六郎太
「はっ、はっ……」
人々の視線から逃れるように鈴は走っていた。
どこへ向かうのかも分からないまま、やがて町外れへ辿り着く。
荒れた畑。崩れた柵。
かつて人が暮らしていた痕跡だけが残っている。
鈴は息を切らしながら立ち止まった。
胸が苦しい。頭が混乱している。
「少し、休もう…」
そう思った時、誰かと目が合った。
畑の脇に、一人の男が座り込んでいる。
ぼろきれのような着物。痩せ細った身体。
頬は削げ落ち、骨ばった顔が浮き出ていた。
―――仄暗い、漆黒の瞳。
飢え。疲労。そして死の気配……その全てが瞳に宿っていた。
思わずたじろいだ鈴を、男もまた見ている。
「……」
しばらく視線が交わる。
すると――男の目が大きく見開かれた。
「あ、んた、は……」
信じられないものを見たような顔、そして瞳にわずかな光が宿る。
しわがれた声が漏れた。
「……スズ、姉?」
鈴の心臓が跳ねた。
聞き覚えのある呼び方だった。
過去で農民たちが自分を呼んでいた名前。
「まさ、か…本当、に……」
男はふらつきながら立ち上がろうとする。
だが足に力が入らなかったのか、その場へ崩れ落ちた。
頭を上げたその顔は、この場所では初めて見る『人』の顔だった。
男は手で這いずりながら、近づいてくる。
「本当に……あんた、スズ姉か……?」
「……誰?」
男は乾いた笑みを浮かべた。
「六郎太だ」
その名に聞き覚えはなかった。
だが六郎太は鈴の顔を見て、どこか納得したように頷いた。
「そうか……まだ来たばかりなんだな」
鈴は眉をひそめる。
「ねぇ……何の話?」
六郎太はしばらく黙っていた。
そして小さく息を吐く。
「未来……いや、過去から来たんだろ」
鈴は息をのんだ。
あの掛け軸のことを、知っているのだろうか。
戸惑う鈴に、六郎太は苦笑していた。
「その顔を見りゃ分かる。あんたが昔と同じ顔だったからな」
六郎太は遠くの空を見上げる。
灰色、色のない空を。
「――今は天明三年だ」
「な、え……?」
そのしわがれた声に、鈴は目を見開く。
天明三年。
その言葉が意味することを理解するまで、しばらくかかった。
「天明……三年?」
震える声で聞き返した鈴に、六郎太は頷く。
「ああ……あんたのいた時代からだと、おそらく二年後だろ」
鈴は言葉を失った。
二年。―――たった二年。
その二年で、世界はここまで変わるのか。
あの鮮やかだった仙台の街並みが、こんな灰色の地獄の世界に―――。
「ははっ。……信じられないよな」
六郎太は乾いた土を握りしめる。
指の隙間から砂が零れ落ちた。
「作物は育たず、米は採れず、売っている米の値は何倍にもなって、商人も消えた」
そして、と六郎太は続ける。
「……気づいたら、何もない。何もかもなくなっちまった」
六郎太は遠くの町を見た。
「仙台だけじゃない。米沢も、もう限界さ……オイラの鯉が縁を繋いだばっかりにな」
(米沢……?)
過去の喜二郎が、米沢と商売すると言っていたあの米沢だろうか。
六郎太は息を吐く。
「津軽も南部も会津も、みんな同じ……全て、こんな有様だ」
仙台を含む―――陸奥全域にわたる大飢饉。
これが喜二郎が言っていた天変地異……天明の大飢饉だとでもいうのだろうか。
「わ、私は、天明元年まで、ここで! 普通に生きてきた…それがたった二年で、こうなるなんて……」
信じられない。
鈴がその言葉を飲み込むと、六郎太は遠くの川べりに座り込む人たちを指す。
「最初は病……次に飢えだ」
(病……?)
鈴は異臭の正体を知る。
あの異臭、腫れぼった眼……そういえば、父と祖父が患者を治療していた時に見たことがある、病の人間の特徴。
つまり、病と飢饉が同時発生し、ここまでの事態を引き起こした。
陸奥の国の最大の米どころの仙台で、飢饉と病が同時に起こったとでも言うのだろうか。
「藩が……飢饉になったら、仙台藩が助けてくれるんじゃ…」
六郎太のぼろぼろの袖が風に揺れる。
その頬には一筋の涙が流れていた。
「仙台藩は、壊滅さ。……いや、他の藩もそう。……もう誰も助からない。すべて、終わった。もう、終わっちまったんだよ」
飢え。病。そして藩の壊滅。
どれか一つではなく、全てが重なって起こった。
飢えと病に削られ続け、気づけば、この町には何も残っていない。
……それが仙台の、たった二年後の姿だった。




