江戸の常識と門前払い
「知らん、お帰り願おう」
開口一番、門前払いされた。
ぽかんと口を開けたまま、事態が呑み込めない鈴。
ナナシは表情を変えない。
喜二郎が伝手を作ってくれているはず、と聞いていたのに。
事情も分からないまま、鈴たちは倉庫へ引き返した。
待っていた三吉に事情を話すと「袖の下は渡したのか?」と指摘される。
「袖の下って……賄賂じゃないの!」
何言ってんだ、この露出変態の筋肉バカ野郎!
鈴は憤慨したが、トシが「なるほどなぁ」と納得したようにうなずく。
「トシぃ、言ってやってくれぇ。リンが俺のこと虐めるんだぁ……」
鈴の罵倒に涙目になる三吉が、トシに抱えられるように泣いていた。
どうやら伝手があっても、袖の下を通さなければ目通りはかなわないらしい。
しかも、うまくそこを通っても、お偉いさまと面会するには何日も待たされるとのことだ。
「でも……袖の下かぁ……」
鈴が苦々しげに「悪徳役人じゃない、それ?」とつぶやく。
そうかなぁ、とトシが首をかしげた。
「キジ兄もよく渡してたよ? 米沢ではあまりやっていないって聞いてたけど、仙台ではよくやってた」
トシの言葉に鈴は驚いた。
清廉潔白だと思っていた喜二郎が、そんなことをしていたとは。
納得のいかない鈴だったが、三吉がおどけて言う。
「便宜を図ってもらうって意味もあるんだろ。ほら、蒲鉾販売で、端っこくらい渡すもんだと思って愛想ふりまけばいいのさぁ」
あれか、よく鈴の父が母に頼みごとをするときに菓子やら簪やら送っていたものと同じだと思えばいいらしい。
それは、過去に喜二郎が蒲鉾を買えなかった人へ、賽の目に切った蒲鉾を試食させていたのと同じことなのだろうか。
そう考えると、たしかに頼む立場なのだから、ちょっとくらい気持ちを良くさせるために工夫は必要……なのかもしれない。
(えーと……)
鈴は手持ちに銭はほとんど持っていない。
名主から渡されたお金は本当に小遣いくらいのようなものだし、これで足りるだろうか。
「足りないと思うよ、キジ兄は一朱渡してたし」
「えっ! 一朱!?」
驚愕した。そんな大金、見たこともない。
一朱とは、だいたい250文。
そんな大金、鈴の手持ちにあるはずがない。
すると三吉が懐から小袋を取り出し、「仕方ねぇなぁ」と鈴に差し出す。
「鮫製品でコツコツ貯めた銭だ、五朱入っている」
え、と鈴は三吉を見た。
いいのだろうか、と見上げる鈴に三吉がニカっと笑う。
「いい、全部使えよ。俺もこの江戸での成功に、全てを掛けるつもりだかんなぁ!」
渡された小袋は小さいはずなのに、三吉の覚悟でずっしりと重く感じた。
さっきは罵ってごめんね、三吉。
三吉に礼を言い、再び屋敷を訪れた。
今度はトシもついてきている。
「何の用だ?」
先ほどと寸分たがわないセリフで、同じ門番が鈴たちの前に立ちふさがった。
「……」
袖の下、袖の……下。
喜二郎だってやっていた。
客に蒲鉾の端を渡すのと一緒。
これが江戸の、いや世間の当たり前……!
鈴は無言のまま、握りこんだ手のひらを差し出す。
「………おい、手を差し出して開かないヤツがあるか」
いつも無口なナナシがそう突っ込んだことで、門番の差し出した手のひらに、一朱をそっと落とした。
カラクリ仕掛けのように表情を変えない門番は「しばし待て」と言い放ち、屋敷の奥へ消えた。
「……来ないねぇ」
いつまでも立っているのに飽きたのか、トシが軒下で足をプラプラさせながらつぶやく。
鈴は一応交渉に来た身の上だ、許可があるまでこの場から一歩も動くことができない。
一刻ほどそこで待っていると、門番が帰ってきて「明日の正午、お会いになるそうだ」と告げられた。
「は……えっ?」
まさか、日を跨ぐとは。
門番は何事もなかったかのように、鈴が来る前と同じ場所、同じ姿勢でそこに立つ。
どうやら、もう話を聞いてくれそうにもない。
鈴たちは来た道を再び引き返し、道中の店たちを眺めた。
(三吉ぃ……ゴメン)
倉庫へ戻る途中、鈴は懐の小袋を握る。
五朱のうち、一朱はもう消えた。
江戸に来てまだ一日。
なのに、もう後戻りできないところまで来ている気がした。
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気持ちを切り替えた翌日。
正午の少し前に田沼意知様の屋敷に着いた。
門番に連れられ、屋敷の庭先へ通される。
鈴とトシはそこで平伏し、田沼意知様が来るのを待った。
(……遅いねぇ)
(しゃべらないで、トシ)
既に半刻、同じ姿勢である。
トシがぼやきたくなる気持ちもわかる。
それからしばらくすると、複数人の足音とともに、屋敷の中から布ずれの音が聞こえる。
地面しか見えないので様子が分からないが、おそらく田沼様がお見えになったのだろう。
「面を上げよ」
腹の底まで響くような大声だった。
鈴とトシは顔を上げる。
「喜二郎の姪にございます。林家の長女、おりんと申します」
「なぜ喜二郎とやらがおらぬ」
先ほどとは一転して、身も凍えるような声色だった。
鈴がその人物を見据えると、突き刺さるような眼をした男が座っていた。
(怖くない、怖くない……)
一瞬だけ息を吸い、鈴は話し始める。
喜二郎は現在、米沢を離れられないこと。
その代理として姪である鈴が来たこと。
「……そのため、この江戸の顔である田沼意知様に、まずは挨拶をしにまいりました」
前口上は大事だ。
名主、そして清右衛門の時に重々理解している。
これで準備が整い、ようやく本題を話せるのだ。
トシに合図し、つぼに収めた味噌と塩、そして蒔絵を施した漆塗の重箱を差し出した。
入れているのは三吉と選んだ鮫の逸品である。
「この大江戸にて、しばし商売がしたく思います。こちらがその商品にございます」
田沼意知様は最初、煩わしそうにしていたが、鮫製品を見たあと反応が変わった。
「……これは、そちが作ったものか?」
「はい、私の職人が作り上げました」
厳密には三吉と喜二郎が作ったもので、鈴は十二年前に案を出しただけである。
中には鮫皮の刀柄、印籠、煙草入れ、そして小瓶に詰めた鮫脂の化粧品を入れてある。
船にいる間、鈴は三吉から詳細は聞いている。
三吉いわく、どれも江戸の流行に合わせて仕上げた至高の逸品らしい。
田沼意知様は小姓にそれらひとつずつ手に取らせ「悪くない」とつぶやく。
「そちの望みは?」
「江戸と他藩に売るための許可を。それといかほどの値が付くかご教授いただきたく……」
「―――柄・印籠は三両、煙草入れは一両だ」
即座に切り返す田沼意知様に、鈴は目を丸くする。
「小瓶はわからん、用途は何だ」
「さ、サメからとれた油でございます。用途は広うございますが、まず髪に艶を出すのに使えます」
鈴は自分の髪に手を当てて答える。
その光沢と艶に納得したのか、田沼意知様は「許す」とそう一言だけ告げると、静かに立ち上がった。
「献上品、大義であった。励め」
「は……えっ? あの……あの」
そういって田沼意知様は下がっていった。
味噌樽はそのまま残され、重箱だけが運ばれていく。
献上品ではなく、何を売るかを説明しに来たのに、味噌を除いて全て持ち去られてしまった。
呆然としていると、奥の方から小姓がやってきて、手紙を一通渡してくる。
封には、「幕臣 田沼意知 許可状」と記されていた。
この会談が成功だったのか失敗だったのか、それすら分からないまま、鈴はしばらく立ち尽くしていた。
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受け取った許可状を懐にしまい、鈴たちは倉庫への道を引き返した。
鈴は大泣きしていた。
「七両ぅ……」
七両。
清右衛門との交渉で何度も頭を下げて得た商機。
三吉が積み上げた技術。
喜二郎が育てた商品。
それが一瞬で消えた。
売ることも想定していたのに、献上品扱いでは懐に銭が入らない。
しかも渾身の出来栄えの、味噌と塩は見向きもされなかった。
こんなに悔しいことはない。
過去でも、未来でも、現代でも、鈴が本気で悔しいと思って泣いたのは初めてだった。
ぐしゃぐしゃの顔をしている鈴に、ナナシが呆れた声をあげる。
「お前、本気で言ってるのか」
「だってぇ……」
七両あれば、七石もの米が買える。
それが江戸の販売許可だけでなくなってしまったのだ。
ひっく、ひっく、と鈴は涙を止められない。
鈴の様子にナナシはあきれたように肩をすくめた。
「それ一枚で何百両の価値があると思う」
「えっ」
驚いて、鈴は鼻水を垂らしたままナナシを見た。
あまりにも泣きじゃくる鈴を見て、ナナシは理由を説明し始めた。
「……通常、江戸で大店取引するには幕府の許可がいる」
江戸での商売は、何年も評判を積み上げるのが基本だ。
もちろん、時には袖の下も必要になる。
藩との取引ならば当然、さらに難しいやり取りや破格の賄賂が必要になってくるのは想像に難くないだろう。
「新参者がいきなり藩と取引するなど、本来はあり得ない。……それを、わずか二日で取り付けた」
「………」
「これを成功と言わずして何と言う」
ナナシがそう説明する。
「ううぅ」
「そうだよ、リン。きっとキジ兄も喜んでるさ!」
今まで黙っていた、トシがにっこりと笑う。
成功、なのだろうか……?
実感はない、しかし理由を聞かされれば、これからのための投資として無駄ではなかったのかもしれない。
そう思えてくる。
両なんて大きな単位を初めて扱ったから、動転していたのかもしれない。
「……え、へへ」
「どうしたの、リン」
「だったら、一度でいいから見たかったな、小判」
その言葉に、トシは笑った。
「でも面白いね。江戸ってそういう仕組みで商売するんだね!」
この適応力の高さは、鈴も見習わなければいけない。
倉庫に帰ると、三吉が待っていた。
トシがあらましを伝える。
「おいおい……あの逸品が、献上品として扱われたってことは実質タダじゃねぇかぁ……」
どうやら三吉も鈴と同じ感覚だったらしい。
鈴が詳細を説明すると、三吉も「そういうものなのかぁ?」ととりあえず納得はしてくれた。
鮫製品は、もちろんあれだけではない。売りに出すための商品は、まだ倉庫にたくさん残っている。
ともあれ江戸の許可は得た、次は藩に売り込みに行く番だ。
まずは米沢藩の江戸藩邸へ。
鈴たちは気持ちを新たに歩き出した。




