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濁りの中の棘

鈴たちは蕎麦の実と根菜類を満載にした荷車を引きながら、名主の家へ向かった。

港に迎えに来てくれた農民たちは意気揚々としていたが、いつもと少し顔ぶれが違うことが鈴には気になった。


「みんな最近は飯もろくに食えてねぇから、寝てんだ。これ見たら飛び起きっぞ」

そう言う農民は明るく笑っていたが、その顔にはどこか疲れの色がにじんでいた。

仙台城下を抜け、名主の家へ続く道を荷車を押して歩く。


(これは……)


曇天のせいだけではない。

空気そのものが重く、どこか淀んでいる。

道行く人が少ないのも、この陰鬱な空気を嫌って家にこもっているからかもしれない。


だが――。


旧堰へと続く小川のほとりに人だかりができているのが遠目に見えた。

気にはなったが荷車を止めるわけにもいかず、そのまま名主の家へ向かった。

名主の家へ着くとトシが出迎えてくれた。


「おかえり、みんな。首尾はどうだった?」

「とりあえず半年分の芋は確保したよ。あと、蕎麦の実と根菜類も山ほど」

「やった!」


トシは無邪気にはしゃいだ。

その笑顔を見ながら、鈴は気になっていたことを尋ねる。


「ねぇ、名主さんと芳は……?」

「ん? 母ちゃんとじぃじなら寝てるよ。疲れたんだってさ」

鈴は「ちょっと挨拶してくるね」と言い残し、二人の様子を見に向かった。


二人とも眠っていた。

しかし額にはびっしりと汗が浮かび、まるで悪夢にうなされているかのように顔を歪めている。

その光景を見た瞬間、鈴は未来で見た景色を思い出した。


なぜ思い至らなかったのだろう。

食料が不足すれば、その先に何が待っているのか知っていたはずだった。


実際にその惨状を目にしてきたというのに。

鈴は食料の確保ばかりに気を取られて江戸へ向かってしまった。


もっと早く気付いていれば。

唇を強く噛む。


「……病だ」


そのつぶやきに、場にいた者たちが息を呑む気配が、はっきりと伝わってきた。






---

鈴たちは皆と相談した末、新堰の水を放流した。

鈴が最初に見た未来――そこでは水不足の後に病が広がっていた。


病人には大量の水が必要になる。


飲み水だけではない。

体を冷やし、汗を拭き、汚れを洗い流すためにも水は欠かせない。


だが綺麗な水が不足すると人々は井戸や川へ殺到する。

そして病は広がる。


(でも、まだ間に合う……!)

喜二郎と仁八は、この日のために堰を作ったのだ。


村人たちに反対されても。

銭の無駄遣いだと罵られても。

仁八と喜二郎は堰を作り上げた。


莫大な費用をかけ、反対されながらも作り上げた未来への備えだった。

普段は生活用水としてしか使われない水を今こそ開放する。

効果がどれほどあるかは分からない。それでもやるしかなかった。


あとは病人を支える薬が必要だ。

だがその知識は鈴にはない。


林家では薬の作り方は一子相伝だ。

今それを知るのは祖父の什吾と父・市平だけだった。


「そういえばキジ兄も、薬の知識だけは手に入らないって言ってたな……」

六郎太がそうつぶやく。


林家は家長から渡される常備薬を一人一つ持つことができる。

以前、鈴はそれを使って六郎太の病を治したことがあった。

だがあれ以降は家にあまり帰っていないこともあって、常備薬を補充できていない。


(薬の作り方……教えてくれないかな、お爺様)


薬は買うと非常に高い。

だからこそ一子相伝なわけだが、緊急時の今は藩が潰れるかどうかの瀬戸際なのだ。


お願いしてみる価値はある。

今は病の広がりを防ぐことが優先だった。


「水は煮沸してから使って! 食料は子供から! お年寄りには十分ふやかしてから食べさせて!」

名主も芳も倒れてしまった今、鈴はできることを始める。


病人にはとにかく水と食事をしっかり取らせることが大切だ。

芋は藩からの配給を待たなければならないが、幸いにも蕎麦と根菜類はかなりの数を仕入れることができている。


今は取り急ぎ皆に栄養を取ってもらうことが先決だ。

江戸で獲得した食べ物の余韻に浸る暇もなく、鈴たちは駆け回ることになった。


飢饉との戦だけではない。

病との戦も始まったのである。






---

薬の相談をするため、鈴は一旦実家に帰ることにした。


気づけば一年近く家を空けていた。

もはや怒られることは覚悟の上だった。

久々に実家へ帰ると母は人目もはばからず鈴に抱きついてきた。


「……母上、ただいま帰りました」

母の初は鈴を抱きしめたまま、しばらく何も言わなかった。


やがて母は鈴の体をペタペタと触って、どこにも異常がないことを確かめてくる。

特に異常がないことを確認し、ようやく抱きしめる腕をほどいた。


「喜二郎は『責任は某が取るから好きにやらせてやれ』と言っていたけれど……あなたは女子なのですよ」

仙台城へ談判に赴いたり、江戸まで交渉に出たり。

そのたびに寿命が縮む思いだったのだと母はむせび泣いた。


「そういうことは喜二郎に任せなさい」と何度も言われたが、その喜二郎は今ここにはいない。

母は鈴を家に引き留めようとしたが、鈴は心で何度も謝りながら再び家を飛び出した。


心配をかけていることに胸は痛んだ。

だがもう大飢饉は始まっている。

時は刻一刻と過ぎていた。


祖父も父も家にはいないということは、おそらく仙台城だろう。

どちらかが戻ってきたときに改めて尋ねるしかない。


鈴は門番に銭を握らせ、祖父たちが帰宅したら村の名主の家まで知らせてほしいと頼んだ。


「お爺様も父上も留守だし……薬のことは帰宅を待つしかないね」

それなら今のうちに喜二郎へ書状を書いて送ろう。


「……どこへ行くんだ?」

「叔父上の家」


護衛として後ろを歩くナナシに、鈴は簡潔に答えた。

実家から少し歩いて杉林を抜けた先にある喜二郎の家へ向かう。


鈴は懐から鍵を取り出して錠を外した。

喜二郎の家は生垣と門に囲まれているが本気で押し入ろうと思えば入れなくもない。

もっとも中に金目の物はほとんどなく、わざわざ押し入る価値もないのだが。


「よっと」

畳をめくり、床下に隠してある筆や墨を取り出す。

ちなみに普段は三吉が管理しており、塩釜と仙台を往復するときの拠点にもなっていた。


鈴は手短に現状をまとめ、これからどう動くべきかを喜二郎へ尋ねる内容を書き連ねる。

さらに江戸での出来事も必要な部分だけを書き添えた。


本当なら叔父上の婿養子の話も書き添えたかったが、今は非常時であるので控えた。

手紙を畳んで真田紐で結んで封蝋を施す。


「帰ってきたばかりなのに、六郎太に頼むのは気が引けるよ……」

「仁八に頼め。この村で一番体力があるのはあいつだ」

だが仁八は農民だ。

手形の制約があって藩境を越えられなかったはずではなかったか。


「この前、喜二郎が仙台へ来ただろう。あの時、仁八にも特例証文が発行されたはずだ。……俺はその場にはいなかったがな」


つまり仁八も米沢へ行けるということだ。

おそらく相応の制約はあるのだろう。それでも今はありがたかった。


「じゃあ、帰ったら仁八にお願いしよう」

鈴は筆や墨を床下へ戻して今度は別の畳をめくる。

そこから取り出したのは一つの壺だった。


「……ここは忍びの隠れ家か何かか?」

「普段は人が住んでいるわけじゃないからね。備えだよ」

金目の物はないが保存の利く物はいくつか隠してある。


その一つが砂糖だった。

名主の家に置いておくと蟻が寄ってくるため、ここで保管していたのである。


生姜湯は風邪に効くと聞く。

生姜の辛みで飲みにくいため、砂糖を入れると飲みやすくなるとミクニが教えてくれた。


貴重な甘味であり腐りにくいという利点もある。

だが高価すぎて使いどころに困っていたのも事実だった。

こういう時に使わなければ、それこそ宝の持ち腐れだろう。


鈴は砂糖の壺を抱えながら、よたよたと歩き出した。

それを見たナナシは深いため息をつき、壺をひょいと取り上げる。

そして何も言わずナナシはそのまま鈴の前を歩き始めた。






---

病に倒れる者は日に日に増え始めていた。

潤沢な水を使える名主の村とは違って近隣の村では生活用水にすら事欠くありさまだった。


それゆえに水を求めて人々が名主の村へ集まり始める。

そして人が増えれば感染の広がりも早くなる。


体力のない老人や子どもたちから次々と倒れていった。


「どうしよう……」

生姜湯に砂糖を加えて飲ませると、その場しのぎにはなった。

だがそれは腹にたまる物ではなく熱が下がるわけでもない。


対症療法には限界があった。やはり薬が必要だ。

このまま感染者が膨れ上がれば、いずれ手に負えなくなる。


鈴は未来のことを思い出す。

堰を作った未来では餓死者こそいたものの、この病はもう落ち着いていたように見えた。

新堰のおかげで、きれいな水だけは確保できていたからだろう。


だが、本当にそれだけだったのだろうか。

……何か他にできることがあるはずだ。


そういえば――未来の自分は、この時何をしていたのだろう。

鈴は小さく咳き込んだ。


「ごほっ……」


喉がひりつく。

その瞬間、背筋を冷たいものが走った。


ぞっとする。


(――そうだった)

自分は未来へ行けた。


時を越えてその時代へ行ける条件は、そこに鈴が存在していないこと。


つまり――。

未来の自分は。


少なくとも最初に訪れたあの未来では、あと一年以内に死んでいる。



病の未来を変えられなければ、もしかすると自分は――。




(叔父上の手紙を待っている時間はないかもしれない……)

お爺様に薬の作り方を教えてもらおう。そう決意したその時だった。

名主の家に実家の門番が駆け込んでくる。


「おりん様!」

祖父が帰ってきた――その知らせだった。

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