歴史にささやく者と、世界の分岐を歩む者
「初よ、お主の言い分はわかった」
沈黙を貫いていた什吾が重々しく口を開いた。
初はパッと表情が明るくなる。
「では――」
「だが、その前に二人に話を聞きたい。市平、初。席を外してくれ」
初と市平は互いの顔を見合わせ立ち上がり、鈴を案じるように部屋を出ていく。
その場には鈴と喜二郎だけが取り残された。
二人は何も言葉を発せず、什吾の言葉を待った。
そして、什吾は二人に近くへ来るよう手招きする。
什吾は囁くように二人に話しかけた。
「喜二郎、そしてリン。どちらがタイムトラベラーだ?」
「……たいむとらべらー、ですか?」
聞き慣れない言葉に鈴は喜二郎の方を見るが、彼にも心当たりはなさそうだった。
何かの暗喩だろうか。
意味が通じないと悟ったのか、什吾は言い直す。
「過去を変えたのはどちらだ、と聞いている」
私ですけど、と言いそうになって、喜二郎が鈴を手で制する。
「……それを聞いて、どうするおつもりですか」
「歴史を変えてはならん。重大なパラドックスの引き金になることが分からないのか」
……ぱらどっくす。
ひきがね、って何のことだろう。
とにもかくにも分からないのは確かだ。
什吾は息を吐き、立ち上がった。
「二人ともついてこい」
その有無を言わせぬ言葉に、鈴と喜二郎は従うしかなかった。
---
三人が移動したのは林家の土蔵だった。
鈴が最初に時掛けをした印象深い場所である。
什吾は土蔵の扉を開け、振り返ることなく入っていった。
「……リンは義姉上と一緒にいろ。某一人でいい」
「ううん、私も行くよ。いつかは決着を付けないといけないことだって、ずっと思ってたし」
勘だが、喜二郎を一人で行かせると良くない結果になる気がする。
交渉能力とか、そういうのではない。もうほんとに鈴の勘だ。
喜二郎がため息一つつき、「離れるなよ」と先に土蔵の扉をくぐる。
鈴も喜二郎に続いて土蔵の中に足を踏み入れた。
土蔵の中はひんやりと冷たく、薄暗い。
天井からわずかに差し込む日の光が、かすかに土蔵の中を照らしていた。
「閂を。それで話は外に漏れなくなる」
中に入った什吾がそう鈴たちに言うが、喜二郎は閂を落とさなかった。
什吾は何も言わず、一つだけため息を吐いた。
喜二郎は鈴を背に隠すように什吾と対峙する。
暗さに目が慣れ始め、土蔵の最奥で什吾がこちらを見ていた。
「天明四年。仙台藩は餓死者が相次ぎ、農村から人がいなくなった」
什吾は、そう話を始めた。
餓死者は他の陸奥の国と比べるとあまり出ていないはずだが、仙台でも少なくない人数が亡くなっていることは知っている。
「天明五年。疫病が流行し、街道沿いで遺体があふれかえった」
「天明……五年?」
今年は天明四年なのだが、どういうことだろう。
理解を求めて喜二郎を見ると、喜二郎は冷や汗を流していた。
「天明六年。藩札が暴落し、商人たちが仙台から去った。結果、餓死者の歯止めが効かなくなった」
「……」
何を、言っているのだろう。
まるでそれは。
未来の出来事を語っているような口ぶりだった。
鈴がそれを表情に出したことで、什吾が幽鬼のような目で鈴を見る。
什吾は話を続けた。
「天明七年。田沼が失脚し、清右衛門が死ぬ。生活困窮者へ救済が始まる」
清右衛門が、死ぬ?
あの老獪な狐のような奉行の死。
そんなこと、あるのだろうか。
「……天明八年。天明の大飢饉と言われた時代は終わり、豊作を迎える。これが本来の歴史だった」
「父上……あなたは時掛けをしたことがあるのですね」
喜二郎の問いに、什吾が顎に手を当てて目を伏せる。
「なるほど、時掛けか。この時代にふさわしい呼び方だ。使う機会があったらその言葉を使うことにしよう」
「父上」
喜二郎が声を鋭くすると、什吾は虚ろな目でこちらを見た。
「儂は……俺は歴史を知っているだけだ。タイムトラベル、つまり時掛けなどしたことはない」
その幽鬼のような表情に、鈴は初めて祖父に対して恐怖を感じた。
---
「まず言っておこう。俺は歴史を知っているが……このまま時代が進めば、もはや意味のないことだ」
「それは『某が』歴史を変えたからですか?」
……某が?
時掛けをしたのは鈴だから、歴史を変えたのは鈴である。
これは喜二郎に庇われているのだろうか。
喜二郎は鈴を背に隠したまま、什吾を見据える。
「本来の歴史ならあと四年、回復が遅れるはずだった仙台だ……しかし、すでに仙台は回復の兆しが見えている。歴史を変えたのだろう?」
「……良いことではありませんか?」
「この飢饉で致命的なダメージ……傷を負った仙台は、幕末ではほとんど戦力にならなかった。だが、ここで力を残したまま幕末を迎えれば、仙台こそが戦場に……決戦の地になる。この飢饉など目ではない数の死者が出るだろう」
幕末、とはなんだろう。
幕府の末期、で幕末なのだろうか。
什吾は鈴が知る時掛けの歴史より、はるかに遠くの未来を知っているようだった。
しかし戦場とは穏やかではない。
二百年近く続く江戸幕府が危機を迎えることなどあるのだろうか。
什吾は諦観の表情でうつむいた。
「もう歴史は変わってしまった。仙台が滅びの未来を歩むか、俺には見通せん」
「だから諦めたというわけですか」
喜二郎の言葉に什吾は「いいや」と首を振った。
「時掛けの元凶を取り除けば、歴史は修正されていく。喜二郎、お主が時掛けしたというのであれば、今年までに亡き者となっておれば、本来の歴史に戻るだろう。……リン。お主はいつ死ぬか分からん。俺が見た歴史のほとんどでは死んでいたが、最後に見た歴史では伊達家に嫁いでいた」
そう言って什吾は刀に手をかける。
「喜二郎、そしてリンよ。お主らのどちらが時掛けしたのか、俺には確かめる術がない。……分からん以上、どうするべきか。喜二郎、お前なら察していよう」
「父上、本気ですか?」
喜二郎の言葉に、什吾は刀をすらりと抜いて答えた。
「俺の……儂の最後の願いだ。ここで二人の命を差し出してほしい。それが……歴史を元に戻す唯一の道なのだ」
什吾の切っ先がゆらりと揺れる。
武術の心得がない鈴でもわかった。
什吾は明らかに一流の剣術の使い手である。
「重豪がお主たちを取り込んでくれれば、戦場は薩摩になっただろう。せめて儂の知らぬところで生きてくれればと、願いを託した。だが、重豪はお主たちを取り込まなかった。残念でならない」
そういえば重豪は鈴の時掛けを知っていた。
なぜ重豪が知っていたのかずっと疑問だったが、什吾が重豪に情報を渡していたのか。
喜二郎も腰の刀に手を掛けた。
「……刀を収めてください、父上」
什吾は喜二郎の言葉に耳を貸さず、一歩詰め寄った。
喜二郎は下がらない。……鈴が後ろにいるからだ。
「仙台を戦場の中心地にするわけにはいかぬ。我が子と孫を手に掛ける罪業。甘んじて背負おう。地獄のような未来……たった二人の犠牲でそれが避けられる」
地獄のような未来……「あの天明の飢饉」よりひどい未来を避けられる……というのか?
それは、「あの未来」を見た人なら絶対に言わないであろう言葉だ。
「あんな……あんな未来を受け入れろってことですか! そんなこと! あの未来を知っている人なら絶対に言いません!」
もう辛抱ができず、鈴は叫んだ。
地獄のような未来。
それを誰よりも知っているのが、時掛けをした鈴だ。
誰もが絶望したあの未来を目にして「未来を変えてはならない」と思う人間がいるわけがない。
能面のようだった祖父の顔に初めて表情が宿った。
「やはりお前だったか。宝暦、明和のスズ」
「そうです、私が時掛けしました。天明四年の未来を身をもって体験しました!」
だが、その時什吾の目に戸惑いが生まれた。
「身をもって、体験した、だと?」
「そうです。時掛けで未来の仙台を歩きました。お爺様がおっしゃった戦場の未来……それが何年後かは知りません。それでも未来の天明の大飢饉を肌で感じたのなら、そんな言葉は出ないはずです」
鈴の言葉で、什吾が絶望を宿したような目を鈴に向けた。
「過去だけではなく、未来にも行ったと、お前はそう言うのか。直接干渉することができたと……そう言うのか」
鈴が頷くと、什吾の目に強い光が宿った。




