交渉は、言葉の将棋
仁八は喜二郎の看病のためにあばら家に残った。
鈴、芳、太郎の三人は名主の家にたどり着き、女中に要件を伝える。
しばらく待たされた後、三人は客間へ通された。
上座には、数年前よりさらに皺を刻み、威厳を増した名主・富谷久蔵が座っていた。
名主は三人の姿を見ると、いささか怪訝な顔をするが、すぐに表情を戻す。
「久しぶりだな、スズ殿。血眼になって探したのに見つからず、土左衛門になっているかと疑っていたぞ」
「以前はお世話になりました。名主さんもお元気そうで何よりです」
鈴は喜二郎の交渉の仕方を思い出しながら、できるだけ穏やかな笑みを浮かべた。
太郎はその場の空気が耐え難いのか、居心地悪そうにしていた。
芳の方は……平気そうである。
「それで、久しぶりにその顔を見せたということは……契約書を破棄し、新しい堰も使わせてくれるということか?」
「その件で、ご相談したいことがあります」
「ふむ、何なりと申されよ」
何でも言ってもいいが、相談に乗るかは別である、というわけだろうか。
鈴は気を引き締めなおす。
「あの新しい堰も使えば、収穫量はさらに増えるかもしれません」
「そうであろうな」
「ですが、水の用途は広いもの。使い過ぎればいざという時に足りなくなるとは思いませんか?」
「抽象的すぎるな。もっと具体的に申せ」
名主の眉がわずかに動く。しかしそれ以上の反応は見せない。
いざという時……飢饉になった時に、だということを、名主は理解しているだろう。
だが、起こるかどうか分からない飢饉のために備えてほしい、というのが説得力を持たないのも理解している。
だから、まずは利益から説明する必要がある。
芳が名主の前に進み出る。
「父上、私たちが作った味噌が、仙台城下で広まりつつあるのはご存知ですか?」
「そのような話があるとは、聞いている」
「では、それが米沢にも広がる可能性があることは?」
「販路を渡したのは儂だ、可能性としてあることは理解している」
芳の問いに、名主は頷く。
「儂がつかんでいるのは、お主たちがあと一歩。藩を相手にするには決め手に欠けている、と言うことくらいだ」
「決め手はあるさ。オイラが育てた鯉だ」
鯉?と名主が首をかしげる。
「オイラの育てた鯉を、米沢でも育てる。向こうの殿様も絶対気に入ってくれるはずだ」
「……農民が育てた魚を、米沢の藩主が気に入るとは思えんがな」
今の会話でわかったことが、いくつかある。
名主はかなり深いところまで鈴達の情報を知っているということ。
利益と展望、損益と可能性、一つずつ詳らかにしていかなければ、名主は納得などしてくれないだろう。
鈴の……いや、鈴たちにとって、初めての交渉が今始まる。
「……喜二郎が育てた産業は五つあります。」
鈴は危うく「叔父上」と呼びかけそうになり、小さく息を整えた。
指を一つずつ折っていく。
1.水を豊富に蓄えた堰
2.保存のきく魚である鯉
3.飢饉対策にも利く味噌
4.内陸に需要が高い塩
5.高級品となりうる鮫製品
これら五つのうち、完成していないものもあるが、今「育てている」ので間違いではない。
「……続けよ」
「この中で、すべての産業の根幹となるものがあります」
どれも一つの産業として成り立つ。
だが、何をするにも必ず必要となるものを挙げるなら、答えはかなり限られる。
すなわち、水である。
産業において水を使わないものを考える方が難しい。
芳が、鈴の話を引き取る。
「特に味噌の品質は、あの堰の水があってこその味とコク、そして防腐性です」
「それを言ったらオイラの鯉だって、あの堰があってこその艶とハリ、そして大きさだ」
芳の話に太郎が追従する。
芳は軽く咳払いをして、先を続ける。
「海水から質の良い塩を取るには、真水が欠かせません。同じく皮をなめすのにも水が要ります」
「だが、それは堰の水でなくてもよいのだろう? 井戸の水でも事足りる」
芳は首を振る。
「父上は3年前と今、どちらの味噌がおいしいと思われますか?」
それは分かりきった答えだ。
名主はその問いには答えない。
「仙台城下で広まった味噌は、井戸の水を使って作られた味噌だと思われますか?」
「その話は、理解している。味噌の味が向上したのは認めよう」
だったら、と芳は意気込むが、名主は手でそれを制する。
「一部で人気が高い味噌、それに対して万人に受け入れられるのが米だ」
それを言われてしまうと日ノ本の人間である以上、否定できない。
米の嫌いな民など、いるわけがないからだ。
芳もぐっと言葉に詰まらせる。
「ならば、米を多く作った方が良いとは思わぬか?」
名主の理論は完璧である。
しかし―――。
「……でも、米作りすぎると年貢も増えるって言うじゃないか」
太郎が名主の言葉に、率直な意見を述べた。
名主の言うことは正しい。しかしそれは年貢の話が絡まなかった場合に、である。
鈴がうなずき、会話を引き取る。
「一度上がった年貢は、もう戻りません。たとえ飢饉になったとしても、減免していただけるかはお上の判断によるところです」
「……宝暦の大飢饉のことを言っているのであれば、儂の村は減免となったぞ」
「それでは、次に飢饉になった時も、そうなると?」
「可能性は、高いと思っておる」
名主がそういって静かに目を閉じる。
確かに前例があるならば、「慣例通り」にそうなる場合が多いのが、この時代だ。
だが、その「慣例通り」といかない場合がある。
「減免していただけたとしても、それだけで村は助かるのでしょうか」
「宝暦の大飢饉では、最小限に食い止めたと思っている」
もちろん、被害がなかったわけではない。
宝暦の大飢饉については、仁八から悲惨な話を聞いている。
その根源にかかわる問題を、鈴は名主に突きつける。
「なぜ、こんなに米を作っているのに、農民の生活が楽にならないのでしょうか」
「……そのほとんどの米を、江戸に売っているからだ」
金になる米を江戸に売る。
ならば、仙台はその銭を何に使っているのだろうか。
「年貢米の多くを江戸へ売っているのであれば、仙台藩には銭がたくさんあるのではないでしょうか」
事情を知らないものであれば、素直に思うことをあえて鈴は聞く。
名主は吐き捨てるようにうめいた。
「仙台藩の財政はすでに火の車だ、銭など残っているはずもない」
「では……もしも飢饉になった時、借金返済のために米を売った仙台藩を、幕府はお助けくださるのでしょうか」
「……」
名主はおそらくその答えを自覚しているだろう。
自業自得で困窮した藩に、救いを差し伸べる幕府ではないということを。
このままでは、時悪く飢饉が起こった時、腹を空かせるだけで済むわけがないということを。
―――相手を言い負かすことではない。
まずは、互いが知る事実を同じ土俵へ並べること。
交渉は、そこから始まる。
ここまでは、認識合わせだ。
将棋でいうならば、ちゃんと相手と同じ盤面に座っているか、勝負の仕方を確認したという感じだ。
これからは、お互いが持つ駒をどう使うかで結果が変わる。
名主が、まずは話し始める。
「……仮に、飢饉が起きたとしよう」
指を二つ立てて、続ける。
「二十年。耐え続ければ、仙台藩は生まれ変わる。民の暮らしも、豊かになる」
仙台の経済状況を改善するのに、二十年。
それまでは年貢の取り立てが厳しくとも、耐えるのが最善。
名主はそう考えている。
だが、そうはならないのを鈴は知っている。
二十年……それは天明の大飢饉真っただ中である。
米はなくなり、産業も潰え、誰もが地に伏す地獄の未来を見てきた。
(だけど、未来の出来事を話すことで、名主を説得できたとしても意味がない)
名主個人を説得するのなら、それもいい。
しかし名主は立場上、農民全てに展望を語る必要がある。
そこに未来から来て「飢饉になるので対策しましょう」と言っても理解は得られない。
だから必要なのは、未来を信じられるだけの展望を見せることだ。
鈴は芳と太郎に目を向ける。
二人はかすかに頷いた。
「…父上、米は江戸で高く売れるのですか?」
「高いわけではない。だが確実に、そして大量に売れる」
「では、味噌を大量に売ることができれば、代わりになると思いますか?」
「……なるだろう。用意できれば、の話だがな」
芳はこくりと頷く。
「私は、十年で二千石の味噌を用意するつもりです」
「なんだと……?」
一年、二年ではなく、十年。
それだけの準備期間を経て、鈴たちは攻勢に乗り出す。
「私が持つすべてを使って、必ずそれをやり遂げます」
「二千石の味噌だと? 大豆すらこの仙台で用意するのは難しい。……なるほど、米沢を使うつもりか」
芳の決意を聞き、名主はその供給元をすぐに見抜いた。
太郎がそれに同意する。
「そうだよ。キジ兄がそのために頑張ってくれている。頼まれたら、オイラも米沢で仕事してくるつもりだ」
「お前はただの農民だ。名主一族である儂ならともかく、お前は藩を越えて移動できる身分ではないのだぞ」
名主の指摘に「そこは考えるさ!」と太郎は胸を張った。
味噌、塩、そして鯉。
これらを武器に米沢と貿易を結び、準備を整える。
そして、その得た資産で目指すのは、物価が最も高い場所。
すなわち江戸での販売だ。
江戸では、鮫製品も主力にするつもりだ。
鈴は名主に力強く真剣なまなざしを向ける。
「十年。その期間で私たちが用意したものを、江戸に売りに行こうと思います」
「江戸に……。まさかお主たちが藩の借金を肩代わりしようとでもいうのか?」
藩の借金は莫大なものだ。
一つの村が肩代わりできる桁では到底収まらないだろう。
ゆえに鈴は首を振る。
「肩代わりはできません。その代わりそこで得た利益で、仙台の米を買い戻そうと思います」
名主はその言葉を聞いて、目を丸くする。
「年貢で納めた米を、わざわざ買い戻す。そう言っているのか?」
「その通りです」
これが、鈴たちが考えていた計画だ。
つまるところ、仙台に食うものが残ればいい。
味噌でも、蒲鉾でもいい。
だが、最も消費が激しいのは、やはり米である。
喜二郎が描いていた道筋を、皆で一晩かけて練り直した。
わざわざ塩釜の三吉も呼んで話し合った際は「面白ぇ!」と彼も興奮していた。
「………」
名主はしばらく、目を伏せ黙っていた。
責任と村の未来を天秤に掛け、彼は考えているのだろう。
「……面白い夢だ。だが夢だけでは村は救えぬ。お主たちは儂に何を求める」
「堰を、守ってほしいんです。たとえそれが藩からであっても」
ようやく伝えられた要望。
名主はゆっくりと目を開いた。
「一つ聞きたい」
名主の鋭い眼差しが鈴たちを捉える。
「その計画、失敗したら何とする」
それは久蔵が名主である以上、絶対に考えなければいけないことだ。
二十年待てば辿り着ける未来を捨ててまで、行うべきことなのか。
十年後、本当に鈴たちの語る未来を実現できるのか。
「……失敗する可能性は、あります」
ここで、取り繕うことはできる。
なぜなら鈴はこの時代に長くは留まれない。
十年、と言いながら、その結果を鈴は見ることができない。
喜二郎が米沢藩とのつながりを築けなければ、芳が味噌を作れなければとん挫する。
仙台と米沢の販路を確立して商業網を作っても、鮫製品や塩の品質と数を揃えられなければ江戸で売ることはできない。
失敗する可能性は、どこにだって潜んでいる。
「それでも」
計画と展望は話した。
あとは、互いの覚悟の問題だった。
「二十年の間、飢饉が来るのを怯えて待つより―――」
真実と誠意を伝える。
「十年後に勝負できる未来を私達は選びたいです」
「……そうか」
その答えに、名主は追及しなかった。
確実なものなどない。未来でさえ不確実だ。
それでも人は、未来を変えようと足掻くことができる。
だから鈴たちはただ怯えるよりも、立ち向かっていける勇気を持ちたいだけだ。
名主は大きく息を吐く。
「十年……。確かに、十年なら儂もまだ存命であろうな」
名主は決して若いわけではない。
二十年後となれば、もはや世代交代して一線は退いているだろう。
「儂の代で積んでしまった負債を、儂自身の手で取り崩すことができるのかもしれんのだな……」
そこにどんな思いがあるのか、鈴たちでは推し測ることはできない。
名主という立場の重責を背負うにあたり、ここまで歩んできた道のりを捨てるのは容易であるはずもない。
だが、名主の眼には決意の灯が宿っていた。
「よかろう、あの堰は儂が責任をもって守ろう。言ったからにはお主たちの未来、儂の生きている内に見せてくれ」




