田沼意知暗殺の波紋
遠ざかる島津の船に鈴は手を振りながら、問題の一つが決着したことを実感していた。
喜二郎を大阪から連れ出し、米も確保できた。
あとは江戸を経由して仙台に戻れば、鈴の仕事は終わりだ。
「でも、結局のところ重豪様に時掛けのことを教えたのって……」
あの重豪との問答で、時掛けを伝えた人物についてはっきりとした答えを聞くことはできなかった。
しかしもうそれは考えても仕方がない。
……今は考えないようにしたい。
仙台の稲作が回復できればこの飢饉も次第に落ち着くだろう。
難しいことはそれから考えても遅くないはずだ。
風が強くなってきたので、鈴は船室に戻ろうと踵を返す。
「お主が仙台に留まる理由は何だ、喜二郎殿」
船内へ続く扉を開こうとしたとき、鈴の耳に声が聞こえてきた。
清右衛門の声だ。
鈴は扉から手を離し、そのまま背を預ける。
「某の故郷は仙台です。他に理由が必要でしょうか」
どうやら清右衛門と話しているのは喜二郎らしい。
聞いてよいものか迷ったが、少しだけ耳を立てることにした。
そう言えば喜二郎の口から仙台に留まる理由をはっきりと聞いたことはない。
「足りぬな。儂はその言葉を鵜呑みにするほど楽観してはおらぬ。お主が嫁を取らぬのも仙台に縛られたくないからではないのか」
なるほど、たしかにそういう考え方をすることもできる。
だが喜二郎はあっさりとそれを否定した。
「縁談はいくつかいただいております。ただ某が優柔不断ゆえ、決めかねているだけでございます」
「戯言を申すな。お主ほどの器量ならば、イロハ様に相応しいのは明らかであろう。伊達家に入るのだ、喜二郎」
これは鈴が聞いていい話ではないのかもしれない。
鈴はそっとその場を離れようとした。
「さもなくば、儂はお主とその家族を処断することになるやもしれん」
鈴はその言葉で足を止めた。
なんだか穏やかではない方に話の舵が切られた。
「処断とは物々しいお言葉。その理由をお聞かせいただいても?」
「わかっておろう」
喜二郎にはそれだけで伝わったのだろう。
鈴には伝わらずに首をかしげることになったが。
とん、と肩が突っつかれる。
ナナシだった。
刀の柄を鈴の方に当てながら、ナナシは顎で「離れろ」と鈴に促す。
その後の話も気になったが、後ろ髪を引かれる思いで鈴はその場から離れた。
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江戸に着くと大事件が耳に飛び込んできた。
――田沼意知、暗殺。
数か月前、あの意知が暗殺されたらしい。
「江戸の街が落ち着かないのはそのせいか」
喜二郎は江戸の街並みを見渡して言った。
意知は鈴に江戸で商売をするために免状を出してくれた幕府の要人だ。
まさかあの人が亡くなるなんて信じられない。
だが民の話を聞くと「せいせいした」というような空気が漂っていて、いたたまれない気持ちになった。
あの人は性格は苛烈だったが、ちゃんと江戸の人を考えていたと鈴は思っていたからだ。
仙台の役人たちは一報を聞くなり、急に慌ただしく動くことになった。
特に清右衛門の動揺はすさまじく、彼が激高しているのを初めて見た。
清右衛門は後続の船が到着するまでの三日間、荷物の整理と諸藩への挨拶のため滞在するよう、全員に言い渡した。
「そう言えば、トシとイザマルは後続の船に乗っているんだよね?」
「清右衛門殿の話ではそのようだ」
最初、トシとイザマルが仙台の船に乗っていないことを怪訝に思った鈴だったが、どうやら後続の船に乗っているらしい。
清右衛門が乗ってきた船とは別に、後続の船がもう一隻あるとは知らなかった。
まぁ確かにあの船には積み荷がそれほど乗っているようには見えなかったし、複数ある船の中に乗っていてもおかしくない。
しかしこれからどうするか。
江戸は大変なことになっているというのに、鈴はこの三日間なにもやることがない。
というか話が大きすぎて何もできることがないのだが。
大半の町民は鈴と同じで、普段と変わらない生活をしているように見える。
……せっかく江戸に来たので、情報集めを兼ねて太田庵によっていこうかな。
いやいや、こういう時こそ秘密の情報が集まる本屋に……ああでも、ナナシがいるから今回も無理かな。
江戸が大変な時に、鈴だけが浮かれているわけにもいかないだろうし。
そう思った矢先、喜二郎が苦笑いする。
「義姉上と同じになってしまったか。某でよければ付き合おう」
「え! いいの!?」
まさか思いもよらない援軍がいた。
ナナシは物凄い不満そうな顔で喜二郎と鈴を見ていた。
「正気か、お前ら」
それはこの江戸が大変な時に何をしているんだという言葉だろうか。
それとも鈴の趣味の本に向けた言葉だろうか。……両方かもしれない。
だが喜二郎は「そう言うな」と鈴を擁護してくれる。
「内成が辟易する気持ちもわかる。だが、ああいう書物の表現や言い回しはとても勉強になる。先入観を捨ててみると意外と面白いものだぞ」
喜二郎の肯定的な意見に「御免被る」とナナシはそっぽを向いた。
色々大変なことが起こっているはずなのだが、本屋のことで頭がいっぱいになった鈴は喜二郎とナナシを急かして歩き出した。
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秘密の本屋は表立っては場所が分からないようになっている。
表は風刺画の店で主に子供がたむろしているが、奥の方にはちょっとお値段がお高い本屋になっているのだ。
こういう造りは仙台と変わらない。江戸に来て散策した時に見つけてから、ずっと入りたいと思っていた。
「はぁ~……! ここが極楽だったんだね!」
店の奥に入ると、立てかけてある本たちが鈴の目に飛び込んできた。
実家の書庫も相当なものだったが、なかなか新しい本は増えない。
仙台にも貸本屋はあるが、母の機嫌がよいときくらいしか利用したことがなく、鈴は活字に飢えている。
時掛けする前は喜二郎の家がもっとも新しい本を読める場所だったが、時掛け後はとても殺風景なものになっていて、あまり蔵書は置かれていなかった。
「叔父上、どうしよう。私の夢が叶って感無量だよ」
「品揃えもなかなかのものだな」
喜二郎も好奇心が刺激されたのか、興味深そうに蔵書を眺めていた。
ちなみにナナシは外で待機だ。絶対に入りたくないらしい。
さて。ここもすごい品揃えだが、鈴のお目当てはさらにその奥にある。
鈴は店番をしている店主に近寄り、そっと囁く。
「断金の書物ってあります?」
「お嬢ちゃん、通だね」
店主が親指で後ろの本棚を指し示す。
一見するだけでは裏に本棚があるとは分からない。きっと幕府の検閲を逃れるための工夫なのだろう。
鈴は裏にある本棚に回り込むと、何とも言えない息を吐いた。
というか、あまりの感激に言葉が出てこない。
母上の隠し本棚にあった物語の続きや、名前だけは知っている人の新刊などが並んでいる。
買えるものなら買って帰りたいが、どうだろう。
裏に書かれている値札を見て、鈴は肩を落とした。
貸本屋は基本的に本の購入価格を基準にしていて、借りる日数に応じて料金が分割される。
仙台に帰ってしまう鈴が借りるわけにはいかないので買うしかないのだが、かなりお高い。
もうちょっと安くなれば買えそうだが、値切れるだろうか。
いや、倹約令真っ最中の仙台で本にこれだけの大金を使うこと自体、よくないだろうか。
「いいのがあったか?」
様子を見に来た喜二郎がペタンと座り込む鈴に声をかける。
鈴は無言で手にした本を喜二郎に差し出した。
「ふむ……」
ちょっと口にできない内容なのだが、あまり喜二郎に忌避感はないようだ。
パラパラと何度か本を捲って、本を元の場所に戻す。
「叔父上ぇ」
「買うことはできん、理由はわかるな?」
喜二郎にねだったら買ってくれないかなと思ったが、そう甘い話でもなかった。
念願だった本屋に寄ることができたが、鈴は結局何も手に入れられずに去ることになった。
江戸に十日ほど滞在できるなら貸本で十分だったのに、残念である。
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喜二郎はこの後、世話になった人に挨拶したいとのことだったので先に食事することになった。
鈴たちはとりあえず腹ごなしのために太田庵に来ていた。
「らっしゃいましー……お、今年も来たな嬢ちゃん」
「久しぶりだね、デンシュ。オカメ蕎麦三つね」
あいよ、と言ってデンシュは下がっていく。
「まさか、太田庵とはな。ここがどういう場所か知っているのか?」
「うん。美味しい蕎麦を出すお店」
あと、近くに遊郭があるので、その客が利用する店だ。
喜二郎の口ぶりだとこの蕎麦屋は知っているらしい。
「もしかして叔父上、遊郭に行ったことあるの?」
「ああ」
からかうつもりで言ったのに、割と真面目に返答されてしまった。
逆に鈴の言葉が詰まってしまう。
「へ、へぇ。やっぱり叔父上も男なんだね」
「いい商売になるんでな。江戸で銭稼ぎする時に雑用で遊郭に入れてもらっていた」
ん? いい商売?
ま、まさか。ひょっとして後ろ暗い儲け話で荒稼ぎし、その銭で遊んでいたというのか。
衝撃を受ける鈴をよそに、喜二郎は懐かしむように当時のことを話し出した。
「某の刺繍の技術はそこで培った。流行の最先端を知るには遊郭が一番だからな」
「……刺繍?」
どういうことだろう、と鈴は首を傾げた。
「三吉に渡してあったものがあっただろう? アレに施した刺繍は遊女が着ている着物や手拭いから学んだものだ」
それは三吉が持っていたフンドシのことだろうか。
やけにお洒落だと思ったら、そういう事情があったのか。
しかし真面目を絵にかいた喜二郎でも女遊びするんだな、とちょっと意外だった。
「……誤解しているようだが、某はあくまで商売のためだぞ。客として行ったことはない」
「はいはい」
遊郭に行って何もしないなんて信じられるわけがない、話半分に聞いていた方がよさそうだ。
ちょっと失望をにじませた鈴に、喜二郎は居心地が悪そうに肩を竦めた。
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オカメ蕎麦を食べていると、親方の亀助が二階から降りてきた。
「む、食事中だったか。食べ終わったら上に来てくれるか?」
「久しぶり、亀助。先に言っておくと、今年は蒲鉾はないんだけど。それでもいい?」
構わん、と亀助はそれだけ言って階上に戻っていった。
「リンは顔が広いな。太田庵の店主とも知り合いとは」
「まぁ……ね」
ちょっと複雑な心境をしている鈴に喜二郎は首をかしげていた。
いつも通り美味しいオカメ蕎麦を堪能し、鈴たちは亀助が待つ二階に向かった。
「来たな、嬢ちゃん。まずは薩摩から買い取った蒲鉾を見てほしい」
「ん? どれどれ」
そうして差し出された蒲鉾は仙台の蒲鉾と見た目が違う。
焼き目がなく、真っ白な羊羹みたいな見た目だ。
食べてみると、しっとりとしてほのかに甘みがある。
「これに合うように蕎麦を改良しているんだが、意見があれば教えてくれ」
「うーん……甘みがあるから、仙台の蒲鉾と同じ使い方だと汁が目立たないんじゃないかなぁ」
鈴は思いついたままのことを話す。
使えない案が大半だったが、一部で使える案もあったのか亀助が紙に殴り書きをしていた。
「亀助殿、そこの紙を譲ってもらえないか?」
「ん? あんたが嬢ちゃんの保護者か。いいぞ、紙はいくらでもある」
ずい、と亀助は喜二郎に白紙の束を滑らせて寄こす。
喜二郎は懐から書道道具を取り出して、それに何かを書き出していた。
だが、亀助はふと思い出したように喜二郎の顔を見た。
「あんた、もしかしてカテメシを書いた人かい?」
「某が書いたのは原本だけだがな。内容は覚えている」
亀助の瞳がきらりと輝く。
そういえば亀助、カテメシの話聞きたがっていたね。
うずうずしている亀助に「紙の分の礼はしよう」と喜二郎は頷いた。
それから亀助が怒涛の質問を繰り返し、喜二郎が淡々と答えていく。
しかしそれでも喜二郎の筆が止まることは一度としてなく、何を書いているのか非常に気になった。
たっぷり質問した亀助が満足そうにしたころ、喜二郎の筆もようやく止まる。
喜二郎は懐から取り出した糸でその紙束を綺麗に製本すると、鈴にそれを差し出した。
「これを渡すから機嫌を直してくれ、リン」
「……なに、これ?」
よくわからずに受け取った鈴は、ぺらりとその紙をめくる。
内容は、なんと貸本屋で売っていたあの本だった。
冒頭部分しか読めなかったが、出だしは確かにこんな感じだった気がする。
「え? これどうやって再現したの? 半分くらい創作だったり?」
「物語ならば文脈に繋がりがあるので、ある程度覚えるのは難しくない」
いや、あの時の喜二郎はパラパラと流し読みしただけだった気がする。
少し言い回しが違うところもある気がしたが、内容はほぼあの本だ。
喜二郎が言うには、細かな言い回しは補っただけらしいが、それでもとんでもない能力だ。
「機嫌、直してくれたか?」
いや、機嫌が悪かったわけじゃないんだけど。これは得した気分だ。
鈴はさっきまでの複雑な心境をポイと捨てて、満面の笑顔を浮かべた。
喜二郎の能力にも驚かされたが、まさか念願だった本がこんな風に手に入るとは思わなかった。
家に帰ったら母にこの本を自慢しよう。
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それから喜二郎の知り合いに挨拶しに行くことになった。
喜二郎は十年くらい前は江戸で商売していたので、かなりの人に挨拶することになるらしい。
鈴なんか江戸で行きつけの店なんて太田庵くらいしかないのに。
「もしかして叔父上、江戸でかなり顔広い?」
「市井の間ではそれなりに付き合いがある自覚はあるが、各藩の奉行のような大物との繋がりはほとんどない。米沢、会津、加賀の三つだけだ」
いや、その三つってどれもすごいんだけど。
そういえばどうやって伝手を作ったのか、聞いたことなかった気がする。
米沢は上杉様が教えてくれたから知っているけど。
喜二郎はそれについてはあいまいに笑って言葉を濁していた。
「しかし物価がそれなりに上がっているな。やはり東北の米がないと、江戸の活気を取り戻すのは難しい」
「まったく米が入ってこないからね。でも仁八によると、今年は少し収穫できそうだって話だよ」
それは朗報だ、と喜二郎は微笑んだ。
「この一年を乗り切れば、事態が好転するかもしれん。特に仙台はリンたちのお陰で、他藩と比べると被害が軽微だ」
「しばらく不作は続くかもしれないけど、まったく収穫がないってことにはならなそうだよね」
仙台の北方にある南部藩の被害は目を覆いたくなるものだと聞いている。
この飢饉が早く終わってくれることを祈るばかりだ。
それから喜二郎はいろんな人を訪ねては、思い出話をして過ごしていた。
必ずと言っていいほど田沼意知の話題……というか悪口が耳に入る。
亡くなった人をこれだけ悪く言うのは、あまりいい気がしない。
忘れかけていた不安が再び鈴の中を駆け巡っていた。




