灰色の未来への帰還
「ここは……」
掛け軸から渡った先、それは見覚えのある光景だった。
色のない、灰色の世界。
軒先で茣蓙を引いて倒れている人々。
「……未来、だ」
鈴はここが未来であることを悟った。
以前見た、水不足から始まった灰色の未来。
堰が完成していれば、この景色は変わっているはずだった。
たしか最初の堰は名主に譲った。
その代わり、新しい堰を作る話になっていた。
あれが無事完成していれば、村は少しずつ豊かになっているはずだった。
「ここは、天明三年? それとも、それより後なのかな……」
また二年後なのだろうか。
それとも歴史が変わったせいで、まったく違う時代へ飛ばされたのだろうか。
「そうだ、叔父上!」
どの時代かはわからないが、あの時より前。もしくは後であるなら喜二郎が仙台に帰ってきているかもしれない。
鈴は足早に喜二郎の家へ向かう。
「そんな……嘘、でしょ?」
喜二郎の家は、なかった。
家があった痕跡など、何一つない。そこには、杉林の道が続いているだけだった。
鈴はただ、立ち尽くすしかなかった。
「家に………」
そう言いかけて、唇を噛む。
足を引きずるように、実家の方にも向かった。
「そう、だよね」
実家は、前回来た時と同様、廃墟となっていた。
前に未来に来た時より、状況がひどいのではないかという不安がよぎる。
この時代で、頼れる人物を考える。
「そうだ、この時代なら六郎太! ……あ」
この時代なら六郎太がいる――そう思った瞬間、思い出す。
六郎太は、あの時、自分が見殺しにしてしまった。
「……」
喉元にまでせりあがる酸っぱいものを飲み下し、頭を巡らせる。
「……仁八、太郎、三吉。誰かに会えれば、状況が分かるかも」
仁八のいる、農村へ足を運ぶことにした。
足取りは重く、不安だけが心の中に渦巻いた。
川沿いの道を越え、あぜ道を通り抜ける。
「あれ……水は、流れている……?」
前に見た未来では、水は干上がっていた。
あの時は川べりで多くの人がたむろし、病にかかった人がそこかしこで倒れていたはずだ。
今は川ではなく、家の軒先で倒れている人の方が多くなっている。
(じゃあ、あの後……新しい堰を作ることは成功した……? それとも……)
考えを巡らせていると、やがて仁八のあばら家につく。
「うっ…」
隙間から漂うのは、湿った土の匂いと、鼻の奥にまとわりつく腐臭。
鈴は何とか吐き気を抑え、遠慮がちに扉を叩いて、中に人がいるか呼びかける。
「ご、ごめんくださーい」
返事はなかった。
もともとボロボロだった部屋だが、開いている隙間から少し中を覗いてみる。
そこには仁八の家があったが、住んでいたのは仁八達ではなかった。
倒れている人は、生きているのか死んでいるのかすらわからない。
「……どうしよう。叔父上」
八方ふさがりに、奈落の底へと気分が沈んでいく。
仁八の家のそばに座り込む。
「せめて、誰かに会える手掛かりを……。塩釜に行けば三吉に会えるかな……?」
川の水面に浮かぶ自分に、そう問いかける。
近くに小川が流れている。
そこで鈴ははっとする。
前回は干上がっていた場所に、水が流れている。
ということは、この水を管理している人がいる……!
鈴は明和三年には完成していた堰にたどり着く。
堰は残っていた。
それどころか、以前より規模が大きくなり、物々しい警備まで付いている。
しかし、鈴が過去に見たときより、ずいぶん水量が減っている。
「あのぅ、すみません」
「なんだ、娘。用がないなら立ち去れ」
男は槍を少し持ち上げた。
「水盗りなら許さぬ、去れ」
取り付く島もないとはこのことだが、この時代で元気そうな人間を見たのは初めてである。
もっとも、その男も痩せこけていた。
それでも倒れている人々に比べれば、まだ体力は残っているようだった。
「あの……今年は、何年でしょうか?」
「……お前、私の注意を引き、何か悪さを企んでいるのではあるまいな。……天明四年だ」
とりあえず、その言葉を引き出せた。
天明四年。以前鈴が来た時より、一年も後の未来だ。
「病は……解決したのかな?」
「病? 最初の頃こそ多少は流行ったと聞くが、お前、どこの人間だ。怪しいぞ」
うっ、と鈴は後ずさる。
色々経過は聞きたいが、これ以上聞くことは難しい。
鈴は堰を離れることにした。
水が確保されたことで、少なくとも病は収まったらしい。
それだけがこの未来で、唯一明るい情報だった。
しかしこの後、どうすればよいのか。
もはや知り合いと呼べるのは塩釜にいる三吉くらいだ。
(でも……)
遠目から塩釜に続く街道を見る。
一見してただの道だが、そこかしこで人が倒れているようだった。
この道を延々と歩いて塩釜に行く……気が遠くなりそうだ。
(それでも……)
行ってみるしかない。
鈴は気持ちを引き締め、歩き出そうとした。
「スズ姉、久しぶりね」
堰から少し離れた場所で、鈴は呼び止められる。
――スズ。
奇しくも、そこは農民三人に連れ去られたあの広場だった。
鈴は再び、その名を呼ばれた。
「あなたは……」
そこに立っていたのは、どこか見覚えのある女性だった。
「覚えてない?」
鈴は首をかしげ、記憶をたぐり寄せた。
身なりからして、裕福な武家の嫁といった風情だった。
だが、自分の交友関係に、こんな人物がいただろうか。
鈴が真剣に悩んでいるのが伝わったのか、その女性ははにかんだ。
「味噌玉、おいしかったでしょ?」
その言葉で思い出した。
彼女は名主の娘の芳だ。
「もしかして、芳! ホントに?」
明和三年、鈴たちが仲間に引き入れた少女だった。
仲間が生きていた。
その事実だけで、胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。
「色々聞きたいことあるだろうけど。外は危ないわ、私の家に行きましょう」
体も心もくたくただった鈴は、黙ってうなずいた。
「ホントに芳なの?」
「そうよ、スズ姉。本当に、全然変わってないわね」
鈴は名主の家に招かれ、詳しいあらましを聞かされる。
芳は、明和三年に喜二郎の説得を受け、飢饉に備える仲間に加わった。それは鈴も知っている。
喜二郎が主導で仁八、六郎太、三吉、芳と仕事を分担し、米沢藩との取引も目前まで進んでいたという。
「待って、どうして六郎太が? それに太郎はどうしたの?」
「太郎が元服して、六郎太になったのよ」
天明三年の未来で、自分を助け、最後まで味方でいてくれた太郎――六郎太。
『オイラはこれでも義理堅いんだぜ。命を助けてもらった恩は必ず返すさ。未来で楽しみに待ってなよ』
その声が、昨日のことのようによみがえる。
命を懸けて、その約束を果たしてくれたのだ。
鈴は心が震えた。
芳は一度言葉を切ると、小さく息をついた。
「……いったん話を戻すわね」
鈴が去った後、米沢藩との繋がりを作るため喜二郎たちは動き出した。
だが、軌道に乗る前に仙台藩の役人が事業へ介入してきたのだという。
「あの堰、農業用水として使われてたにしては、まだ水があったでしょう?」
「そういえば、そうだね。どうしてだろう」
「キジ兄たちが作った堰の水がね、次第に農業用水に使われ始めたの」
鈴は息をのむ。
旧堰が枯れていなかったのは、新堰の水も合わせて使い、水量を調整していたからなのか。
つまり、二つの堰はどちらも仙台藩の管理下に置かれてしまった、ということなのだろう。
芳は遠くを見るような目で、その頃を語り始めた。
たしかに収穫量は格段に増えた。
だが、その代わりに産業として育てようとしていた鯉、塩、味噌は成長せず、米沢との繋がりは途絶えてしまったのだという。
芳たちは必死に現状を打開しようと奔走したが、天明の大飢饉は避けられなかった。
(でも、新堰が農業用水として使われるのはおかしくない……?)
新堰は、仁八と喜二郎、そして鈴たちの許可なく用途を変えられない取り決めだったはずだ。
仮に二人の同意を得たとして、その印を結んだ契約である血判状は鈴が今も持ち歩いている。
いくら藩の役人が出張ってきたと言っても、血判状がなければ好き勝手出来ないはずだ。
それこそ、彼らの命が―――。
「スズ姉」
芳に呼ばれ、鈴ははっと意識を引き戻された。
「今は、そういうことは考えないで」
「……わかった」
芳は鈴が知るべき、その後のことを丁寧に伝えてくれた。
喜二郎は財産と持てる知恵のすべてをつぎ込み、なんとか鯉、味噌、塩、鮫などの産業を育てようとした。
しかし彼一人の手腕だけではどうにもならなかった。
水が枯渇した池では鯉がほぼ全滅。
米沢から大豆を仕入れることもできないため味噌も頭打ち。
塩を手に入れても活用方法がない。
唯一、鮫産業だけは成功した。
だがその利益では、穀物や大豆を賄うには到底足りなかった。
当時は収穫量が増えたことで農村も潤ったが、その分を年貢として取られていった。
喜二郎は農村と役人の仲裁に尽力し、水の使用を抑えて産業を育てることを強く訴えた。
しかしその甲斐なく、藩は稲作に全力を注ぐ方針を取ってしまった。
その結果、仙台藩は財政回復のため、蓄えのほとんどを江戸に売り払ってしまった。
そして、ついに恐れていた飢饉が来た。
江戸へ米を売ったあとには、村に食べる米など残っていなかった。
「安倍清右衛門様」
芳は絞り出すように言った。
「……え?」
「スズ姉。この人の名前だけは、絶対に忘れないで」
一拍置いて、芳は続ける。
「この人が、仙台の米を江戸へ流したの」




