仁八と太郎
仁八のあばら家の中に入ると、「子供に飯を食わせてくる」と言って奥へ消えた。
それからしばらく待ったが、仁八はなかなか戻ってこない。
「様子、見に行く?」
そう鈴が提案すると、喜二郎は無言でうなずく。
奥へ向かうと、そこには四、五歳ほどの子供がうなされていた。
仁八が軽く頬を叩いて起こしている。
「太郎、飯だ。食え」
「父ちゃん、これ米じゃぁ…」
いいから、と仁八は子供に握り飯を差し出す。
太郎、と呼ばれた子供はその握り飯をゆっくり咀嚼すると、また床に就いた。
「面倒かけて悪いな」
「いえ、お構いなく。お子さんの名前、太郎ですか? 六太郎、とかではなく?」
「太郎だ。数はついてねぇ」
そうかぁ、と鈴は肩を落とした。
「早速ですまないが、話を聞かせてほしい」
喜二郎が咳払いし、過去の飢饉……宝暦飢饉の話を聞くため、仁八に色々尋ねる。
(そうだった。飢饉の話を聞くっていう体裁だった)
もちろん、飢饉の話を聞いて、何かわかるならそれに越したことはない。
未来へ続く手がかりになるかもしれない。
鈴は居住まいを正した。
仁八の語る当時の惨状は、想像をはるかに超えていた。
「生きるために何でもしたさ。人に言えないことも、何でもな」
「……」
仁八が話したのは、とても鈴の口からは言葉にできないことだった。
「だが、本当の地獄はそこからだ。川が干上がり、田んぼに水を引くどころか、水が飲めなくなった」
「川が干上がった?」
「水があれば、野草でもなんでも煮て腹を満たせる。皆が水を求め……そして川が干上がった」
そういえば、未来でも川の水は流れていなかった。
皆が水を求めて川に集まっていたのもうなずける。
「川の水がなくなると汚れた水ですら飲むようになった。するとどうなるか、分かるか」
「病になる」
喜二郎の答えに、「そうだ」と仁八がうなずく。
「倅が食べた魚も、おそらくその汚れた水で育った魚なんだろう。腹が下って回復せん」
仁八が太郎の頭をさする。
「なぜ、薬を買わない」
喜二郎がそういうと、仁八は鼻を鳴らす。
「お前さん、武士の子だろ? 農民はな、薬なんて買ねぇんだ」
「……」
「この世界はな、見ず知らずの子供を助けてくれる馬鹿なんていねぇんだ。農民ならなおさらだ」
不平等だよな、と仁八は子供を撫でた。
(見ず知らずの子供を、助けてくれる馬鹿…)
未来で、見ず知らずの自分を守ってくれたのは、農民の六郎太だった。
六郎太からすれば鈴のことをよく知っていたから助けたのかもしれない。
でも鈴にとって、彼は見ず知らずの人だった。
そんな鈴を守ってくれた彼のような人が馬鹿で。
―――彼を見捨てて閂を降ろした鈴が、賢い者だったのか。
そんなこと、絶対ない。
「……」
鈴は、太郎という子供を見る。
痩せた頬に、苦しそうな呼吸。
その姿が、未来で見た六郎太と重なった。
(この人が言う通り、お腹を壊しているだけかもしれない……でも)
この環境では、それだけで命に関わる。
鈴は一つ息を吐いた。
「……よし」
もう、やってから後悔しよう。自分でした決断なんだから、どうあっても納得できる。
鈴が自分の懐から常備薬が入った小袋を取り出す。
「待て、少しこちらへ来い」
喜二郎は目を見張り、鈴を押しとどめた。
鈴を連れて一旦外に出ると、彼は鋭い視線を鈴に向ける。
「スズ、それはどこで手に入れた」
「どこって、お爺様からだけど」
「見せてくれ」
訝しげな表情をする喜二郎に、鈴は小袋を渡す。
喜二郎はその袋の刺繍を手でなぞり、「見事な意匠だ」と感嘆していた。
「…この刺繍は知らないが、紋と巾着はたしかに林家で常時持ち歩かされる薬……だな」
喜二郎は薬袋を返し、鈴を見据える。
「それで、その薬をどうするつもりだったのだ」
「太郎にあげる」
「見ず知らずの農民の子だぞ。……本気で言っているのだな?」
鈴はうなずく。
誰が何と言おうと、決めたことだ。
喜二郎は「なるほど、お前がどういう者か分かった」と深くため息をついた。




