章末:遥か遠方より来たれり
水平線へ、大船団がゆっくりと消えていく。
それを鈴とナナシは岸辺から見送っていた。
「いっちゃったね」
鈴はつぶやく。
手形は間に合わなかった。
仙台に戻る三吉とトシにはその後のことを託し、鈴とナナシは徒歩で仙台へ戻ることになる。
何事もなければ半月ほどで行ける距離なのだそうだ。
ナナシは何も言わず、こくりと頷く。
倉庫は仙台藩が借りていたものだが、期間が過ぎれば別の藩が使うことになる。
銭も宿もない。売る物すらない。
この先どうすればいいのか、不安だけが募る。
よし、と鈴は気合を入れる。
まだ飢饉まで時間はあるし、きっと何とかなる――そう思うことにした。
「スズ姉!」
懐かしい呼び名に振り向くと、人をかき分けるように誰かが走ってきている。
あれは――未来で会った六郎太だ!
「わぁ!六郎太、大きくなったね!会えて嬉しいよ!」
「わ、私は……もう……ぜぇ、二十四です。大きくなったは、やめてくださいよ」
あれ? 未来で会った六郎太と口調が違う。というか、過去で会った太郎とも違う。
不思議に思っている鈴に、六郎は港に駆け寄った。
「船は!?」
「いっちゃった」
その言葉を聞いて、六郎太は「あぁぁぁ……」といううめき声とともに崩れ落ちた。
「なんてこった……すまねぇスズ姉……オイラのせいだ」
口調が知っている六郎太のものへ戻る。やっぱりこっちの口調の方が六郎太らしい。
おい、とナナシが六郎太に詰め寄る。
「手形はもってきたのか?」
「あ、ああ。というか、誰だよあんたは」
「護衛だ、さっさと行くぞ」
どこからか取り出した菅笠をかぶり、ナナシはすたすたと歩き始めた。
それを鈴が引き留める。
「ちょっと待ってよ、ナナシ」
ナナシは少し振り返り、鈴と六郎太を見た。
六郎太は嗚咽交じりに地面に伏している。
「もう船は行っちゃったんだし、先に六郎太を休ませてあげようよ。情報を交換しなくちゃいけないし」
「……承知した」
ナナシはため息をつき、こちらに戻ってくる。
菅笠はどこかへ消えていた。
三人はおなじみになった太田庵で一息つく。
六郎太は息を整えると、ここまでの経緯を話し始めた。
今、米沢藩でゴタゴタがあり、喜二郎がそれに巻き込まれて身動きが取れなくなっていること。
仁八から手紙を受け取った喜二郎はすぐに女手形を六郎太に持たせ、江戸にむかわせたこと。
道中の治安が悪く、かなり時間を浪費してしまい、物資の一部を取られてしまったこと。
そのあと六郎太は、三日三晩ほとんど眠らず走り続け、ようやく江戸へたどり着いたという。
上等な着物は泥にまみれ、あちこちが擦り切れている。いかに大変な道のりだったのかがわかる。
「大変だったねぇ、六郎太。来てくれてありがとう」
「いや、オイラは間に合わなかった……すまねぇ、本当にすまねぇ」
六郎太は事情を話し終えると、気絶したように眠りについた。
ともあれ、女手形は手に入った。
船には間に合わなかったが、これで徒歩なら江戸を出られる。
するとナナシがおずおずと口を開いた。
「上杉殿を頼るのはどうだ」
たしかに、と鈴は相槌を打つ。
事情を話せるとしたら、喜二郎が身を寄せている米沢藩だ。
太田庵の親方の亀助に六郎太を預け、鈴とナナシは米沢藩邸へ急ぎ向かった。
---
「事情は承った。……だが申し訳ない、金子を都合することはできぬ」
事情を洗いざらい話した鈴に、治憲は心苦しそうにそう告げた。
「先にも話した通り、米沢藩は大倹約政策の最中でな。儂の自由にできる銭はほとんどないのだ」
「そう……ですか」
考えてみれば、その通りだ。
個人での貸し借りをすれば藩の皆に示しがつかず、結束が脆くなる。
そして藩として銭の貸し借りをすれば、どこかにしわ寄せが行く。
治憲は、味噌を売るためだけでも十分すぎるほど力を貸してくれた。
これ以上は無理な願いだと分かっていた鈴は、静かに引き下がった。
ふむ、と治憲は腕を組む。
「喜二郎殿が、以前江戸に来たときの話は知っておるか?」
「え?」
「その時、喜二郎殿は味噌だけを持って、江戸と仙台を往復したと言っておった」
治憲は、その話を喜二郎から笑い話として何度も聞かされていたという。
「江戸から仙台まで、女子である其方は旅籠を利用することになるだろう」
治憲が唐突にそう告げる。
鈴は野宿でも構わないと思っていた。だが、旅籠の方が安心なのも事実だった。
治憲は咳払いして、話を続ける。
「……一泊二食で2~300文する旅籠も、食事を自前で用意できれば半分くらいになる」
さらに、と続ける。
「旅籠の食事は千差万別で、当たり外れが多いらしい。そのため、食事を自前で用意する者も多いが、旨い飯にありつけることは稀だという」
「……」
「作る飯が旨いと分かれば、銭を払う者も多いらしくてな。味噌と鍋さえあれば、客は自然と集まろう」
喜二郎は江戸の人間と渡りをつけるため、味噌樽を担ぎ、仙台から江戸を往復していたという。
その道中で味噌を使って料理をふるまい、対価に銭を受け取り、旅費を稼いでいたとのことだ。
治憲は戸棚から壺と一冊の本を取り出した。
「これは喜二郎殿と儂が書いた本で、カテモノという。一見雑草に見えるものでも、味噌に入れれば食えるものを記した本だ」
喜二郎の旅日記をもとに、治憲が食についてまとめた本らしい。
米沢では飢饉に備えて、これを配布しているとのことだ。
「そしてこれは、喜二郎殿から最初に贈られた味噌」
ずい、っとその二つを鈴に寄せる。
「元々喜二郎殿が『儂に』贈ってくれた『消耗品』だ。旅立ちの餞別に渡すのであれば、不自然ではなかろう」
そこまで説明されれば、もはや察するまでもない。
――藩としては助けらないが、治憲個人として鈴を助けてくれる。
上杉藩主としての懐の広さに感じ入るばかりだ。
「まことに、ありがとうございます……!」
鈴は深く頭を下げる。
金子の代わりに、それよりも大きなものを、治憲は与えてくれた。
そして仙台へ帰る道まで示してくれる。
だが、治憲は首を振ってそれを否定した。
「元々、米沢のゴタゴタに喜二郎殿を巻き込んで、お主にも迷惑をかけている自覚はあるのだ。できることはさせてくれ」
鈴はさらに深々と頭を下げて、礼を述べた。
---
太田庵に帰ってくると、六郎太が目を覚ましていた。
体が心配になり「もう少し寝ててもいいんだよ」と言うが、六郎太は首を横に振る。
「飢饉に備えなきゃならないのでしょう? 時間がありません。スズ姉が戻れないのは私のせいですから。気張ります」
何を言っても意思を曲げそうにない六郎太に、鈴はどうしたものかと悩んでいると、ナナシがぽつりと告げる。
「どのみち門は明日の朝まで開かん。休めるときに休むのが旅の鉄則だ」
「今はやることはない」と暗に告げると、しぶしぶ六郎太は布団をかぶる。
そしてあっという間に、再び眠りに落ちた。
……もしかして自分は説得下手なのだろうか。鈴は心の中でそう思った。
すっかり拠点となってしまった太田庵では、亀助が鈴の持っているカテモノの本に興味を惹かれていた。
「明日の朝、出発なんだよな。これを貸してくれないか」
カテモノは米沢の皆に配られていたと言っていた、機密文書の類ではないはずだ。
了承すると、亀助は早速書斎にこもってしまう。
「旦那様が、ここは自由に使っていいってよ」
例の元蕎麦屋店主――デンシュがそう告げる。
デンシュは、もはや立派な丁稚だ。
そして翌朝、目を血走らせた亀助が書斎から出てくる。
「嬢ちゃん、これは最高の書だ。あと少し……あと少しで何かが掴めそうなんだ!」
ものすごく興奮しているらしく、一睡もしていないことが分かった。
「蕎麦にばかり目を向けていた」
「食えるものはもっとある、検証が必要だ」
「江戸にだって、まだまだ商売の余地はある」と。
この勢い、どこかで見たことある。
鮫製品を研究してた時の喜二郎と三吉の姿にそっくりだ。
鈴は苦笑いしながら本を受け取る。
譲ることはできないことと、一日しか貸し出せないことは事前に伝えてあった。
亀助は名残惜しそうに本を鈴に手渡していた。
「私たち、中をちゃんと読む前に渡しちゃったんだけど……どんな本だったの?」
「簡単に言えば、野草・食材の利用書だ。蕎麦には関係ない味噌の部分が多いが、『食えるもの』を探すのにはこれが最高の書だと思うぞ」
あと一日あれば、と亀助は非常に悔しがっていた。
それでも「礼だ」とそば粉の袋を麻袋に詰めたものを鈴たちに持たせてくれた。
六郎太はぐっすり眠れたのか、昨日よりも調子がよさそうに見えた。
出発前の朝餉には、オカメ蕎麦をふるまってくれた。腹持ちも十分である。
鈴たちは太田庵の面々に礼をいい、江戸の出入り口へ足を向ける。
「普通に通れたね」
「手形があれば、問題ない」
三つの手形を見せたとき、書かれている内容を確かめるためかじろじろ門番に見られた。
だが、特に問題なかったことを確認すると、あっさり大江戸の町を出発することができた。
色々あった江戸の町。
今度来ることがあれば、商い抜きで歩いてみたい。
これからは時間との闘い。
いつ来るか分からない飢饉を、あと2年でどれだけ備えられるかで未来が決まる。
―――空は高く、空気は澄んでいる。
「準備良いね? 仙台に帰ろう!」
鈴のその言葉に、ナナシと六郎太は力強くうなずいた。
これにて江戸商売編は完です。
次から仙台への旅路が始まります。




