塞翁が馬
翌朝。
芳は子供の世話と両立しているからかあまり話せなかったが、三吉の話は面白おかしく聞くことができた。
「信じてなかったわけじゃないんだが、やっぱり変わってねぇんだな。嬢ちゃん」
「三吉は貫禄が増したね。海の男って感じ」
「だろぉ!」
胸を叩きながら、筋肉を見せびらかすように上半身の着物を脱ぎ捨てる。
とりあえず素っ裸になるのはやめてほしい。
筋肉を見せびらかしていた三吉は、芳をはじめとする女中達に怒られてしょんぼりしていた。
「……でも話の通り、今年はおかしいな。渡り鳥も来ねぇし、魚も少ない。鮫も警戒心が強くて獲るのに一苦労だ」
「私が知っているのは二年後だけど、やっぱり今年から前兆があるの?」
それなんだが、と三吉は眉を寄せる。
「米の価格が下がっているらしい」
「え? なんで! 私が見た時は十倍くらいの値だったよ!」
「そりゃぁ……なんでだろうな。二年後にはそれくらいになるのかもしれねぇけどよ」
わからん、と三吉は肩をすくめた。
聞くところによると、今年はとりわけ豊作らしい。
堰を作ったことで、歴史が変わったのだろうか……?
うーん、と考え込んでいると、芳と女中が膳を持って部屋に入ってくる。
「ほら、難しい話はあとあと。リン、朝餉ができたから一緒に食べましょう。ほらトシも」
「はぁい」
並べられた食事は一汁一菜。
しかし、とりわけ際立つのは味噌汁。
すすらなくても分かるおいしさが、香りとともに立ち上ってくる。
一匙、口に含む。
「んーめ!」
「トシ、行儀悪いわよ」
鈴が言わなくても、トシの言葉に全てが凝縮されていた。
白飯が進む進む。
まさに箸が止まらない美味しさだった。
「すごいよ、芳。本当にすごい」
「そう言ってもらえると、頑張った甲斐があったわ」
完成されたと思っていた過去で味わった味噌。
そこから、どこをどう改良したらこのおいしさにたどり着くのだろう?
これなら、江戸の人だってきっと驚くに違いない。
芳たちが十二年かけて育てた味を、鈴は噛みしめるように味わった。
玄関先で何やらあわただしい音がする。
「どうしたんだろ?」
「あの足音はパチだな」
名主が静かに箸をおいて、そう言った。
どうやら仁八が到着したらしい。
ご馳走様をして客間へ向かうと、そこには名主の言う通り仁八がいた。
元々かなり精悍な体つきをしていたが、さらにたくましくなっていた。
筋肉なんて先ほど見た三吉より盛り上がっている。
(仁八って、今いくつだっけ…?)
名主より若いとはいえ、もう孫がいてもおかしくない年のはずだ。
この十二年でどれだけの力仕事をこなしてきたのか、その鍛え抜かれた体が雄弁に物語っていた。
先に報告を聞いていたであろう名主は皆が入ってくるのを見ると、少し複雑な顔を向けていた。
「スズか。久しぶりだな」
「仁八も、元気そうで何よりだよ」
互いにそれだけの会話で頬がほころぶ。
だが仁八はすぐに表情を引き締めて、集まった面子を見渡した。
「いい話と、悪い話がある。どちらから聞きたい」
その時、得も言われぬ不安が脳裏によぎった。
悪い話、と聞いて仁八が迎えに行った喜二郎と六郎太がいないことに理由があるのだろうか。
一同は顔を見合わせ、いい話から聞くことにする。
「江戸に米を売る船が出る時期が分かった。そして、その前に奉行と交渉する機会を喜二郎が得た」
「本当に!」
つまり、その交渉次第で、ここまで用意した品物を江戸で販売することもできる。
今まで積み上げてきた努力が、ようやく実を結ぶ機会を得たのだ。
(さすが叔父上……!)
こういった繋がりを持つことができるのは、喜二郎ならではの手腕だ。
これなら、本当にあの地獄の飢饉も乗り越えられるかもしれない。
「して、悪い話とは?」
それだけではないだろう、と名主が尋ねる。
皆の表情が一気に引き締まる。
仁八の次の言葉に、その場の空気が凍り付いた。
「奉行との交渉の場に、喜二郎は来れない」
今まで、藩や役人、商人と交渉を中心に行っていたのは喜二郎だ。
それは藩医の家系という家柄があり、どの身分の人間と話しても決して家格が劣らないためでもある。
だがそれゆえにほとんどの交渉は喜二郎が主体で行われてきた。
その喜二郎なしで、奉行と交渉するというのは、無謀であるように思える。
ちなみに、この場で最も家格が高いのは名主である。
奉行と対等に話し合えるかどうかは、彼の胆力次第というところであろう。
(でも、名主さんなら、そういう交渉事も得意そうだし安心だ)
過去でみた、鈴と芳、そして太郎……六郎太の三人との交渉。
そして唯一喜二郎と腹の探り合いをしていたのが名主だ。
身分差はあっても、家格でいえば名主は農民の頂点なのである。
みんなも同じ意見だろうと思い、顔を上げた。
だが皆は名主ではなく、鈴に視線を向けていた。
「スズ、喜二郎からことづけを預かっている」
「え……? 私?」
名主ではなく、自分に?
そういえば、仲間内で喜二郎と六郎太だけには会えていない。
再会が遅れそうということについて、何かことづけがあるのだろうか。
「お主が奉行との交渉に臨め、と言付かっている」
ぎょっと、鈴が身をすくませた。
まったく予想をしていなかった方面からの物言いに、鈴の頭が混乱する。
すると、名主がゆっくりと顔を上げて、鈴を見据えた。
「リン、奉行との交渉ができるのはお主しかおらぬ」
「ちょ、待ってよ!」
何を言うのだ、このタヌキ親父は!
自分がそんな大舞台で交渉できるはずがない。
時を掛けた経験はあれど、トシを除けば自分が一番年下だ。
そんなの皆もわかっているよね、と視線を向けると、なぜかみんなは「それで問題ない」という顔をする。
「理由は言わずともわかるであろう、奉行と対等に話せる家格を持つのはお主しかおらん」
「あ……え……?」
家格、たしかに自分は藩医の家系だ。
だが、こんな何の実績もない子供、しかも女が奉行と話し合いができるわけがない。
「で、できないよ。私、お奉行様と交渉なんて、自信ない。失敗するに決まってる……」
自分ではなく、名主の方が適任だ、と鈴は目を向けるが、名主は首を振る。
「儂は、確かに名主という立場にある。だがな、いかに立場が上であろうと、儂は農民の代表なのだ」
奉行にとっては名主だろうが本百姓であろうが、等しく農民にしか映らない、と名主は言う。
農民は、士族に対して否定はおろか、交渉など本来は許されることではないのだと。
名主がこの十二年、いやもっとそれ以前から感じていたであろう心の声が聞こえた気がした。
それに、と続ける。
「十二年前、儂に交渉を仕掛けて引き抜いたのはお主なのだぞ。自分を信じろ、テン」
名主は不敵な笑みを浮かべる。
(だから、なんでテンなのよ……)
混乱をよそに、どうでもいいことが頭の中で響き渡る。
たしかに、あの時は夢中だった。
喜二郎が倒れ、頼り切るわけにもいかず、自分たちの力で何とかしなければと必死だった。
それに近くに喜二郎がいた、失敗しても彼が何とかしてくれるという安心感があった。
だが、奉行相手では、家格は同等以上の相手と交渉に臨むことになる。
そして、喜二郎は近くにいない。
もし自分が交渉することになれば、今度は自分の力だけで乗り切らなければならない。
(無理……だよ)
泣きそうに顔をしかめる。
だが、テンと呼んだ名主は、一切の不満も不安も浮かべることなく鈴に微笑んでいた。
そして名主の言葉に、皆は静かにうなずいた。
まるで、鈴が必ず良い結果をもたらすと確信しているように。
(そうだ……思い出した、テン)
会うと縁起がいい、もしくは高く売れる生き物。
喜二郎はカラスで、名主はタヌキ。
そして鈴はテンだと、名主があの時言っていた。
迷いに満ちた目で、鈴は皆の顔を見つめた。
誰もが「お前ならやれる」と自信に満ちた顔をしている。
(どうして……そこまで)
疑問に思ったことを口にして。
必死に未来を変えたくて。
喜二郎の背中を見よう見まねで追っただけなのに。
―――誰もが信頼の眼差しを鈴に向けている。
過去で自分はそれほどまでに彼らの信頼を勝ち取っていたのだろうか。
「リン、皆を見てみろ」
名主は朗らかに各々へと手を向ける。
「キジを焚き付け、パチとロクを導き、芳とフカを見出し、儂にすら未来のため役目を与えた」
「……」
「たしかに、繋いだのはキジかもしれぬ。だがな」
名主は続ける。
「始まりは、すべてお主がもたらしてくれたのだ。逃げ出さなかった自分を信じろ、テン」
逃げ出さなかった自分。
その言葉を聞いて、鈴は思い出した。
明和五年。最初の時掛けの時、鈴は何もできずにただ立ち尽くしたことを。
何も知らないことを理由に、喜二郎を助けずに逃げ出したことを。
そして、その未来がどうなったのかを―――鈴は思い出した。
あの未来が、どんなに悲惨なものだったのか、この中で一番よく知っている。
「……」
あの時、無力で逃げ出した自分を、彼らは信じてくれるというのだろうか。
ここにきてまで怖気づいた鈴の背中を、彼らは支えてくれるというのだろうか。
(私が、そんな大それた役目をこなすなんて、まったく自信ない……けど)
あの未来で、鈴は決意した。
必ず、この未来を変えてみせると。
その決意が、この小さな体に今も宿っているのなら。
十二年間、いやそれ以前からも力を尽くしてくれた皆が頼ってくれるなら。
「……わかった。やって、みる。私が、きっと」
――あの未来を、変えて見せる。
鈴は恐怖を抑え込んで、その役目を全うしようと、再び心に決めた。
今まで口を閉ざしていた仁八が、「ことづけを預かっている」と鈴に言う。
「リンは承諾してくれるだろう。もし、勇気が欲しそうだったら渡してくれ、だそうだ」
そう言って、仁八は懐から一枚の紙を取り出した。
勇気。そう勇気だ。
いま、一番欲しいものは他でもない、勇気である。
鈴は紙を受け取り、中へ目を通した。
そこには、「江戸は“必要なもの”ではなく、“珍しいもの”に金を出す」と記されていた。
そして最後に、一行だけ添えられていた。
『試練などとは思うな、祭りと思え』
まつり、祭か。
その一言で、鈴はある日の会話を思い出した。
難しい交渉を、怖いと思ったことはないのか、と。
彼はその気持ちもあることは否定しなかった。
しかし、そういう時、彼がどう思って交渉に臨んでいるのか、教えてくれた。
『これは祭りなんだ、とな。乗り越えるのが難しいほど、祭りは盛り上がるだろう?』
たしかに大変だが、祭りと思えば確かに心が躍ってくる。
まったく、あの叔父はこうやって人の心をくすぐるのがうまい。
鈴は皆を見回し、力強くうなずいた。




