ネズミの尾のごとき稲
年が明け、季節的には春が近づいてきた。
餓死者が出るのは冬よりも春の方が多い。
しかし今年は食料をある程度備蓄できていたので、今のところ農村では落ち着いている。
(それでも今年は田起こしがいつもより遅くなったって、名主さんが言っていたんだよね)
鈴はその言葉に不安を感じながら、用水を引く作業を手伝う。
今年は例年に比べ、積もった雪がなかなか溶けなかった。
今年から参加した鈴よりも、農民たちの方がその不安を感じていたのかもしれない。
農民たちが畑を耕し、苗を植える手つきが妙に落ち着きがない気もする。
農村で田植えの指揮を執るのは名主だが、今年は鈴もその横に控えて様子を見守っていた。
「米作りって大変なんだね」
「さよう、一粒のありがたみが分かったか?」
田畑の広さに対して割ける人員、水の量、予想の収穫量、年貢として納める数。
そこからどれくらいの米が残り冬を越せるか否かの判断をするのが、名主代行の鈴の仕事だ。
これが予定通りに行けばよいのだが、だんだんと予想からずれていくのが難しい。
万一予想から大きく外れた場合、生き残る術を事前に見つけているかどうかで名主の心労負担の度合いが変わるのだという。
ちなみに鈴が育てている蕎麦畑は名主の家の裏手と、喜二郎の家の周りに作っていた。
味噌作りも順調で、以前から保管していた味噌と合わせると300石以上の味噌を確保している計算になる。
(やっぱり、農村の方が味噌の消費が激しいんだよね)
味噌はお湯に溶かすだけでも腹持ちが良い。
しかし、武家社会では当たり前に食べていた米を農民は雑穀を混ぜて食べるので、その分味噌の消費も多かった。
(でも米をほとんど使わずに、この冬を乗り切れたのは大きいんじゃないかな)
米の確保量と合わせると、数年は耐えられるだけの備えになっているはずだった。
飢饉がいつ来るか分からない。
だが飢饉がこないのであれば、その分備蓄を増やしていくことで安心を積み上げていくことができる。
もし蔵に入りきらないくらいになったら、また江戸に売りに行けばいい。
いやいや、ここは念願のお酒を造って飲んでみるというのも悪くない。
いずれにしても蔵に収めている限り、最強で可愛い門番・モチやミカンたちがどんな敵からも米や作物を守ってくれるだろう。
あとは芋の栽培がうまくいけば文句なかったのだが、こちらは今のところ難航している。
薩摩からもらった芋は半分は育たず、四苦八苦して何とか最初と同じだけの芋の数に戻すので精いっぱいだった。
今度、薩摩藩の人に会うことがあったら育て方教えてもらおう。
「リンー! お客さん来ているよー」
「わかった。今行くね」
トシの呼びかけを聞いて鈴は名主の家に向かう。
色んな産業をやっていくと、面白いことに商人の方から訪ねてくるようになった。
備蓄に回す味噌や米は品数にいれなかったが、塩と鮫製品はよく売れた。
――そして、夏に差し掛かる。
肌寒さを感じながら灰色の空を見上げた。
曇天の雲が、今年も空を覆っている。
夏が来たというのに風はどこか肌寒かった。
そして今年も、渡り鳥はやってこなかった。
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農民たちが畑仕事の手を止め昼食を広げる。
鈴も輪の中に加わり、皆の話を聞きながら干し芋をかじった。
日ノ本が生んだ最高傑作――おにぎり。
それが食べられないことが、これほど不便で苦痛だとは思わなかった。
だが夏が半ばになったころから、そんなことを考えていられなくなる。
稲がまったく育たない。
水が足りないのだろうか、と鈴が首をかしげるが名主は「違う」と首を振る。
「空だ」
空はどこまでも曇っていた。
鈴が未来で何度も見上げた、あの空だ。
名主によれば、日の光を浴びることで稲はすくすく育つ。
だがこうも曇り続きだと、稲は育ちにくいらしい。
夏だというのに朝には畑の端が白く凍る日さえあった。
梅雨の湿った曇り空とはまるで違っていた。
(大丈夫。……しっかり、準備はしてきたんだから)
それでもこの空を見上げると、言葉にできない不安が押し寄せてくる。
猫を送ってもらって以来、喜二郎にはたびたび助言をもらっている。
販路の開拓や他藩との交流の仕方。
農業の仕組みや人との関わり方。
すべて文でのやり取りだったが、不安になるたび鈴は喜二郎へ文を書いた。
農民たちとの話し合いは今でも骨が折れる。
この時期になると昨年収穫した作物が底をつき始めていた。
(でもカテモノのお陰で、なんとか今までやってこれたんだよね)
名主の村では山菜や木の実や川魚など、食べられるものを探す習慣が根付き始めていた。
その評判は近隣の村にも広がり、会合ではよく声をかけられる。
「本当に米を食わずに暮らしているのか」
「蕎麦だけでやっていけるものなのか」
そんな問いを向けられることも増えた。
質素倹約。
鈴の暮らしぶりを見て、農民たちも少しずつ心を開いてくれているようだった。
そして夏が過ぎ、秋に差し掛かる。
この一年ほとんど雨が降らなかった。
実った稲はネズミのしっぽのような穂先であり、まともに食える米はわずかである。
鈴は胸の奥がすっと冷えていくのを感じた。
未来で見た景色が、いま目の前にある。
――天明の大飢饉が始まったのだ。
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豆が来ない。
喜二郎からの文でその知らせを受け、一番動揺したのは芳だった。
「これまでにいっぱい味噌を作ったけど……あっちも飢饉なのかしら」
今年は米沢から豆を仕入れての味噌作りは難しい。
飢饉の被害は想像以上に広範囲に及んでおり、陸奥の国全域に及んでいたからだ。
あらかじめ対策を講じていた米沢藩や白河藩には、おそらく備蓄もあるだろう。
だが、この飢饉はおそらく長引く。
「叔父上の文によると、米や豆のほかに雑穀も取れなくなっているんだって」
冬にはまだ早いはずなのに凍えるような寒さが続く異常気象。
空は曇天ばかりで、晴れた日は今年に入って数えるほどしかなかった。
鈴たちは昨年買い込んだ備蓄の米を早くも放出し始めている。
「近隣の村には米を配給しているけど……足りるかな?」
「今のところは問題ないが……仙台藩全域となってくると一年も持たん」
鈴の疑問に、名主が苦しげにつぶやく。
時折せき込む様子を見ると、気丈にふるまっていても無理しているのが分かった。
名主の体調はあまり芳しくない。
本当なら休んでいてほしかった。
だが今後の方針を決めるため、会議に顔を出している。
「米はあまり放出しない分、味噌は結構多めに配っているけど……」
「昨年、江戸に味噌を売っているし。今年作った分を含めても万全とはいいがたいわね」
鈴はこの飢饉が少なくともあと二年以上続くことを知っている。
雑穀を味噌汁とともに食べれば腹持ちはよくなるが、雑穀自体の収穫がそもそも激減しているのだ。
先日、仙台藩の役人が来た時の絶望的な顔を今でも忘れられない。
「今年の年貢は免除になったけど、藩からの配給もないしね」
そう言ってトシが眉根を寄せる。
仙台藩では今、食糧そのものが尽き始めていた。
藩の依頼を受けた商人たちが死に物狂いで他藩からの買い付けを進めているらしい。
だが、人との繋がりはそう簡単に築けるものではない。
元々火の車だった藩の財政は、ここにきてかなり危うい水準に達しているようだった。
そして財政難に食糧難まで重なれば、待っているのは破綻しかない。
「リンのお陰で去年ある程度の豆は確保できているから、味噌そのものは作れるんだけど……」
芳はそう言って、肩を落とす。
昨年、飢饉になった時に味噌作りが滞らないように鈴は色々な藩から豆を買い付けた。
昨年の七夕で稼いだ銭と、他藩に鮫製品と塩を売って手にした資金が元手だ。
しかし質の良い米沢産の豆と比べると、各地から集めた豆は玉石混交だった。
「今年は……ううん、しばらくは良い豆だけを使って味噌作りしよう。品として出せない豆は、家庭での味噌作りに使うか穀物の代わりにするしかないよ」
今年は江戸への米売りもなくなるらしい。
当然だろう、売る米が全くないのだから。
江戸に船が行かないので、味噌を売って米を買うというのも今年はできそうにない。
計算した限りこの村だけであれば五、六年飢饉が続いても耐えられるだけの蓄えがある。
だが、仙台藩全てを賄うだけの食料には程遠い。
全員が重苦しくうつむいた。
(あの未来は、どうやって避ければいいのかな……)
鈴はこの大飢饉で仙台の半数近くが餓死者を出すことを知っている。
未だ出ない答えに、鈴の表情は曇った。
誰も何も言えなかった。
今できることは、もう残っていない。
そんな沈黙を遮るように、三吉の声が外から響く。
ドタドタと慌てた様子で、鈴に手紙を差し出した。
「リン、文が届いているぜ。しかも二通」
「え……? どこから?」
訝しげに一通目の手紙を受け取り、パラリと開く。
それは鈴と喜二郎に宛てられた、仙台藩からの召喚状だった。
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仙台城の客間には、鈴と清右衛門だけが向かい合って座っていた。
重苦しい沈黙の末、清右衛門が深々と頭を下げる。
「米を、売ってくれ」
あの仙台藩の重鎮が、誇りをかなぐり捨てて一人の娘に頭を下げていた。
――あの時の手紙は、清右衛門の直筆の召喚であった。
商売の話がしたいと書かれた内容だったが、どのような内容かは予想がついていた。
鈴は表情を引き締め、尋ねた。
「……いかほど、お求めですか」
「すべてだ」
凍り付く表情を必死に抑えた。
短く答えられたその言葉に、息をのまないものがどれだけいるだろうか。
鈴は深く理由を尋ねる。
「今年の収穫が壊滅的だったことは、清右衛門様もご存知のはずです。……その米を全てお渡しすれば、私たちも生きてはいけません」
「このままではお主たちを除く、仙台藩すべての人間が飢え死にする」
顔を上げた清右衛門は、苦悶の表情で鈴を見つめる。
聞けば商人たちの甲斐もなく、ほとんど食料を調達できていないそうだ。
仙台はおろか陸奥の国の全域を飢饉が襲っているらしい。
どこも食料不足であることは、想像に難くない。
「昨年まで、儂はほとんどの米を江戸に売り払っていた」
無論それは承知している。
仙台藩の財政が火の車だったからだ。
だが、と清右衛門は続ける。
「財政どころではない、生きるか死ぬかだ。儂の政策のせいで何万、何十万という民が失われてしまう」
再起不能の傷を負うわけにはいかない、と清右衛門が顔をゆがめた。
かつて鈴は、飢饉への備えを進言したことがあった。
だが当時の仙台藩には、備蓄に回す余裕などなかった。
清右衛門は財政の立て直しを優先せざるを得なかったのである。
(だけど、私はその米を買った……)
鈴は商売によって得た利益で米を買い、備えとした。
仙台で大量の米を持つのは、名主が治める村をおいて他にない。
飢饉が来ることを様々な人へ伝え、匂わせても「まだ先だ」と一蹴され相手にされなかった。
思えば「飢饉が来る」という話を最初に信じてくれたのは喜二郎であった。
あの出会いがなければ、鈴も今頃は清右衛門と同じような表情をしていただろう。
二通目の手紙……五郎八姫という方からだ。
この危機に際して喜二郎を仙台に戻すことを掛け合ってくれているらしいことが、そこには書かれていた。
五郎八姫は伊達重村の子らしい。
……読み方はゴロウハチ姫で合っているよね。すごい名前だ。
もちろん鈴には面識がなかったが、喜二郎と強い繋がりのある鈴に事情を知らせるくらい事態が差し迫っているのだろう。
だが五郎八姫の手配があっても、喜二郎はこの場に来れなかった。
(そういえば、どうして仙台藩は叔父上を在野のまま放っておいたのかな……?)
彼が成し遂げてきた施策は、それほど幅広く影響力もある。
実は以前から喜二郎に注目してはいたのかもしれないが、彼が仙台藩の家臣であったことはない。
そして彼はいま米沢だ。
この未曽有の危機に、彼の実力を認めている米沢藩が手放すとは思えなかった。
(叔父上がいない以上、私たちが仙台を守らなきゃ。……でも、お奉行様たちも良い手があるわけじゃなさそうなんだよね……)
藩という大きくなりすぎた問題、仙台藩全体では賄えない米。
喜二郎なら何か腹案を出せただろうか。
この未来に向けて今まであらゆる策を講じてきた彼なら、何か方法を思いつけただろうか。
(……私には思いつかない。もう、私の知っている未来に近づいてきているのかもしれない)
清右衛門がこちらの返事を待っている。
頼み事と言いながら、有無を言わせぬ光がその眼には宿っていた。
「……私だけの米ではありません。叔父上たちにも相談しなければ」
「喜二郎殿は、なんとしてでも仙台に連れ戻す」
聞けば昨年から戻らない喜二郎を戻すよう、清右衛門も働きかけているそうだ。
鈴は驚く。五郎八姫という人物以外にも、喜二郎を評価している人が目の前にいたようだ。
「……しかし喜二郎をしばらく預かるという名目で、相応の銭を積まれたのが痛恨であった」
清右衛門を除く奉行たちは嬉々として喜二郎を米沢藩に貸し与えてしまったらしい。
清右衛門の焦りようがよく分かった。
「それがこの結末である。もはや一刻の猶予もない」
「……」
即断できる問題ではない。
あの米はみんなの十二年の努力の結果、手にした財産なのだ。
いくらお奉行様の頼みとはいえ、おいそれと渡すわけにはいかない。
無言を貫く鈴に、清右衛門が低く言葉を投げかける。
「……儂は奉行だ。この状況であれば、強制的に徴税することもできる」
びくり、と鈴の身体が震える。
それは今まで感じたことのない威圧だった。
客間が静まり返る。
鈴は返す言葉を失った。
「……だが、それをしたらお主たちは二度と藩を信じぬだろう。あの米は、お主たちが必死になって手に入れた財産だ。その重みを儂ほど知る者はおらぬ」
すっ、と清右衛門は血判を押した証文を差し出した。
「お主がいる村の税を十年免除する、お主たちの村を最優先で復興させる。それで考えてはくれぬか?」
あの清右衛門が譲歩した。
差し出された証文には一字一句乱れぬ文字が並んでいる。
誤りや偽りなど、まったく感じさせない筆跡だった。
「……村のみんなと相談する時間をいただけますか?」
「すまぬ。儂にできることがあれば、なんでも相談してくれ」
鈴が退出するとき、鈴の目に映った清右衛門は先ほどまでより十歳ほど老いたように見えた。
鈴は憂鬱な気持ちで、ナナシとともに名主たちが待つ村に戻っていった。




