薬が解決策だと思っているのだろう。だが到底足りぬ。値も高い。町人はおろか、農民に買えるものではない」
「……ですが」
鈴は言葉に詰まる。
祖父の言うことは正しい。
薬は高価だからこそ意味を持つ場合もある。
怪我や病を避けるため細心の注意を払うことこそ、最大の予防になるからだ。
藩医の娘である以上、それは重々承知していた。
だがこの未曽有の大飢饉にそんな理屈を並べている場合ではない。
自分の言葉次第で祖父が力を貸してくれるかもしれない。
鈴は必死に説得の言葉を探した。
そんな鈴を祖父は冷たい眼差しで見つめる。
「リン。お前に聞きたいことがある。答えてくれるか」
「え……? はい」
一拍置いて祖父の眼に鋭い光が宿る。
「お前はこの飢饉が――そしてこの病が起こることを知っていたな?」
鈴は息をのんだ。
たしかに知っていた。
だがそれを話してよいのだろうか。
自分は過去と未来を行き来し、その知識をもとに備えを進めてきた。
祖父はそんな話を信じるのだろうか。
一歩間違えれば先日の仙台城での評議のように、謀反を疑われる可能性すらある。
「それは……」
鈴が言いよどむと、祖父はその様子を注意深く観察した。
「この一年で、お前は人が変わったように飢饉への対策を始めた」
江戸行きに始まり、仙台までの旅、仙台城での問答、そして薩摩との交渉。
以前の鈴なら決して成し得なかったことを、この一年で積み重ねている。
祖父の眼差しが、まるで敵を見定めるかのような鋭さを帯びる。
「リン……お前は何を知っている」
いや、と祖父は低く言い直した。
「――それとも。宝暦・明和のスズと呼んだ方がよいか」
どくん、と心臓が大きく跳ねた。
過去で祖父との関わりはほとんどなかったはずだ。
強いて言えば、一番古い時代で父と間違えたことくらいしかない。
だがその時に鈴は名乗っていない。
それなのに、なぜ「スズ」という名を知っているのか。
祖父は重々しく口を開く。
「この飢饉、そして病は歴史なのだ」
「……え?」
什吾はそう言ったあと一瞬だけ目を伏せた。
その表情は諦めにも似ていた。
「……いかに悲惨な結末であろうと変えてはならぬ」
鈴は愕然とした。
歴史――?
この大飢饉は最初から定められた出来事だとでも言うのか。
そんな……そんなこと、認めるわけにはいかない。
「お爺様は……この仙台の未曽有の危機を見過ごせとおっしゃるのですか!」
「それが歴史だ」
祖父の口ぶりはどこか奇妙だった。
まるで、この大飢饉が起こることを前もって知っていたかのようである。
「……お爺様は何を知っているのですか」
「それを話す資格は儂にはない」
祖父は静かに首を振る。
「ただ本来の歴史を変えた後の未来が本当によくなるのか。それをよく考えてほしい」
そう言い残して祖父は立ち上がった。
そして、そのまま部屋を去っていく。
鈴は何ひとつ理解できないまま、その場から動くことができなかった。
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鈴は久しぶりに自室へ戻ると、その場にうずくまった。
自分が関わることで何が起こるというのだろう。
最悪の未来を変えるために、これまで必死に動いてきた。
良くなることはあっても、あの未来より悪くなるはずがない。
わからない。
あの地獄のような未来ならば、歴史だろうと変えた方がましなはずだった。
もし祖父が未来を知っているのならば、なぜそれを否定するのだろう。
「なんで……お爺様はもう終わったことみたいに言うんだろう……」
今もなお大飢饉の真っただ中だ。
それなのに――。
なぜ他人事のような口ぶりなのだろう。
わからない……。
鈴は膝を抱えながら、これからのことを考える。
「こほっ、こほっ……」
体がだるい。のどが痛い。眩暈がする。
ここまでくれば、もう自覚していた。
自分も病に侵されている。
時間はない。
祖父から薬のことを聞き出さなければ、名主の村は大きな被害を受けるだろう。
ぐらりと視界が揺れる。
寒気が背筋を駆け抜ける。
頭が桐で刺されたように痛む。
苦しい。
苦しいよ……。
死にたくない。
死にたく、ない。
(私の死因は……ひょっとすると、これなのかも……)
どうせ――。
どうせ……死ぬのなら、その前にやれることをやってから死にたい。
鈴は熱に浮かされ痛む頭を振りながら、朦朧とする意識のなか布団へ身を沈めた。
ナナシは客間にいるが、大丈夫だろうか。
名主と芳は悪化していないだろうか。
水は。
食料は。
(叔父上……)
一縷の希望を胸に抱いたまま、鈴の視界はゆっくりと霞んでいった。
意識を手放し、夢と現の狭間へ沈みかけた、その時だった。
誰かが鈴の頭を抱き起こし、口元へ何かを運ぶ。
甘くて。
しょっぱくて。
どこか懐かしいような、けれど知らない味だった。
微睡みの中で水を含まされる。
その人物は何も告げず、静かに去っていった。
その夜、鈴は息苦しさに何度も目を覚ました。
眠った気のしない夜だった。
そして翌朝――。
「……」
体はまだ重い。
だが、昨日とは明らかに違っていた。
汗で濡れた着物が肌に張り付いている。
まるで一晩で体中の熱が抜け落ちたかのようだった。
そっと額に手を当てる。
焼けているのではないかと思っていた肌の熱が、嘘のように引いていた。




