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天明絹一揆

「なに、これ……」

遠くから、雷鳴が響き渡る。


空は曇天、なれど雨粒は一つも落ちてこない。

雷鳴は鳴りやまず街道を揺れ動かす。

道行く人はその雷鳴の発信源にむかって我先にと駆け出していく。


雷鳴の発信源は空ではなく陸に在った。




「最悪だ、逃げるぞ!」

ナナシが叫ぶ。


誰も彼もが怒り狂っていた。


周囲は怒号と混乱に飲まれ、正気を保っている者はほとんどいなかった。

何が起こっているのか、状況を把握する暇すらない。


(でも……この眼を、私は知っている)


飢えた人間が、生きるために他人から奪おうとするときの眼だ。

どうして―――いや、今この瞬間なのだろうか?


(大飢饉による暴動が、発生した……?)


早すぎる、と鈴は思った。

だがいつ発生するのか、鈴も正確に知っているわけではない。


二年以内に発生することが分かっているだけで、いまこの時から大飢饉が始まってもおかしくないのだ。


「こっちだ、走れ!」

ナナシは山間を目指して街道を避けるように走り始める。


人波が濁流のように街道を駆け抜けていく。

誰もが血走った目で前だけを見据え、わき目も振らず突き進んでいた。


向かう先にあるのは、鈴たちがさきほど出発した宇都宮城。

すると彼らが来たのは高崎藩の方向だろうか。

鈴は裾をつまんで一生懸命走るが、次第に足がもつれ始める。


「あっ……」

人とぶつかり、鈴は背負っていた風呂敷の中身を落としてしまった。


絹の反物。

人の波からそれに反応したのは、どこにでもいるような農民だった。


「おめぇら、商人かぁああ!」

「ひ、ぃ……!」

その怒声に、周囲の何人もの顔が一斉にこちらを向いた。


「商人だ!」

「逃がすな!」


人波が鈴たちへ雪崩れ込んでくる。

鈴は足に力を入れようとしたが、動かない。


何か、誤解があるのではないか。

話せば、怒りを収めてくれるのではないか。


(こ、声が……)


なだめることも、説得することも、動くことすらできない。

その様子を見てナナシが彼らの前に立ちふさがった。



「六郎太、武術の心得は」

「ねぇ!足手まといだ」

「承知、先に行け」

六郎太は鈴を担ぎ、その場を離れる。


ナナシの背中が遠くなっていく。

動けなかった、声すら出せなかった。


(なんにも、できなかった)


これまで権力者とよばれる人たちに、何度も対峙してきた。

だが本気の殺意を向けられた時、鈴は何もできずにうめき声をあげることしかできなかった。


こんな世界になることを避けるために、鈴はこれまで頑張ってきた。

けれど本物の暴力を前にした瞬間、その積み重ねてきた自信は一瞬で粉々に砕け散った。





---

人々の喧騒を避け、鈴と六郎太は宇都宮城を一望できる丘に来ていた。

「これは……しばらく収まらなそうだなぁ」

うつむく鈴に、そう六郎太は軽く言う。


(……間に合わなかった)


知っていたはずの天明の大飢饉が、始まってしまった。


もうあの未来は嫌だ。

そう思って今まで必死になって来たのに。

今度は、鈴のために残ってくれたナナシさえも見捨ててしまった。


自分には何もできない現実が鈴を苛んでいた。

ポリポリと六郎太が頬をかく。


「とりあえず様子を見ようぜ、ナナシなら大丈夫さ」

「……」

鈴は何も言えず六郎太を見つめる。


様子を見るしかないのだろうか。

自分にできることが何か、あるのではないだろうか。


鈴は必死にこれまで経験してきた知識を総動員させたが、時間は刻々と過ぎていく。

しばらくすると、ナナシは何事もなかったように返ってきた。


「ナナシ! 無事!?」

鈴はペタペタと怪我がないかナナシの身体を確かめるが、傷らしきものはなかった。

鈴はホッと胸をなでおろす。


「事情は分かった。絹を巡る一揆だ」

ナナシがそう告げる。


彼らは高崎藩の人間で、宇都宮藩は巻き込まれた形の一揆らしい。

六郎太が何とも言えないような表情をする。


「一揆……しかも絹が原因なんて、笑えないな」

食い物ではなく銭が原因でも一揆が起こる。


衝撃だった。


いや、思い返せば思い当たる節がある。

どの藩も困っていたのは食料ではなく銭だったことだ。


ならば、一揆の原因が銭であっても不思議ではない。

私たちはこの一揆を前に何ができるのだろう。



「ねぇ、私たちにできること、ないかな」

「「ない」」

鈴の問いに二人が間髪入れず答える。


「もうこうなった以上、オイラ達にできることはないよ」

「宇都宮と高崎が落ち着くのを待つか、迂回して他の藩から仙台を目指すべきだ」

一揆は起こってしまえば、もう個人では止められない。


税を決めたのが幕府なら、止められるのも幕府だけ。

少なくともナナシも六郎太もそう考えているようだった。

鈴は丘の下の光景を見つめた。


―――何もできない。


その事実だけが、胸の奥に深く刻み込まれていった。





---

大田原藩まで、鈴たちは黙々と歩いた。

いつもは明るくふるまう六郎太も何も言わずに先を目指す。


重苦しい空気が漂う。

人のできることには限界がある。

誰も口にはしなかったが、その現実だけが重くのしかかっていた。


(あの未来だけは嫌だ………絶対に嫌だ……!)


誰かを犠牲にして生き延びるしかない世界。

そしてそれが「当たり前」になってしまった未来。


あの未来を変えるため表舞台に立った。

それこそ勇気を振り絞り、あらゆることをやってきたつもりだった。


(だから、今まで……頑張ってきたのに)


あの未来では一揆が起きていたのであろうか。

生気の失われた目の中にある、あの暗い光。

あの怒りと絶望と悲しみを煮詰めたような眼差しが、今も鈴の心に棘となって刺さり続ける。




「食事にしよう」

いつもは六郎太か鈴が言い出すその言葉を、ナナシが言う。

そういえば、もうすぐ日暮れだというのに何も食べていない。


でも、食欲がない。

すまねぇ、と六郎太が自分自身の頬を叩く。


「今できることを精一杯やるしか道はないんだ。切り替えなきゃな」

六郎太は鍋を担いで水を汲みに行く。

鈴は無言のまま頷き、石と木を集め竈を組み立てていく。


「……」


どうすればよかったのだろう。

何かできることが、あったのではないか。

でもそれは、いったい誰のために……何のためにできたことなのだろうか。


鈴が一人ではできないことも今まで仲間と乗り切ってきた。

だから、きっとどこかに方法があったのではないだろうか。


(叔父上なら……)

喜二郎ならどうにかできただろうか。

村の諍いも綺麗に収めてみせた喜二郎ならどうしただろうか。


―――思い浮かばない。


鈴には圧倒的に経験が足りない。

過去を、そして未来を知っているはずの自分がこれほど無力なのだとは思わなかった。


カチカチと火打ち石が鳴り、竈に火が灯った。

水を汲んできた六郎太が「ありがとな」と言って、鍋を火にかける。

野草を切る音とぐつぐつ音を立てる鍋を前に、鈴は膝を抱えて炎を見ていた。


(切り替える、切り替えなきゃ)

頭では何度もそう思っている。


でも、切り替えられない。

未来の怨嗟が、現在の恐怖が、鈴の髪を引っ張って離さない。


どれくらい時間が経ったのだろう。

静かな鍋の水面に泡が湧き始めた。


六郎太は立ち上る湯気を手の平で確かめながら、摘んできた野草を千切りにして鍋に振りかける。

今日は鍋の上にヤカンが乗っており、鍋からはすでにぽこぽと泡が噴出していた。


珍しい。六郎太が鍋とヤカンを使うなんて。

最初にそばを湯がいたとき以外、いつも鍋だけだった。


鈴はぼんやりとしながら、吹きこぼれる鍋をじっと見つめていた。




「できたぞ」

六郎太は鈴に椀を差し出すように手を伸ばす。


いつの間にか日は暮れていた。

焚火の明かりだけが鈴たちを照らしている。


「……」

六郎太が差し出す手を、鈴はじっと見つめた。


(食欲が、わかない……)

いらないとは言えない。貴重な食料だ。


でも食べたら、その貴重な食料を吐いてしまう気がする。

あれほど執着していた食事のはずなのに。


――今は毒を飲み込むのを覚悟する気持ちだった。


懐から取り出した椀を、鈴は六郎太の手に渡せずにいた。

鈴がまごついていると、六郎太がふっと笑って鈴の椀を奪い取る。


「キジ兄がな、オイラが落ち込んだ時によく作ってくれたんだ。スズ姉も馴染み、あるだろ?」

六郎太が鍋の蓋を開ける。


嗅ぎなれた、いい匂いがした。

椀によそわれたのは、野草が散らされた白米。


その上に味噌玉が乗っかっている。

鍋の上に置いていたヤカンのお湯をその味噌玉に回しかける。


それは過去に行ったとき、いつもふるまわれていた雑炊だ。


「貴重な米、使ってくれたんだね」

「貴重なもんは、こういう時に使わないとな」

六郎太はナナシの分もよそって渡す。


食欲などなかったはずなのに、鈴の腹がぐうと鳴った。

その匂いにつられ、鈴は一口すする。


懐かしい味がした。

あの頃と同じで、絶望的な光景を目の当たりにしたあとだった。


『おいしいでしょー!』


その時、笑いかけてくれた女の子に鈴がどれだけ救われたのだろうか。

ふと顔を上げると、六郎太とナナシが同じほほえみをしていた。


―――あたたかい。

あたたかいなぁ……。



「……おいひぃ」

ぽろぽろと涙を流しながら、鈴はそれを一口一口味わっていった。

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