攫われる鈴
話がまとまったことで、その日は解散になった。
堰を名主に渡してしまったことが、この後どう影響するかはわからない。
それでも、この決断ができたのは、喜二郎と仁八が、次に堰を築けそうな場所に目星をつけていたからだ。
水不足による病については散々話し合ってきた。喜二郎なら、同じ轍は踏まないだろう。
鈴はそのまま喜二郎の仮宿舎に再び泊めてもらうことになった。
すでに日が落ち始めている。
鈴が未来へ帰るのは明日。祖父が登城してからにする予定だった。
昼から何も食べていないので、棒手振りが来るのを待ったが、その日は運が悪いのか通らなかった。
「来ないねぇ」
「仕方ない、食べに行こう」
喜二郎は少し考えて、外へ食べに行くことを提案する。
鈴は賛成し、城下街の中心地へ足を向ける。
人混みを避けて歩いていたものの、この時間帯はどうしても人が多い。
「未来でもこんな感じなのか?」
「私が住んでいる仙台と、あんま変わらないねぇ」
さて、どこで食べるのだろうか。
好物なら焼きおにぎりだ。
しかし、せっかくの外食だ。どうせ食べるなら普段食べたことのないものがいい。
定番だと魚だが、塩釜でも食べたし、もう少しひねりが欲しい。
(江戸で流行ってるって聞いたドジョウ鍋!ってやつ、どこかでやってないかなっ)
一仕事終えた後の食事は心も軽い。
だが、その時。
「あら、失礼」
見覚えのない女が喜二郎にぶつかった。
女とぶつかった一瞬、そのわずかな隙に人波が二人の間へ割り込んだ。
「あれ? 叔父上?」
見ていたはずなのに、いつの間にかはぐれてしまった。
まぁ、ほんの一瞬だったし、少し人の流れが落ち着けば再会できるだろう。
そう思った瞬間、鈴の視界がぶれる。
「は、えっ?」
鈴は見知らぬ男に乱暴に腕を引かれていた。
何が起きたのか考える間もなく、鈴は手を後ろに回され、担ぎ上げられる。
髪にさしてあった簪の一つがその瞬間に外れて、どこかへ飛んで行った。
(え? 攫われる…!)
どこの誰かはわからない。
(どうしよう、どうしよう、叔父上…!)
人波に押し流された喜二郎の姿が建物の陰へ消える。
声を張り上げようにも、男に押さえ込まれてまともに声も出せない。
攫われる以上、何か目的があるはずだ。
必死に頭を働かせる。
(……契約書!)
しかし、契約書は喜二郎が持っていると思われているはずだ。なぜ自分を?
自分を人質にして契約を破棄させるつもり? 首謀者は名主?
そんなことをしても、名主に利益があるとは思えない。
話し合いにはしぶしぶ納得していたようにも思えたが、演技だったのか?
(だめだ、考えてもわからない)
鈴は懸命に振りほどこうとしたが、男の力は強くて身動きが取れない。
額に嫌な汗が流れる。
鈴はぐるぐると思考の渦に飲み込まれていた。
男はそのまま裏通りへ足を踏み入れようとしていた。その時。
「スズ!」
「ぐっ…!」
屋根の上から喜二郎が飛び降り、その勢いで男を押し倒した。
どうやって屋根へ上ったのか考える暇もない。
そのおかげで鈴は自由になった。
「無事か? 走るぞ!」
「うん…!」
喜二郎は鈴の手を取ると走り出す。
「い、今の何者だったの!?」
「わからん、しかし今は逃げるしかない」
鈴を逃がすことが先決、と喜二郎は判断する。
「予定外だが、すぐに掛け軸を使え。この時代にこれ以上いるのは危険だ」
「うん……!」
鈴はうなずき、喜二郎たちは実家に向けて駆け出した。
掛け軸があるのは実家である。
だが日も暮れ始めた今、什吾が家にいる可能性は高い。
以前、実家を出禁にされたのが、この時代では3年前だ。
もう忘れている、と楽観視してつまみ出されたら、この状況では非常に危険だ。
「だ、大丈夫、叔父上?」
「あ、ああ」
意外なことに、荷物を抱えた喜二郎はすぐに息が上がっていた。
荷物を抱えたまま走っているせいだろうか。
走っていくうちに、鈴の方が早く林家の裏門にたどり着く。
「よし……はい、ろう。中にはいったら、裏門の横の茂み、にでも隠れていてくれ。様子、見てくる」
「う、うん。お願いします」
追いかけられることに慣れている鈴は結構落ち着いている。
最近は逃げることばかりで、こういう状況にも少しだけ慣れてしまった。びっくりである。
一方、喜二郎はこういった荒事は初めてなのか、自身を落ち着かせるのに必死のようだった。
喜二郎が屋敷の中に入っていくのと同時に、什吾が反対の廊下から現れた。
(げ……)
間が悪すぎる。
鈴は必死に気配を殺し、什吾が去るのを祈った。
「………」
什吾は足を止め、鈴の隠れる茂みを見る。
しかし、何も言うことはなく、その場から遠ざかっていく。
ほっとしたのもつかの間、このままではまずいことに気が付く。
(お爺様が部屋に戻る前に、掛け軸を使わないと……!)
祖父が歩いて行ったのは、祖父の自室とは真逆だ。
誘拐犯が何者かわからない以上、再び狙われる可能性がある。
千載一遇の好機、今しかない。
喜二郎と祖父の向かった方は同じだ、聡い喜二郎であればきっと祖父を足止めしてくれる。
腰を低くし、鈴は祖父の部屋に潜り込む。
あの時見た掛け軸が、一幅だけ掛かっている。
迷っている暇はない。
鈴は掛け軸をのぞき込み、足元が消える感覚を待つ。
「………あれ?」
足元が消え、落ちるような感覚に襲われる……はずだった。
しかし何も起こらない。
「嘘、でしょ」
鈴は掛け軸に手を伸ばすが、何も起こらない。
何度触れても、ただの布だった。
未来に帰れない。
全身から血の気が引いた。
自分はこの時代では存在しない。
家も、戸籍も、帰る場所もない。
狼狽する鈴に、部屋の前が騒がしくなる。
「父上、六韜で知りたきことがあり、ご教授くだされ」
「今まで軍略など歯牙にもかけなかったであろうが、どういった風の吹き回しだ」
部屋の前では喜二郎と什吾の声がする。
どうしよう、このままでは見つかってしまう!
喜二郎は鈴が部屋の中にいることを知らない、鉢合わせてしまうのは非常にまずい。
狼狽した鈴は、とっさに屏風の後ろに隠れた。
しばらくすると、喜二郎と什吾が入ってくる。
什吾と喜二郎が腰を下ろす。
「して、六韜だったな」
「はい、久方ぶりに父上の話を聞きたく、居間でご教授いただ……」
その時、屏風の後ろに隠れた鈴と、喜二郎の目が合う。
喜二郎の瞳が大きく見開かれた。
「どうした」
「は……その、えっと、兄上も共に話を聞きたいと、おっしゃっていたようなので、お誘いしたいのですが。居間の方に行きませぬか?」
「市平とは毎日話しておる。普段おらんお前に特別講義をしてやろう。ここでよい」
「……ありがとう存じます」
どうしたんだ、鈴。と目で尋ねてくる喜二郎。
(掛け軸! 駄目!)
掛け軸が使えない、と必死に身振りで伝える。
喜二郎の額に大粒の汗が浮かんでいる。
「と、ところで父上。某もそろそろ例の常備薬をいただきたいのですが」
「うん? そうか、お前にはまだ持たせていなかったか。少しは腰を落ち着けろ、家にもなるべく顔をみせなさい」
「は、痛み入ります……」
什吾が立ち上がり、屏風の後ろにある薬箱を取り出そうと鈴に近づいてくる。
鈴は、什吾が屏風の裏へ回り込んだ瞬間を見計らい、反対側から入れ替わるように屏風の表に出た。
(早くいけ、ここは何とかする)
(了解、ゴメンね。叔父上)
目だけで合図を送り、喜二郎と鈴はすれ違う。
鈴は襖の外に勢いよく飛び出す。
その襖を何事もなかったかのように閉める喜二郎。
「ん? どうかしたか、喜二郎」
「いえ、なんでもありません、父上」
喜二郎の頬はかつてないほど引きつっていた。
間一髪、祖父の部屋を脱出した鈴は考える。
(一度使った掛け軸は使えない…?)
そういえば、今まで時を渡った掛け軸は、似ていてもすべて別のものだった。
あの掛け軸は、一度使っている。
天明3年、鈴が覚悟を決めた大飢饉の時代への扉が、あの掛け軸だ。
そうなると、新しい掛け軸を探さなければならない。
(どこにあったかな……思い出せ~!)
今まで時を超える掛け軸を見つけたのは「祖父の部屋」「喜二郎の家の土蔵」の二つである。
先ほどの掛け軸は、宝暦十三年の時に祖父の部屋で見たものだ。
あの時はもう一つ掛け軸があり、そちらの方を使ってこの時代に来たのだ。
祖父の部屋には掛け軸が一幅しかない。もう一幅はどこにも見当たらなかった。
このまま未来に帰れない。
そんなこと、一度も考えたことがなかった。
(ど、どうしよう……!)
太陽が沈み、外も薄暗くなってきた。
(今夜は宿に……ダメだ、さっきの男がどこかで待ち伏せしてるかもしれないし)
出禁となっているはずの家にとどまっているのに、家から出られない。
気ばかりが焦っていく。
「おや、初殿。いらしていたのですか?」
暗がりで互いに気付かぬまま、一人の男と廊下で鉢合わせる。
鈴の心臓が飛び跳ねた。
宝暦十三年で喜二郎と共にいた少年――若き日の父、市平に見つかってしまった。
「こ、こんばんは~……」
どうやら市平は、鈴を母の初だと勘違いしているらしい。
この年の母は十四歳だったはずだ。
母に似ていると言われたことは確かにある。
(嫁と間違えたら母上に怒られますよ、父上……)
母から聞いた話だと、この年に嫁取り合戦が行われたらしい。
当時は話半分に聞いていたため、ほとんど覚えていない。
話を合わせるためにちゃんと聞いておくべきだった。
「突然いらっしゃるとは、いかがされましたか?」
「えーと、その。き、喜二郎に呼ばれまして……」
万が一、こうした場面になった時のことは、あらかじめ喜二郎と打ち合わせてあった。
「大丈夫。お前は母似だ」という喜二郎の言葉は、どうやら本当だったらしい。
すると市平は「何っ!」と表情を変える。
「喜二郎が戻って来たか! ん? いや、なぜお初殿を呼ばれたのだ。ま、まさか、喜二郎……」
「はい……?」
「俺を差し置いてお初殿を家に呼びつけるとは! こうしちゃおれん。お初殿、ここでお待ちくだされ、喜二郎と決着をつけてまいります!」
「え、えぇ……」
ごめん、叔父上。
何か変な方向で父上が解釈してしまいました……。
市平は返事も待たず、廊下を駆け去っていった。
怒鳴り声を聞きつけた使用人たちが慌ただしく動き回り、屋敷はたちまち騒然となった。
騒然とした屋敷を逃げるように、土蔵に避難していた。
以前来た時にかかっていた鍵は外されており、すんなり入ることはできた。
「はぁ……どうしよう」
もう、屋敷の中にもいられない。
この騒ぎが収まるまで、土蔵にいるしかなくなってしまった。長くは隠れられないだろう。
やはり、時間を移動するには掛け軸を探すしかない。
しかし、どこを探せばいいのだろうか。
鈴は何気なく土蔵を見渡した。
「あ……ああ!」
なんで忘れていたのだろう。
一番最初、天明元年から来た時に見つけた掛け軸は、この土蔵にあったではないか。
あの時も鈴を連れ去ろうとした男達から逃げて、この土蔵に逃げ込んだのだ。
鈴は土蔵を探し始める。
立てかけてある掛け軸はなかったが、木箱のどれかに保存されている可能性はあった。
「あった……!」
不思議な色の箱の中に、巻かれた掛け軸が納められていた。
どうやら掛け軸は、開かなければ時を渡れないらしい。
「もしかして違う掛け軸……? いや、前に見たもう一幅の方かもしれないけど」
それでも、不思議と確信があった。
この掛け軸には、まだ「時を渡る力」が残っていると。
鈴は息を整える。
「帰ろう、今度こそ。私の時代に」
この時代で、自分ができることはもうない。
あとは喜二郎を……みんなを信じて、未来で待つだけだ。
鈴は静かに掛け軸を広げ、その中をのぞき込んだ。
その時―――世界が反転した。
明和三年の夏編、終わり




