↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
83/145

テンのイトと観測者

鈴は実家へ戻ると、真っ先に祖父を訪ねた。


祖父の什吾は藩医であるが、宝暦の大飢饉では多くの命を救った名医でもある。

林家に伝わる常備薬も什吾が考案したものだった。

鈴が祖父の部屋を訪ねると「入れ」と短い返事が返ってきた。


「お爺様。お帰りなさいませ」

「……」

祖父は書き物をしたまま返事をせず、鈴を一瞥した。


幼い頃はよく遊んでもらった祖父だ。

穏やかな笑顔しか知らなかった。


だが、鈴に接する態度は他人のそれだ。

やはりこの非常時で気が立っているのだろうか。

それに祖父の口元には布が巻かれており、まるで大掃除の最中のような格好だった。


鈴は平伏し、願い出る。


「お爺様。病の広がりが早く、市井の者たちが苦しんでおります。何か方法は――」

「――ない。どうにもならぬ」

遮る言葉はあまりにも強く、鈴はたじろいだ。


「お前は薬が解決策だと思っているのだろう。だが到底足りぬ。値も高い。町人はおろか、農民に買えるものではない」

「……ですが」

鈴は言葉に詰まる。


祖父の言うことは正しい。

薬は高価だからこそ意味を持つ場合もある。

怪我や病を避けるため細心の注意を払うことこそ、最大の予防になるからだ。

藩医の娘である以上、それは重々承知していた。


だがこの未曽有の大飢饉にそんな理屈を並べている場合ではない。

自分の言葉次第で祖父が力を貸してくれるかもしれない。


鈴は必死に説得の言葉を探した。

そんな鈴を祖父は冷たい眼差しで見つめる。


「リン。お前に聞きたいことがある。答えてくれるか」

「え……? はい」

一拍置いて祖父の眼に鋭い光が宿る。


「お前はこの飢饉が――そしてこの病が起こることを知っていたな?」


鈴は息をのんだ。


たしかに知っていた。

だがそれを話してよいのだろうか。


自分は過去と未来を行き来し、その知識をもとに備えを進めてきた。

祖父はそんな話を信じるのだろうか。

一歩間違えれば先日の仙台城での評議のように、謀反を疑われる可能性すらある。


「それは……」

鈴が言いよどむと、祖父はその様子を注意深く観察した。



「この一年で、お前は人が変わったように飢饉への対策を始めた」


江戸行きに始まり、仙台までの旅、仙台城での問答、そして薩摩との交渉。

以前の鈴なら決して成し得なかったことを、この一年で積み重ねている。


祖父の眼差しが、まるで敵を見定めるかのような鋭さを帯びる。


「リン……お前は何を知っている」

いや、と祖父は低く言い直した。


「――それとも。宝暦・明和のスズと呼んだ方がよいか」


どくん、と心臓が大きく跳ねた。

過去で祖父との関わりはほとんどなかったはずだ。

強いて言えば、一番古い時代で父と間違えたことくらいしかない。


だがその時に鈴は名乗っていない。

それなのに、なぜ「スズ」という名を知っているのか。


祖父は重々しく口を開く。


「この飢饉、そして病は歴史なのだ」

「……え?」


什吾はそう言ったあと一瞬だけ目を伏せた。

その表情は諦めにも似ていた。


「……いかに悲惨な結末であろうと変えてはならぬ」

鈴は愕然とした。


歴史――?


この大飢饉は最初から定められた出来事だとでも言うのか。

そんな……そんなこと、認めるわけにはいかない。


「お爺様は……この仙台の未曽有の危機を見過ごせとおっしゃるのですか!」

「それが歴史だ」


祖父の口ぶりはどこか奇妙だった。

まるで、この大飢饉が起こることを前もって知っていたかのようである。


「……お爺様は何を知っているのですか」

「それを話す資格は儂にはない」

祖父は静かに首を振る。


「ただ本来の歴史を変えた後の未来が本当によくなるのか。それをよく考えてほしい」


そう言い残して祖父は立ち上がった。

そして、そのまま部屋を去っていく。


鈴は何ひとつ理解できないまま、その場から動くことができなかった。






---

鈴は久しぶりに自室へ戻ると、その場にうずくまった。


自分が関わることで何が起こるというのだろう。

最悪の未来を変えるために、これまで必死に動いてきた。

良くなることはあっても、あの未来より悪くなるはずがない。


わからない。


あの地獄のような未来ならば、歴史だろうと変えた方がましなはずだった。

もし祖父が未来を知っているのならば、なぜそれを否定するのだろう。


「なんで……お爺様はもう終わったことみたいに言うんだろう……」

今もなお大飢饉の真っただ中だ。


それなのに――。

なぜ他人事のような口ぶりなのだろう。


わからない……。

鈴は膝を抱えながら、これからのことを考える。


「こほっ、こほっ……」

体がだるい。のどが痛い。眩暈がする。

ここまでくれば、もう自覚していた。


自分も病に侵されている。


時間はない。

祖父から薬のことを聞き出さなければ、名主の村は大きな被害を受けるだろう。


ぐらりと視界が揺れる。

寒気が背筋を駆け抜ける。

頭が桐で刺されたように痛む。


苦しい。

苦しいよ……。


死にたくない。

死にたく、ない。


(私の死因は……ひょっとすると、これなのかも……)


どうせ――。

どうせ……死ぬのなら、その前にやれることをやってから死にたい。


鈴は熱に浮かされ痛む頭を振りながら、朦朧とする意識のなか布団へ身を沈めた。


ナナシは客間にいるが、大丈夫だろうか。

名主と芳は悪化していないだろうか。

水は。

食料は。


(叔父上……)


一縷の希望を胸に抱いたまま、鈴の視界はゆっくりと霞んでいった。






意識を手放し、夢と現の狭間へ沈みかけた、その時だった。

誰かが鈴の頭を抱き起こし、口元へ何かを運ぶ。


甘くて。


しょっぱくて。


どこか懐かしいような、けれど知らない味だった。


微睡み(まどろみ)の中で水を含まされる。

その人物は何も告げず、静かに去っていった。




その夜、鈴は息苦しさに何度も目を覚ました。

眠った気のしない夜だった。


そして翌朝――。


「……」


体はまだ重い。

だが、昨日とは明らかに違っていた。


汗で濡れた着物が肌に張り付いている。

まるで一晩で体中の熱が抜け落ちたかのようだった。


そっと額に手を当てる。

焼けているのではないかと思っていた肌の熱が、嘘のように引いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。