覚悟の夜明け
「完売……完売だよ!」
あんなに大量に売れ残った味噌はあっという間になくなった。
なんでも十年たっても腐らず、旨いままの仙台味噌といううたい文句が広まり、藩主たちが目の色を変えたのだという。
人は「売れている」と聞くと欲しくなるらしい。
小売り用に分けていた味噌すら完売してしまった。
鈴は味の方を推して販売していたが、まさか保存性を推す方が効果的だったとは驚きだった。
藩との商いは、大判や小判が動く世界だった。
鈴は初めて見た金の貨幣に目を輝かせていた。
「首の皮、繋がったねぇ」
トシが笑顔のまま、長く息を吐く。
三吉も安心したような表情を浮かべていた。
大金を抱えたままでは危険だったため、清右衛門に早速連絡を付け、米の買い付けをする。
売り上げの半分を清右衛門に納めた。
そして当初、清右衛門が江戸で売る予定だった価格の4割で、ありったけの米を購入した。
仙台に残していた米と、ここで買える分をひっくるめれば、江戸に売る予定だった総数の3割ほどを確保した計算になる。
「まさか銭をそろえてくるとはな、儂も骨を折った甲斐があるというものだ」
値下がりしていた米の相場の落ち込み具合はひどかったらしく、現金収入ができた清右衛門も満足げである。
(味噌が売り切れなかった場合のことも、絶対想定していたのだろうな……)
何を想定していたのかは、怖くて聞けなかった。
だが、とりあえず飢饉に備えた米の確保はある程度できたことになる。
鈴たちはひとまず山場を越えたことに胸をなでおろした。
清右衛門の船団は先に江戸を出航していった。
仙台の港に入りきらないので、前半と後半で出発したのである。鈴たちは後半組である。
「三吉、これありがと」
鈴は渡されていた小袋を三吉に返した。
残りは一朱しか残っていなかったが、これがなかったら絶対に完売することはできなかった。
三吉が財産をはたいてくれていなかったら、今頃何もできないまま江戸を去ることになっていただろう。
「かっかっか、役に立ってよかったぜぇ」
そう言って三吉は豪快に笑った。
積み込みまでは手が空いたため、お世話になった人にあいさつしに行く。
だが藩主は皆忙しく、挨拶という名目では結局誰にも会うことはできなかった。
お世話になりました。今後ともよろしくお願いいたします――そう記した手紙をつなぎ役へ託した。
「やっぱり藩主様って、忙しいんだねぇ」
鈴がそう呟くと、ナナシがひとこと「そうだな」とうなずいた。
やることはすべて終えた。
後は帰るだけの鈴たちはしばらく江戸を散策し、太田庵に集まる。
「本っ当に……その名前にするの?」
鈴は例の福笑いそばをすすりながら亀吉に尋ねた。
蕎麦屋の親方である亀助はこの蕎麦を「カメ蕎麦」として売り出したいらしいが、名前が可愛くない。
「名前はカメ蕎麦以外に考えられん」
「ええ……でもぉ……なんか可愛くないし」
可愛いは関係ないだろ、と亀助は言っていたが、あるよ、絶対。
「だったら、こう……書いて呼び方はオカメ蕎麦でいいんじゃない?」
鈴は御品書きに、「お多福蕎麦」と書いた。
自分で書いておいてなんだが、すっごい当て字だ。
「ほほぅ、なるほどな……」
思い付きだったが、亀助は大いに気に入ったらしい。
次に江戸に来た時に知ったのだが、店内の品書きはすべて「お多福蕎麦」という名前になっていた。
そばを食べた後、三吉は「後で合流する」といって、一朱が入った小袋を握りしめて鈴とは別行動になった。
何か買い物だろうか、と鈴とトシは首をかしげる。
「聞いてやるな」とナナシが言うので、彼には心当たりがあるのだろう。
桟橋から人が船に乗り移り始めている――。
もう出発まで間近であった。
「そういえば、交換した物資の確認ってまだしてなかったよね」
「僕が点検済みだよ、リン」
トシが自信たっぷりにそう胸を張る。
逆に鈴の方が自信を無くしそうだ。
ため息をつきながら鈴も積み荷を確認するため、船に乗り込んで船内を見て回ろうとした。
だが鈴だけが、港の役人に呼び止められた。
「手形を確認する」
鈴が懐から二つの手形を取り出す。
だが、そこで思い出した。
「あっ―――」
鈴は、いま女手形を持っていない。
港役人の視線が鋭くなる。
「……お前、どこから来た」
船の出航まで、あと一日。
手形が、足りない。
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船着場から追い出された鈴が、慌てふためいた。
「ど、どうしよう……?」
商品を売ることに集中しすぎて、手形のことをすっかり忘れていた。
喜二郎に手紙は出してある。
だが仙台から米沢を経由し、江戸まで手形を届けてくれるとなると、一月近い道のりだ。
明日の船出には間に合わないかもしれない。
「じゃあ、僕も残るよ」
「……いや、それはダメだ」
挙手したトシに、三吉がぴしゃりと言う。
トシと三吉は職人としてここに来ている。
手形の関係上、藩の許可のもと、藩の移動として付き従わなければならない。
トシと三吉はこの船を逃すと、次の物資搬入まで……つまり一年間仙台に帰ってこれなくなるのである。
それはだめだ。
「……手形が届かなければ、俺が残ろう」
ナナシがそう口を開く。
ナナシは護衛という名目で同行しているため、武士用の手形を持っている。
鈴の女手形さえ届けば、二人で徒歩で仙台へ帰れるだろう。
「……そうだね。出航するまでに手形が届かなかったら、徒歩で仙台に戻ろうかな」
「だが、問題がある」
ナナシが言うと、指で輪っかを作る。
「俺たちには、ほとんど手持ちの銭がない」
「え、そんなはず……あっ!」
そういえば、売り上げのほとんどは米を買うのに使ってしまった。
手元にあるのは名主にもらった小遣い分くらいしかない。
三吉が言いづらそうに頭をかく。
「……すまねぇ、俺もさっき銭を使っちまって手元にはこれしかない」
三吉が手を差し出す。
手の平には4文銭が10枚乗っていた。
「ずいぶん使ったねぇ、何に使ったの?」
「遊郭だろ」
「違う! 嫁に土産を買ったんだ!」
その場が少しだけ賑やかになる。
元々三吉の銭なんだから、嫁に土産くらいいいじゃないか、と鈴は思った。
というか三吉、嫁いたんだ。そっちの方が驚きだよ。
(でも、あんなに預かっていたお金を、ほとんど私が使っちゃったし……怒られないかな)
そう思っていると、ずい、と三吉はその金を鈴に差し出してきた。
「やる、全部もってけ。返せなんて言わねぇし。俺が勝手に預けた金だ」
「僕も!」
トシも小遣いを鈴に差し出した。
「……二人とも、ありがとね」
鈴は礼を言い、手元のお金を数える。
「全部で100文くらい……これで足りるかな?」
「茶屋で一杯やったら終わりの銭だ」
しゅん、と鈴が項垂れる。どうやら全然足りないらしい。
商品もほとんど売り払ってしまって、帰りの船で食べるための味噌と米くらいしか残っていない。
打つ手もないまま日が暮れ……。
そして、夜が明けても、手形は届かなかった。
港にはもう出航を待つ船が並んでいた。




