安倍清右衛門
「安倍清右衛門様は、藩の財政を預かる大物よ」
芳は苦々しい表情で言った。
「元は木綿問屋だったらしいわ。……商才は本物だった」
その商才を買われ、安倍清右衛門は領内の米を集めて江戸へ売る政策を打ち出した。
それによって、仙台藩の財政を立て直そうとしたのだという。
話を聞き終えた鈴は愕然と肩を落とす。
「……私、今度はうまくできたと思ってた。でも、そんなスゴイ人が出てきたのなら、どうにもできないよ……」
六郎太を失ってまで進めた未来だった。
それなのに、結果は変わらなかった。
胸の奥に沈めていた後悔が、再び鈴を締め付ける。
藩の権力者が関わってしまっては、もはやどうにもすることができない。
「スズ姉、それは違うわ」
芳は首を振った。
「スズ姉が最初に見た未来は、キジ兄から聞いた。……でもね、あの二つの堰のお陰で病は抑え込めたのよ」
確かに二つの堰は仙台藩に取られてしまった。
それでも、喜二郎は水だけは失うまいと動いた。
金も、労力もすべて、水を得るために注ぎ込んだのだ。
結果、村には無数の井戸が掘られ、川の水の使用頻度を減らすことで、今日までの水不足はある程度解消されたそうだ。
「井戸の水は量も少なくて、飲み水や生活用水に回すだけで精一杯だったの。味噌を仕込むほど自由には使えなかった」
井戸の水は一定の水量を下回ると枯れてしまうため貴重だったらしい。
一時期は六郎太が井戸で鯉を育てようとしたことがあったりと、よく芳とはケンカになったのだという。
それでも、安全な川の水と用途を絞った井戸水があったおかげで、病は早い段階で収束した。
それだけは確かなことだった。
鈴が最初に見た未来のように、川辺に病人が溢れ、村全体が死臭に包まれることはなかった。
少なくとも――鈴が最初に見た未来よりは、多くの命が救われていた。
「でも、堰を二つとも取られたんでしょ? できることなんて、もう何も……」
「……いい、スズ姉。堰は取られたとしても、貴方だけは諦める必要はないの。この意味、分かるわよね」
芳の言葉に、鈴は息をのむ。
それはまた……。
――鈴に未来を、過去を変えろと言っているのだろうか。
鈴は芳の言葉に、すぐに頷くことはできなかった。
「……叔父上たちが、どこにいるか教えてくれる?」
鈴はひとまず感情を呑み込み、そう訊ねた。
「ここにはいないわ」と芳は言った。
「……六郎太が話してくれた話だと、養生しているって言ってたけど。今回もそうなの?」
「なるほど、あのバカ」
芳は苦い顔をして天を仰いだ。
芳の様子に、きょとんと鈴は目を丸くする。
「いえ、こっちの話。キジ兄は、今は別に養生はしてないわ」
「そうなの……?」
だとすると、この未来の喜二郎は仙台にいるのかもしれない。
しかし鈴の希望を否定するように「でもね」と芳は続けた。
「すぐには会えないの。理由は今のスズ姉には教えられない」
「それはどうして?」
「それを話したら、話せない理由まで教えることになってしまうの。ごめんなさいね」
なにか重大なことが起こっているのだろうか。
納得できない鈴に、芳は辛そうに目を伏せる。
「話せないのよ、どうしても。私にはその資格がないから」
「……うん。わかったよ、芳」
あまりに辛そうな表所を浮かべる芳に、鈴は再び言葉を飲み込んだ。
ありがとう、と芳は頭を下げた。
この話はこれ以上できそうにない。
鈴は話を変えることにした。
「そういえば、どうして新しい方の堰……新堰は、仙台藩の管理下になったの?」
最初に作っていた堰は、名主に渡した。
ということは、そちらは仙台藩の管理下に置かれてもおかしくない。
しかし、新しい堰も同じように渡してしまったのだろうか。
「明和三年から始めた堰建設は数年で完成したわ。でも、その成功が村人にとっても光明になってしまったの」
「光明?」
鈴が首をかしげると、芳は頷いた。
「旧堰ができたことで収穫量が増えた、とは話したわね。でも、年貢の取り立てが厳しくてね」
「それで、新堰にも名主さんが手を出してきたってこと?」
「いえ、正確には父の派閥というか、収穫量を増やしたい村人が結託して……ううん。おおよそはスズ姉の想像通りよ」
歯切れのよくない返事だったが、ともかく村人の中に収穫量を増やしたい一派が堰を狙っていたということらしい。
「だけど明和五年の時は、キジ兄がなんとか周囲を抑えることに成功した」
「明和五年……私が初めて行った過去のことだね」
そういえばあの時、名主派に堰を取られるがどうとか言っていた気がする。
でもね、と芳は目を伏せる。
「翌年、キジ兄が米沢に向かうと同時に、結局は村人の一団が新堰を奪い取ってしまったの」
「でも契約書は? あの時、名主さんたちと交わした証文は私が持っているよ」
鈴は袖から引っ張り出した証文を広げる。
そこには「新堰は喜二郎、仁八の許可なく、農地灌漑へ水を使用しない」という旨を認めた文字がつづられている。
「そう、その契約書がある限り、親堰の用途は変えられない。だからその査定を奉行にお願いしたの」
つまり、契約を守ろうとした結果、藩そのものを呼び込んでしまった。
堰を奪い取った村人の一団がその後どうなったのかは、わからないらしい。
だが、その時点で新堰の処遇は奉行――藩へ委ねられてしまった。
そこからどうして藩預かりになったのかは、なんとなくわかる。
金の卵を産む鶏……いや、新堰を手に入れた藩が、それを村人に返すわけがない。
「結局は、農業用水として使われることになったわ。水が自由に使えなくなったことで、他藩との繋がりや産業をいったん諦めざるを得なくなってしまったの」
「そこからが、さっき話してくれた井戸の話に繋がる……ってことなんだね」
鈴が話を理解したことに、芳は頷く。
鈴は外の景色を見る。
曇天の空と、村中に漂う死臭。
鈴は過去を変えて、この未来に来た。
……この未来を救うなんて、できるのだろうか。
ただの藩医の娘に、こんな地獄を救うことが本当にできるのだろうか。
「芳、私……」
できるかどうか、不安で仕方ない。
鈴はその言葉を飲み込んだ。
芳は鈴の表情を察して、笑った。
「こう考えればいいのよ、スズ姉」
幼い彼女が見せた朗らかな表情で、いたずらっぽく片目をつぶる。
「おいしい物を食べるために、未来を変えちゃおう……ってね」
「それ、芳が食べたいだけじゃない?」
そうかもね、と芳はほほ笑んだ。
難しく考える必要はない。
ただ、美味しい物を食べるために、未来を変えればいい。
そう、芳が言ってくれている気がした。
ありがとう、芳。
未来を「救う」なんて、大それたことは鈴はできない。
だから変えるのだ。
誰の為でもなく、自分のために未来を変える。
その結果、多くの人が救われるなら、きっと頑張れる。
鈴はもう一度、過去に戻る決心を固めた。
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鈴はその日は名主の家に泊まった。
そして寝付けないまま夜が明け、寝ぼけ眼で起きてきた鈴に芳は食事をふるまってくれた。
食事は野草と少量の雑穀を塩で茹でた汁で、食べた気はしなかった。
だが、食べられるものがある。
どれほどありがたいことなのか、この仙台を見てきて嫌というほど思い知った。
「林様は城にいるはずよ」
さりげなく家族の詳細を聞いた鈴に、芳は答えた。
林家は滅んだわけでなく、鈴の祖父である什吾は城勤めとして寝泊まりしているらしい。
「それにしても、私の実家が跡形もなかったんだけど、なんでなの?」
「……誰もいなくなった屋敷よ? 食料を求めた暴徒に焼かれたんじゃないかしら」
芳は言葉を濁したようにそう言った。
「家族で居場所が分かってるの、お爺様だけなんだよね。掛け軸も一緒に持ち出してくれてたらいいんだけど」
鈴は什吾に会いに行こうとする。だが、芳は首を振った。
「気を付けることがあるの。今あなたは本来仙台にはいないはずの人間よ。だから、林様を見つけても接触してはだめ」
「え? お爺様と顔合わせたら良くないってこと?」
芳は頷く。
祖父ならばさらに詳しい事情を知っているだろうし、家の私物を持ち込んでいるかもしれない。
そう思ったのだが、どうやら顔を合わせるのは難しいようだ。
「仙台城は塀の中までなら入れるわ」
芳の言葉に、鈴は驚いた。
「私、前に来た時は門前払いだったのに。芳はすごいね」
「……すごくないのよ、私は」
鈴は理由を聞きたかったが、芳が話したくなさそうな表情だった。
鈴は「そっか」とだけ言って、頷いた
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鈴と芳は仙台城へ向かう。
芳は病になったものは減ったと言っていたが、城下の方は病の人が多いように見えた。
水の恩恵は農村に近いほど大きかったらしい。
「止まれ」
仙台城につくと、門番が呼び止める。
門番は芳を一瞥したあと、鈴のことを訝しげにのぞき込む。
芳のことは顔見知りのようだが、鈴のことは警戒しているらしい。
「そちらの娘は?」
「妹です」
芳の言葉に、門番が鈴をのぞき込む。
「妹? ずいぶん年が離れているが、本気かお前?」
「もちろんです」
芳がそう言うと、門番は「世も末だな」とつぶやいて二人を通す。
門から離れてしばらく歩き、鈴は尋ねる。
「どういうこと?」
「スズ姉は知らなくていいの。それよりも林様の部屋を探しましょう」
詳しくは聞けない雰囲気だった。
芳の入れる範囲での憶測だと「林様はおそらく外郭のどこか」らしい。
城の中は当然見回りの兵がいる。
芳はそれをうまくかわしながら、外周の部屋を探っていく。
「ここは通れなそうね……」
一角の部屋の前で、小姓のような人が微動だにせずにいる。
あの部屋が什吾の部屋だったらお手上げだが、おそらくそれはないだろう。
「スズ姉、分かるの?」
「なんとなく。薬の匂いがしないもん」
薬というより、薬草の匂いだ。
藩医である什吾が頻繁に行く場所は薬草の匂いがすることが多い。
芳は頷いて、踵を返そうとする。
しかし、その先から足音が聞こえた。
「……スズ姉、ここは私が引き付けるから、林様の部屋を探して。一人でできるわね?」
「う、うん。でも芳は……」
「私は大丈夫、ここに隠れていて」
身を隠すところなどほとんどない。
わずかにつきだした柱の隙間に身を寄せるように張り付く。
(芳、大丈夫かな……)
足音が聞こえた方向に芳が向かっていくと、何か話しているようだ。
次第に声と足音が遠くなっていく。
(今は、お爺様の部屋を探さないと)
そろりそろりと場内を歩き進める。
人の気配を感じるたび、近くの部屋や軒下へ身を隠してやり過ごした。
(あ、ここだ)
ふと、薬の匂いが鼻をつく部屋を見つける。
実家だとこの薬の匂いが鼻について、どうにも気になってしょうがなかった。
実家が跡形もなくなった後、まさかこの匂いに安心する日が来るとは思わなかった。
鈴はふすまを少し開ける。
祖父は不在だった。
整頓された薬の箱たち、机の上には何かの書置き、見慣れた実家の祖父の部屋だった。
「というより、この部屋……」
私物が、思った以上に少ない。
鈴の気のせいだろうか。
与えられた部屋というより、どこか軟禁部屋のような印象を受けた。
「あれ、これ……」
ふと、机の上に気になったものがあった。
鈴の簪だ。
明和三年の時、鈴が攫われかけた時に落としてしまったはずの簪。
まさかここで見つけられるとは思っていなかった。
というか、なんで祖父がこの簪を持っているのだろう。
「っ!」
ふすまの外から、こちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
薬草の匂い。
鈴の心臓が大きく跳ねる。
――祖父だ。
足音が迫ってくる。
鈴は慌てて隣の部屋へとつながる襖をあけ、間一髪そこに逃れた。
おそらく腰を下ろしたのであろう、布ずれの音が聞こえる。
「ふぅ……」
疲れがにじみ出るようなため息が聞こえる。
鈴は襖を少し開け、中の様子を盗み見た。
祖父の什吾がいた。
だが鈴の知る姿よりかなり痩せこけていた。
「……これで良かったのだ。変えるわけにはいかぬ」
(……?)
什吾が何かつぶやき、筆を走らせる音が聞こえる。
黙々と筆を動かし続けていた。
「……林殿、殿がお呼びです」
障子の向こうから誰かの声がする。
什吾は書き物をやめ、それを小さな押し入れの中にしまう。
「承知した、いきましょう」
立ち上がった什吾は、そのまま部屋を出ていった。
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(何を書いてたんだろう?)
鈴はそれが気になった。
部屋にあまりものがなかったのは、あの小さな押し入れにしまっていたためらしい。
人の気配が完全になくなったのを確かめると、鈴は再び什吾の部屋へ戻った。
「あれ? 簪がなくなっている」
机の上を見ると、先ほど見つけたはずの簪がなくなっていた。
どうやら什吾が持って行ってしまったようである。
仕方ない。鈴は気持ちを切り替え、押し入れへ手を伸ばした。
本当は見てはいけない。
だが、掛け軸を探すためだ。
鈴は自分にそう言い聞かせた。
そろりと押し入れを開けると、いくつかの品が納められていた。
とりあえず先ほど什吾が書き物をしていた紙を見てみる。
「ホウ……メイ……アン……テン……カン……キヨ……なんかの暗号かな?」
バッテンや数字が書き込まれていたり、丸や三角が落書きのように書き込まれている。
逆さにしてみたり、透かしてみたりしたが、特に分かったことはなかった。
鈴はそっとその紙を元の場所に戻した。
「掛け軸…あるかな……? あるとしたらこれなんだけど」
不思議な色の筒に入った何か。
大きさ的にこれが一番可能性が高い。
(全く違うならまだしも、一度使った掛け軸だったらどうしよう……)
鈴は戦々恐々としながらその筒を調べる。
開け方がわからない。
「ん……?」
筒の底を見ると、そこには何やら文字が書かれていた。
「えーと……き、りん……。『麒麟……よりテンへ』かな」
麒麟…きりん…あ、これたぶん叔父上のことだ!
叔父上、不満そうにしていたけど、満更でもなかったのかもしれない。
「でもテンってなんだろう。ここだけ『テン』だし。『天』のことかな」
うーん、と悩んでいたが、あまり時間をかけてもいられない。
よくよく見ると筒の一部に切れ込みのようなものがあり、絞るようにすると蓋が外れた。
ころりと滑り落ちた巻物のような物。
鈴が探していた掛け軸である。
(それに、これは使ったことがない掛け軸だ)
説明できないが、なんとなくそんな気がする。
鈴は息を整えた。
「絶対に、この未来を変えてみせるから」
鈴は巻かれていた掛け軸を広げる。
そしてその瞬間――。
鈴の身体は、時の彼方へと落ちていった。




