幸運の獣
その日、名主との話し合いは決着し、お開きとなった。
詳細は後日、喜二郎を交えて話をしようということになる。
「叔父上、話し合いがまとまったよ」
「……苦労を掛けたな、見事だ三人とも」
夕暮れ時、喜二郎は目を覚ました。
疲労の色は残っていたが、それでも表情は晴れやかである。
仁八は喜二郎が倒れている間ずっと看病しており、交渉の場にはいなかった。
だが、それでも結果を聞くと、いつも仏頂面の彼にも口元に笑みがあった。
「今日は、某が奢ろう。皆、好きなものを言ってくれ」
喜二郎がそういうと、みんな一斉に手を上げる。
「私、焼きおにぎり!」
「オイラ天ぷら蕎麦! 大盛で!」
「ずんだ! 私はずんだモチがいい!」
その勢いに喜二郎は苦笑いしながら「わかった」と頷いた。
「仁八、お前も好きなものを言ってくれ」
「いいのか? 俺は……」
喜二郎は人差し指を口元に当てる。
首をかしげる鈴たちだったが、仁八は短く「……酒だ」と望みを口にした。
後日、その話を聞いた三吉は「俺の分は……?」と哀愁漂う表情を浮かべ、皆の表情も思わずほころんだ。
翌日、塩釜にいる三吉を除く全員で名主の家を訪ねる。
思いはあらかた昨日伝えたので、細かい計画を名主と喜二郎で話し始める。
細部を聞いて昨日の話に現実味が増したのか、名主も少し安堵していたのが分かった。
「それにしても、昨日は喜二郎殿が三人いたような話し合いだったぞ」
「……そうか」
喜二郎はそれに苦笑する。
喜二郎自身も、某一人ではこの結果にはならなかったと認めていた。
三人いれば解決できた、とでも考えているのかもしれない。
名主は意地悪そうな表情を浮かべて喜二郎に向き直る。
「喜二郎殿、お主はまさに麒麟児だ。その齢で、もはや仙台に並ぶもののない才気と言えよう」
だがな、と続ける。
「お主は頭が固すぎる、スズ殿たちのような柔軟さを見習うべきだな」
「頭の固さを某に説くには、あなたこそ年齢を顧みた方がよさそうだがな」
なんとなく察していたが、名主と喜二郎は仲が良くないのだろうか。
飛び交う言葉の裏にある意図を読み合う二人に、鈴たちは目を丸くする。
名主との交渉の時、それぞれが精いっぱい考えたことを全て話したつもりでいた。
だが、閃きや勢いだけではない、互いの腹を探り合うような読み合いが二人の間には成立していた。
しばらく話し合いをしていた二人だったが、名主が内容を整理するために筆を執った。
会話はいったん途切れ、喜二郎はただ静かに目を閉じていた。
名主が味方になった今でも、喜二郎は目の前の茶に手をつけようとはしない。
「叔父上は、難しい交渉を怖いと思ったことはないの?」
「ない。……といえば嘘になるが、その時はこう思うことにしている」
身を乗り出す鈴に、喜二郎はいたずらっぽく微笑んだ。
「これは祭りなんだ、とな。乗り越えるのが難しいほど、祭りは盛り上がるだろう?」
鈴のしかめっ面を見た名主は、意味ありげに口元をゆがめる。
「気にすることはない、スズ殿。喜二郎殿のように考えるのは武家の者だけだ。お主のような貂には別の役割がある」
名主が意味ありげに、聞いたことがない名前を口にする。
「……テンってなに?」
「テンとは、会えば縁起が良く、その毛皮は高値で売れる獣のことだ」
喜二郎が言葉の意図を説明する。
名主がにやりと笑った。
「腹芸はカラスとタヌキの役割だ。テンはただ居場所を知らせるだけで価値がある。そういうことだ」
よくわからないが、褒められたと考えていいのだろうか。
喜二郎は「某はカラスか…」と納得いかないような、まんざらでもないような、よくわからない表情を浮かべていた。
「さて、これからどうするつもりだ?」
名主がまるで試すかのような視線を向けてくる。
もちろん、と喜二郎は立ち上がる。
「お暇させてもらう、またスズが攫われてはかなわんからな」
おそらく、もうそんなことはないだろう。
喜二郎は過去のわだかまりを、ここで解消しておくつもりなのかもしれない。
すると名主は怪訝そうな顔を向ける。
「以前、儂がスズ殿を探し回っていたのは確かだが、素性を調べるようにしか命じておらぬぞ?」
「……その話、誠か?」
名主がはっきりと頷く。
「……そうか、失礼した。仁八、太郎、芳、明日からまた頼む。行くぞ、スズ」
喜二郎は何か思い至ったのか、鈴についてくるように合図する。
鈴は挨拶もそこそこに席を立ち、喜二郎についていく。
「どうしたの?」
名主は油断ならない相手だと感じたが、あの様子であれば危険な存在ではない気がする。
名主ではない、と喜二郎は街へ足を速める。
「3年前、お前が攫われかけたのは覚えているな?」
「うん、私にとってはついこの前の出来事だし」
「名主以外にお主が持つ証文に興味を示し、あの堰を自由に使うことで利を得る人物は誰だ?」
「え…? えーと、名主さん以外だと誰だろう、農業で米を増やして得するのなんて、年貢を取り立てる役人くらいじゃ……」
そこまで口にして、鈴は思い至った。
江戸に米を売ることで、急速に仙台藩の財政を立て直そうとしていた人物がいる。
藩の財政責任者、安倍清右衛門。
未来の芳に「この名前だけは忘れないで」と念押しされていた人物だ。
喜二郎は頷いた。
「三年前、スズを捕えようとしたのが、奉行であれば合点がいく。あまりにも手際が良すぎた」
そういえば、あの時、喜二郎が女の人に話しかけられた一瞬に人垣で分断され、攫われたのだ。
手慣れている、と言ってもいい。たしかに名主が扱える人材ではないような気もした。
だが、奉行があの時の実行犯だったとして、喜二郎と仁八が無事だったのはなぜだろう。
奉行が相手なら、堰の権利を奪うために二人を従わせることも難しくなかったはずだ。
「まだ堰が完成して間もない上、品質向上を待つ上でも時間が必要だったからだと考えられる」
そして、明和五年に一度スズが姿を現したことも、その一因だろう、と喜二郎は続けた。
鈴は仙台藩に、認識された。
実在する人物、堰に関する証明書を預かる人間として。
「……某は腐っても藩医の家系だ。奉行とはいえ、手を出すのは最後の手にしたいはず。そこへ行くと仁八と、身分不詳のスズは奉行にとって絶好の獲物だ」
明和五年、つまり一年前から、奉行の人間が鈴を再び探し始めていてもおかしくない。
人探しだけであれば、名主も加わっていたのかもしれない。
名主の家に身分の高そうな人が出入りしていた、という光景を鈴は見たことがある。
もしかすると、あれが奉行のお侍様だったのだろうか。
(あ……でもそうなると、どうしよう)
不味いのは鈴がこの時代にいることだ。
藩側が鈴の存在を知れば、今度こそ強行手段として鈴を攫おうとしてくる可能性が高い。
そしてそうなると、さらに不味いことがある、と喜二郎は言う。
「奉行より先に、考えなければいけないことがある」
「これ以上に大変なことがあるの?」
どういうことなのか、と鈴は喜二郎の横顔を見た。
早歩きしながら、喜二郎は鈴に振り返って言った。
「言っただろう。もうすぐリンが生まれる」
確かに、思ったよりも時間がないようだった。
名主との交渉に気を取られ、自分が生まれる年だったことをすっかり忘れていた。
「仮定の話だが、もしこの時代にスズがいる状態でリンが生まれると、リンの命に関わるかもしれぬ」
「え!?」と鈴は目を見開いた。
確かに、自分が生きている時代には時を移動できないとは予想はしていた。
だけど、それは時の行き来が移動できないだけで、もうここにいるのであれば関係ないことなのではないだろうか?
それは楽観しすぎだ、と喜二郎は足を急がせる。
「某は、時間の歪みを軽視しておらん。最悪の場合、お主は未来……つまり、リンの本来の時間に戻れない可能性がある」
「どういうこと……?」
「時間……いや、歴史そのものが、スズとリンを別人として固定してしまうかもしれん」
そうなると、身分を証明できないスズは非常に危うい。
この仙台に居場所がない上に常に狙われる可能性があるというのも背筋が凍る。
奉行に捕らえられ、この時代へ足止めされれば――。
この時代には「スズ」と「生まれたばかりのリン」が同時に存在することになる。
どのような影響があるか分からないが、少なくとも良い方向になる要素はないだろう。
喜二郎が焦るのも分かった。
その表情に鈴が不安になっていると、喜二郎は不敵に笑った。
「心配するな、掛け軸は某の家の土蔵に用意してある。名主も……ああは言ったが、頼りになる。12年後、必ず産業を安定させ、某たちで未来の大飢饉を何とかしよう」
どうやら、鈴は励まされたらしい。
「にへら」と複雑な笑みを浮かべた。
城下町に入った途端、違和感を覚えた。
朝あった人通りが妙に少ない。
確かに日は傾きかけているが、まだ人が活発にいる時間のはずだ。
喜二郎は頬の汗をぬぐい、「回り道をしよう」と鈴の手を引く。
「昨日、宴だと思ってスズの名前を出したのは不覚だった。嗅ぎ付けられている」
杉林を避け、裏通りのうっそうとした森の中を突っ切っていく。
どこをどう通ったのかわからないが、生垣を越えて喜二郎は家に入る。
天明二年、未来で六郎太にかばわれた時、塀ではなく生垣だったことを不安に思っていた。
だが門を開け閉めせずに済むのは便利だった。
喜二郎は土蔵を開けると鈴を招く。
そして引き出しの中から巻いてある掛け軸を鈴に渡す。
「また、未来でな」
「うん…叔父上も無茶しないでね」
本当にそれだけが心配だ。
名残惜しくも、鈴は掛け軸を開く。
いつものように景色が揺らぐ。
……はずだった。
風も吹かない。
光も現れない。
掛け軸は、ただ古い紙としてそこにあるだけだった。
「……あれ?」
鈴の身には、何も起こらなかった。




