天命の鈴が鳴る
鈴は言われるがままに喜二郎について行き、草鞋に履き替えて庭まで出てしまった。
どこに行くのかなと鈴は思ったが、喜二郎は特に何も言わずに歩き続ける。
鈴がついて行くと、喜二郎はある扉の前で立ち止まった。
林家の土蔵だ。
「叔父上……?」
一抹の不安が鈴の心中に駆け抜けた。
喜二郎は、あれ以降錠がかけられていた土蔵の扉の前に立ち、錠を外して中に入った。
殺風景で埃っぽい土蔵の中、喜二郎は奥にしまわれた箱を取り出して中を検める。
中に入っていたのは三つの掛け軸だ。
喜二郎は一つ一つを床に転がし、中に描かれた絵柄を鈴の前に広げた。
これらは既に鈴が使用したものだ。
「ここまで、長い道のりだったな」
喜二郎は掛け軸に書かれた絵を指でなぞり、そう話し出した。
「最初にスズに会った時、父上の隠し子ではないかと思っていた頃が懐かしい」
「あ~……あの頃は私も必死だったんだよ」
過去から逃げ出したり、未来から逃げ出したり、いつも逃げてばかりだった気がする。
そんな自分を変えたくて、よりよい未来に変えたくて、鈴は表舞台に立った。
鈴にとっては激動の数年だったが、喜二郎にとっては二十年近くの長い物語だっただろう。
喜二郎は昔の出来事を思い出すように目を閉じていた。
「堰を作り、塩を売り、鮫を加工し、味噌を得て今日まで来ることができた。お主のお陰だ、リン」
「改まってどうしたの、叔父上」
それに堰から続く事業はほとんど鈴に関わりがない。
積み重ねてきたのは喜二郎や名主村の皆や塩釜の人たちである。
「某が米沢から離れられない中で江戸に渡り、米を得てくれた。某の不手際で手形を届けられず、迷惑をかけた」
手形は喜二郎のせいではないと思う。
それにそのおかげで江戸から仙台まで旅をするという貴重な経験も得ることができた。
「それに城にたった一人で登城させてしまい、苦労もかけた」
「でも、来てくれたじゃん。本当に心強かったよ」
飢饉が本格化し、仙台に米を預けることになった。
あわや無償で渡すことになりそうになったとき、解決してくれたのが喜二郎だ。
そう思うと、鈴はいつも喜二郎に頼りっぱなしだったんだな、と改めて思い起こされる。
「飢饉が本格化し、各地を飛び回ったリンの活躍を聞いて、これほど誇らしかったことはない」
「……ねぇ、どうしたの叔父上。変だよ」
喜二郎はめったにこういった感傷的なことを言う人ではない。
まるで永遠の別れを告げるかのような、そんな空気だ。
喜二郎は寂しそうに笑った。
「某には、この時が来ることが何となく分かっていた。お主が結ばれる相手が誰なのか。リンが生まれる前からずっと、な」
「……」
それは、喜二郎と結ばれることが分かっていたということだろうか。
いや……そんな口ぶりではない。
鈴は訝しげに喜二郎を見つめる。
「……薬袋は持っているか?」
「え? うん」
鈴は懐から真新しい薬袋を取り出す。
仙台に帰った時に喜二郎と交換した薬袋の中には、祖父が作り出した常備薬が入っているが、それ以外は普通の袋だ。
喜二郎は同じように懐から薬袋を取り出す。
ボロボロにほつれた未来の六郎太から受け継いだ薬袋。
喜二郎はそれを逆さに振って中にあるものを自身の手のひらに落とす。
入っている紙は四枚。……中身を入れ替えていないのであれば全て鈴の記憶にあるものだ。
一つ目は「過去を知りたければ叔父を、未来を知りたければ祖父を尋ねよ」という物。
二つ目は「仙台全員に倹約令を言い渡すのでみんな従うこと」という証文。
三つ目は「白紙の紙」。
四つ目は「いざという時に開けろ」と喜二郎に渡された物。
どれも三つ折りにしているので、どれがどれか開いてみないと分からないけど。
「この中に、一つだけ答えが書いてある」
「何の?」
「リンが、本当に好いた者のことだ」
本当に好いた者、と言われて即座に思い浮かぶものがない。
……ここで本当なら、喜二郎を思い浮かべなければならないのだろう。
しかし、今日にいたるまで喜二郎は頼れる叔父であり、兄であり、弟であり、家族として接してきた。
だったら、本当に好いたものが喜二郎であっても、間違いではないはずだ。
それに喜二郎に嫁入りすることは、鈴も納得して決めたことだ。
「……じゃあ、そのどれかの一つに、叔父上の名前が書かれているんだね」
鈴はそう喜二郎に尋ねる。
喜二郎は苦笑いしながら首を振った。
「某はお主を幸せにする自信はあるつもりだ。だが某と祝言を挙げれば、リンが最も欲しかったものを諦めることになる」
「……」
「だから、選んでくれ」
喜二郎は鈴の上辺だけの言葉を許してくれなかった。
選んでくれ、と言ってもどれを選べばいいのだろうか。
---
四枚の折りたたまれた紙を、自分は指さす。
そのうち、一枚は自分が「いざという時に開けろ」と大阪で指示したものだ。
それは父・什吾から受け取った、リンの将来に関わる紙だった。
だが、リンは四枚の紙を前に、おろおろと右往左往してしまう。
自分は仙台に戻って来てから、鈴が安全に暮らせるよう手を尽くしてきた。
清右衛門殿との関係も、父との因縁も、もう以前ほどリンを縛るものではない。
イロハ様との関係も良好なようで、まるで姉妹のようだった。
リンがこのまま自分の側室として生きていく道は、もう十分に整っていると言える。
しかしリンが心の奥底では今も理想の人物を追い求めていることを、自分は知っていた。
リンが幼いころからあこがれていた人物に思いを馳せ、その人物と出会うことを夢見ていることを。
そして、それが自分ではないことも、重々承知していた。
正直この方法を試みるかどうか、迷っていた。
合理的ではないし、理性的でもない。運の要素も強い。
しかし鈴の母と交わした約束を守るなら、嫁入り前の今が最後の機会かもしれない。
『リンのことを、一番に尊重してくれますか』
悩みに悩んで遅くなってしまったが、その約束を守ろう。
最後くらいは、鈴自身に自分の道を選ばせてやりたい。
自分はどのような結果になってもリンを祝福する。
その覚悟でリンに問いかけた。
「薬袋の中にあった四枚の紙は、それぞれお主の行く先を示している」
「えっ……?」
リンは四枚の紙を凝視する。
どれも古い紙なので、何が書かれているのか、そもそも何か書かれているのか自分にも分からない。
だがそれぞれの紙がリンを導いて、この天明の大飢饉を乗り越えるための鍵になってくれたことは聞いている。
「有り体に言おう、某にも覚悟が欲しい」
「……」
それは姪ではなく、一人の女性として扱う覚悟だ。
だからどのような結果になっても、腹をくくるつもりである。
息を整え、四枚の紙を掌に載せてリンに差し出した。
「一つだけ選んでくれ。無論、選ばなくてもいい」
「……」
リンは再び紙を凝視した。
……一言、余計なことを言ってしまっただろうか。
しばらくして、リンは首を振った。
選ばない、ということを選択したように見えた。
---
叔父上は覚悟が欲しい、と言った。
それは私の気持ちに対する覚悟なのだろう。
だから、これは選ばないのが正しい。
何も選ばないことが、叔父上を選ぶことになる。
私は土蔵の床に置かれた四枚の紙から顔を背けて首を振った。
「……思えば、リンはいつも誰かのために身を削っていたな」
叔父上はそう言って優しく微笑む。
「村のため、藩のため、仙台のため……リンの優しさを、某はよく分かっているつもりだ」
「……」
「リンを試すような物言いになってしまったのはすまぬ。言い直そう、このうちの一つを選んでくれ。某を気にすることはない」
「それは……」
「どのような結果になったとしても、某は受け入れることを誓おう。だから気軽にでいい」
だったら、なんで開いた状態で選ばせてくれないのだろう。
中身も分からないのに選べとは、私はどうやって選べばいいのだろうか。
「中身が見えないんだけど……紙を選んだら、どうなるの?」
「リンの人生が、そこから始まる」
私の人生って……いったいどういうことだろうか。
おそらくこの数年、この天明の大飢饉を乗り越えるために奔走してきたことを言っているのだろうか。
まぁ、確かに今まで自分のことを顧みる余裕なんてほとんどなかったし、叔父上の言い分は正しい。
しかしなぜ紙なんだろう。
どれを選べば、私の人生が始まるというのだろうか。
……比喩的な表現なのかな、と思うことにした。
「……」
しばらく考え込んでいる私が答えを出せないように見えたのか、叔父上は苦笑いしていた。
「そんなに深刻にならず、おみくじを引くつもりで選べばいい」
「おみくじを……?」
叔父上は頷いた。
「大吉しか、引いたことないのだろう?」
「大吉と吉だよ、叔父上」
だが、その言葉に私の肩の力が抜けたような気がした。
おみくじなら、選んだものがきっといい未来を指し示してくれるに違いない。
なんせ私は運だけはいいのだ。
そんなわけで私は、一番奥にあった紙を指さした。
「じゃあこれ」
選んだ理由はない。
叔父上の表情も変わらない。
私はその紙を摘まみ、目の前に引き寄せる。
「……何が書かれている?」
叔父上が優しく促す。
私は恐る恐るその紙を開いた。
「なに、これ。絵みたい。それになんだろう、これ……動いて――」
その瞬間、私の身体は光に包まれる。
これ、覚えがある。
今まで何度も繰り返し経験した感覚。
時の――掛け軸だ。
なんで。
どうして。
いまこれを――――。
光の向こうに吸い込まれる直前、私は叔父上の姿を探して振り向いた。
叔父上は既に遥か後ろに佇んでいた。
「行ってこい、リン。必ず某たちが――力になろう」
「おじう―――」
私は最後までその言葉を言い切ることができず、光の彼方へと意識が吸い込まれた。
---
鈴の姿が一瞬にしてかき消えた。
土蔵の中にはただ静寂だけが広がっていた。
喜二郎がひらりと舞い落ちた紙を拾い上げる。
「大当たり、だったようだ……な」
そこには赤い鎧をまとった武士に寄り添う美しい女性が描かれていた。
鈴が幼いころからずっとあこがれていた存在。
擦り切れるまで読んだと言っていた本の物語の主人公。
日ノ本一の兵と称された、豊臣最後の将。
喜二郎はその紙を手に持って、天を仰いだ。
「これまでの経験が……かの御方を支えるために繋がっていたのだな」
村での貧しい生活も、村の復興や商人たちの交渉も……そしてこの飢饉も。
きっと、そのすべてを持って支えるために……この時掛けの紙があったのだ。
喜二郎はその紙に名前が書かれていることに気が付く。
竹林院――かの御方の妻として知られる女性の名。
喜二郎は腰に巻いた真田紐の帯を一撫でした。
「経験は言わずもがな。この時代にはない薬、玉鋼で作られた脇差、そして一国を買い取れる夜明珠……。きっと助けになるはずだ」
こうなることを、そしてこうしなければならないことを、喜二郎はずっと前から決めていた。
……決めていたが、本当に実行するかは最後まで迷っていた。
喜二郎は鈴が「真っ白で何も書かれていない」と言っていた紙を開く。
そこには遥か昔に書かれていたであろう喜二郎への伝言が書かれていた。
丸みを帯びた独特な字。この字を書く癖は、今も昔も変わらないらしい。
内容は割愛するが、この紙を選んだら他の紙は全て燃やして、鈴を娶ってほしいというようなことが書かれている。
喜二郎は遥か昔の時代に旅立った鈴を思い、天窓から降り注ぐ月明かりを見上げた。
「頑張れリン。天の使いに幸あらんことを」
さしあたって、喜二郎は鈴のことをどう説明するべきか悩むことになる。
祝言を挙げる花嫁が、過去に旅立ったなど言えるはずもない。
そして数日後、花嫁がいないはずの祝言で仙台藩を巻き込む大波乱の事件が起きるのだが、それはまた別のお話であった。




