埋伏
「……」
肌寒い夏の日、三吉の顔からは汗が止まらなかった。
決してこの蕎麦屋の店内が暑いからというわけではない。
「ほう。こんたなかなかうめじゃらせんか」
「ふむ、儂のように節制している身としては馳走でござる」
「何をおっしゃいます殿。これは一汁一菜でございますよ」
島津藩主、仙台藩主、薩摩家老、そして清右衛門。
蕎麦をすすっているその後ろでなぜか自分が控えていた。
「え!?叔父上を婿養子にする話だったんだ!」
「んん!断られちゃった残念ー」
隣の席では娘たちが和やかな会話をしている。
(できることなら俺もあっちに行きたいぃ……)
薩摩藩邸の門の前で話し合いをしていたら、いきなり薩摩藩主がやってきて蕎麦を食いに行くと言い出した。
おそらく、これも何らかの交渉の結果なのだろう。
藩主二人と清右衛門は菅笠をかぶって店に来ている。
護衛の人たちは無言のまま同じく菅笠で目元を隠して藩主の後ろに控えていた。
三吉は仙台藩主と護衛に挟まれ棒立ちのまま固まっている。
「して、こんかまぼこのどこが鮫製品なんじゃ」
「三吉。説明を」
「は、はいぃ」
清右衛門に促され三吉は引きつった笑顔で話し始める。
鮫のどの部位を使うのか、かまぼこの作り方、気を付けること。
あらかじめ仙台藩主と清右衛門には話がついており、話してよい部分はあらかじめ線引きされていた。
鮫製品について作り上げたのは三吉と喜二郎だが、喜二郎からはこういう時には遠慮なく作り方を売っていいと言われていた。
話さなければ、どんな手を使ってでも手に入れようとしてくるかもしれない。
そんな風に言われたら喜二郎の言葉に従うほかない。
それに今回の製法で仙台が「半年食えるだけの芋」が供給されるそうだ。
しかしなんで半年分?と思わなくもなかった。
以前、江戸で商売したときは仙台の民が一年食えるだけの米を確保できたのに。
(まぁ味噌も塩も使わず、鮫製品だけでそんだけ交換できたってのは誇っていいんじゃねぇ? 俺たち)
あの時は江戸中を巻き込んだ商売だった。
今回は薩摩一藩との取引なのだから、そう考えれば十分すぎるのかもしれない。
くそ。
こんな緊張する場所じゃなければ喜びのあまり海に飛び込んでいたというのに!
すると清右衛門が笑顔のまま交渉を始める。
「しかし薩摩殿、貿易で鮫製品は莫大な利益が出るというお話。芋半年分では割に合わないのではありませぬか」
お、よく言ってくれた。
言ってやれ清右衛門の旦那!
「ないをゆちょっ、技術者を引っこ抜っわけじゃなかとだ。そん差を考ゆれば妥当であっど」
(ちょっ……!)
びくり、と三吉の方が震えた。
どうやら自分を薩摩へ売ればさらに半年分ほど芋が増えたらしい。
いくらなんでも薩摩行きは嫌である。
(俺には駆け引きが分かんねぇ……助けてくれよ、リン。リーン……!)
鈴に視線を送るが彼女は気づいているのかどうか分からなかった。
鈴とミクニはおいしそうに蒲鉾を食んでいる。
……こりゃあ気づいていない。
ちなみに今回差し出したのは蒲鉾と鮫革の製法だ。
鮫油の作り方はまだこちらが握っており、その正確な製法はまだ喜二郎と三吉しか知らない。
「父上ー、私としては美容用の油の作り方の方が欲しかったんだけれど」
ミクニがそう口を尖らせる。
島津藩主は苦笑い気味に肩をすくめた。
「今は清と琉球に高う売るっ技術が先じゃ、我慢せぃ」
「茂にも必要だと思うよ? ほらほら、将来的にさ」
どうやら美に対する執念は女共通らしい。
喜二郎が絶対に売れる、と言った鮫油の技術だったが三吉はあんまり信じていなかった。
なにしろ一番苦労したのがこの鮫油である。
八年も費やして作り上げた技術だった。
もし「価値無し」と言われていたら本気で泣いていた。
比較的作り方が簡単なかまぼこは江戸について早々この太田庵にほとんど卸してた。
実物が見たいということで再度この蕎麦屋に足を運んだのである。
(……帰りたいぜぇ)
薩摩藩主と清右衛門は三吉にはよく分からない言葉を交えながら話している。
仙台藩主はその横で時々口をはさんでいるので、おそらくお侍様には通じる会話なのだろう。
三吉は時折飛んでくる質問に胃を痛めながら一つひとつ答えていった。
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「大丈夫、三吉?」
「ああ……。いや、生きた心地がしなかったぜぇ」
げっそりした三吉をいたわりながら鈴たちは商店街を歩く。
薩摩藩との交渉では鮫製品を仙台藩から引き渡すことになっている。
薩摩藩は例年通り堺で船を下りてから徒歩で参勤交代を行っているが、芋などの物資だけは船で運び込んでいるらしい。
そのため鮫製品との交換は船着場近くの倉庫で行われることになった。
つまり鈴たちの江戸での役目はもう終わりである。
「あとは私たちの自腹でどこまで食材を買えるかだね」
「この前の七夕やら何やらで荒稼ぎしたもんなぁ」
鈴と仁八、トシが売った鯉料理と味噌料理。
三吉とナナシが売ったオカメ蕎麦。
使い道に困っていた砂糖のおかげで評判となり、かなりの銭を得ていた。
「そういえば敏郎と父上が店を出していたと聞きました。そのことですか?」
一瞬誰のことかと思ったが、敏郎とはトシの本名だった。
しかし鈴はそれよりもつっかえていることがある。
「六郎太……話しづらいから、この面子のときは口調戻してよ……」
六郎太は苦笑しながら咳払いをした。
「わかった。で、ナナシも蕎麦を打ったと」
「甚だ不本意だったが」
菅笠に隠れて表情は見えないが、おそらく眉間には深い皺が寄っている。
「似合ってたよ」
「……不本意だ」
鈴が褒めるがナナシはさらに肩を落とした。
「その銭でオイラたちは何を買うんだ?」
六郎太が指で輪を作りながら尋ねる。
うーん、と鈴は少し考えた。
「やっぱり蕎麦かな。一番日持ちしそうだし」
「実のまま買うなら、粉にする手間もあるじゃねーかぁ。だったら根菜類だろぉ?」
「割高でも米の方が安心感がある。市場になくとも、大店なら交渉に応じてくれるだろう」
鈴、三吉、ナナシがそれぞれ意見を述べる。
「全員、意見がバラバラじゃねーか」
六郎太は呆れたように肩をすくめ、懐から一枚の紙を取り出した。
「それは?」
「お前らがお奉行様に駆り出されてる間、市場を調べといた」
「六郎太、すごい!」
鈴は思わず声を弾ませた。
「褒めるなよ」
六郎太はそう言いながらも口元は少し緩んでいた。
鈴はその紙を受け取り頭の中で値段と量を計算していく。
「六郎太の調べだと……一番買えるのは蕎麦。次が根菜類。米は無理そうだね」
去年と比べて米の値段は四倍近くまで跳ね上がっている。
これでは手も足も出ない。
「蕎麦を多めに仕入れて根菜類は安いのを片っ端から……ってところだな。三吉、塩はどれくらい持ってきた?」
「一応、大瓶二つ分はあるけど……足りるもんかねぇ?」
三吉と六郎太が首をひねる。
「じゃあさ。先に塩を売った銭で蕎麦を買って、残った銭で保存できるだけの根菜を買うのはどうかな?」
「それだ、リン」
六郎太が指を鳴らした。
三吉もナナシも異論はなさそうである。
「よし。それじゃあ売っている場所を調べて調達しよう!」
鈴たちは道行く人々から情報を集めながら仙台の命綱となる食料を買い集めていった。
――その日の夕方にもまた米の値が上がったという噂が広がり始めていた。
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「文を送っで……んん! 文、送るからね。リン、元気でね!」
「うん。ミクニも風邪ひかないでね」
江戸を発つ日、ミクニは見送りに来てくれていた。
仙台藩と薩摩藩は遠く離れている。
次に会える機会はそうそうないだろう。
別れを惜しみながら鈴は船へと乗り込んだ。
「なぁ、六郎太ぁ。あっちは感動の別れなのに、こっちは最後まで修羅場なんだけどぉ………」
芋の受け渡しを終えた薩摩と仙台の家老たちは固く手を握り合っていた。
南蛮風の挨拶らしい。
――というより、握り締めすぎて互いの手に血管が浮き出ている。
三吉のつぶやきを、六郎太が肘で小突いてたしなめた。
「ともあれ当座の食料は確保できました。あとは倹約しながら産業を発展させていくだけですね」
「そう上手くいけばいいんだけどなぁ……」
仙台藩の者たちを乗せた船はやがて静かに出航した。
姿が見えなくなるその時までミクニは岸辺で手を振り続けていた。
「いい娘だったなぁ。本人いねぇところで縁談始まって、本人いねぇところで終わっちまったけど」
「そうなっていたらキジ兄はどうしたんですかね。薩摩に行ったのでしょうか」
三吉と六郎太が例の縁談話を思い返す。
本人のいないところで話が持ち上がって破談になった。
うまくいけば玉の輿だったのにと二人は笑い合う。
「……あの交渉は危うかった」
ぼそりとナナシが呟いた。
「薩摩に喜二郎を取られていれば仙台の発展はおろか、米沢との関係も悪化していたやもしれん」
喜二郎を仙台に留めた藩主の決断をナナシは高く評価しているようだった。
それほど危うい交渉だったのだろうが庶民である三吉と六郎太には実感が湧かなかった。
「叔父上が結婚かぁ。そういえば、なんで結婚してないんだろ?」
喜二郎はもう二十七歳だ。
次男坊とはいえ、このままでは独り身のまま一生を終えてしまいそうである。
「リンの家のことだろ? 何か知らねーのか?」
「うーん。実は叔父上のことをよく知ったの、あの家ができてからなんだよね」
幼いころはよく遊んでもらった記憶がある……あれ? なんでだろう、ところどころ思い出せないところがある。
というより、まともに顔を合わせて話したのはこの前の仙台城が初めてじゃなかったか?
「嫁より仕事が好きなんじゃねぇか?」
「それは、否定できませんね」
三吉の軽口に六郎太が苦笑いする。
それきり喜二郎の昔の思い出は霧散していった。
それ以上その話題は続かなかった。
船旅は順調である。
時々蕎麦の実の様子を見に行ったが、こちらも何とか食べられる状態で持って帰れそうだった。
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そして数日後。
懐かしき曇天の空が船の上を覆い始めていた。
「見えてきたぞー!」
船首から船乗りの声が響き渡る。
数日の船旅を終え、ようやく仙台の港が見えてくる。
帰ってきたのだ。仙台に。
「今回は船だったから、すごく楽だったね」
「まったくです」
六郎太の他人行儀な言葉遣いを鈴はじとりと横目で見る。
六郎太は咳払いをひとつした。
「……まったくだよ」
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港には多くの人々が詰めかけ、一行を出迎えてくれた。
倹約令が発布されてからというもの、食事は侘しいものになっている。
働いても畑は実らず山へ入っても食えるものは見つからない。
倹約令のせいで町の商売も細っており、人々の顔から笑みは消えつつあった。
そこへ江戸から免税許可と食料を得てきたのである。
藩主たちに期待が高まっているのも当然だろう。
(でも……何か変だ)
鈴は気になったことがあった。
港を離れると人通りは急に少なくなったからだ。
飢饉だから家に籠っているのだろうか。
それと江戸へ出立する前はなかった異臭が、ほのかに漂っていた気がしたのである。
どこかで嗅いだことのある匂いだ。
しかしどこだったか思い出せない。
「リン、ほら降りろ。荷物につぶされるぞ」
六郎太に促されて鈴は慌てて陸に上がる。
気になったが荷物の積み下ろしに忙しくなり、すぐにそれどころではなくなった。
一通り荷物の陸揚げが終わり、鈴は集まってくれた農民たちに積み荷の運搬をお願いする。
しかしこの港って江戸と比べると小さい気がするなぁ。
一度に船が横付けできないので船が後ろで団子になって連なっている。
そんなことをぼんやり思っていると後続の船に乗っていた清右衛門たちが降りてくる。
荷揚げの報告を受け終わった清右衛門に挨拶に行き、世話になった礼を述べた。
「近々、配給について触れがあるだろう。それで来年まで持たせるよう村を説得するのだな」
そう言って清右衛門は去っていった。
重村は家老たちに囲まれており、鈴たちと話すこともなく去っていた。
本来なら目を合わせることも憚られる身分差だ、当然である。
「……?」
ふと顔を上げると、祖父の林什吾が生気の抜けたような表情で街並みを見渡していた。
それは諦念のような何とも言えない表情だった。
鈴と目が合う。
何かを言いかけたように口を開き――結局、何も言わなかった。
そして家老たちの後を追うように歩き去っていく。
鈴は什吾のことをよく知っている。
子どもの頃によく遊んでくれたのは祖父だった。
だが時間の行き来をした後の什吾は、鈴の知る什吾とどこか違うような空気を漂わせていた。
「こほっ……」
誰が発したのかわからないその咳き込みの音が、鈴の耳にいつまでも残っていた。




