テンメイズヘル
薩摩の圧倒的な力で、最新の海洋軍船を引き離しつつ一行は大阪湾を脱した。
だが、いかに筋骨隆々の薩摩隼人と言えども体力には限りがある。
帆が風をつかんだときは風の力に任せて休息を入れつつ、和歌山を通り過ぎた。
ちょうど帆が風をつかんだところで、ミクニは船員に休息を促す。
「んん。えーと、モヤシさん?」
「……ナナシです、ミクニ様」
ナナシが努めて穏便に訂正する。
そういえば薩摩武士がナナシを初めて見たとき、彼のことを「モヤシ」とか呼んでいた気がする。
ふーん、とミクニは頷いた。
「手伝ってくれるのは嬉しいけど、あなたまで櫂を漕がなくていいんだよ?」
「俺は喜二郎のように頭が使えません。船賃代わりに漕がせてください」
ミクニは「そう?」と言って特に引き留めもせず、引き下がった。
それにしても丁寧に話すナナシは、なんか新鮮だ。
薩摩武士に「モヤシにゃできん芸当もす」とか煽られたのが誇りを刺激したのか、ナナシは対抗するように船を漕いでいる。
ちなみに喜二郎は操舵と帆の管理を行っており、上手く風をつかんでいた。
鈴は猫の世話を頼まれて……というかそれ以外に何もできないので預かっている。
去年生まれた三匹の猫だ。ミクニにとてもよく懐いており、鈴にも愛想を振りまいてくれる。
「んー。なんか、あのモヤシさんとキジローさんって似てるね」
「え? そうかな」
ミクニの疑問に鈴が首を傾げた。
そう言えば二人が揃って行動しているのを見るのは、これが初めてかもしれない。
うーん、顔立ちはたしかに似ているかもしれない。
でも美形の人って皆同じ顔に見えるんだよね、と鈴は思った。
「顔はキジローさんの方が端正なんだけど……なんていうか雰囲気? ……が似てるんだよね」
ミクニは「兄弟?」と首をかしげるが、それはないと思う。
喜二郎は仙台生まれだし、ナナシは確か白石の生まれだったはずだ。
それを伝えると「そっかぁ」と、ひとまずは納得したようだ。
「そういえば、リン。なんで父上に狙われてるの?」
「ええ……? ミクニも知らないの?」
喜二郎を釣るために鈴が標的になったとは聞いた。
しかし、そのためだけに最新の軍艦を持ち出してまで追いかけてくるのだろうか。
このまま江戸まで追いかけてくるとなれば、秘密裏に船を作った意味がなくなってしまう気がする。
風をつかんでいる間の薩摩武士たちは、ぐでーと甲板に寝そべっていた。
風をつかんでいる間に働く喜二郎と、休息を取る薩摩武士。
うまく役割が分担されていた。
「なんとなく気が付いているかもしれないけど、キジローさんと薩摩の人間って相性がいいんだよね」
「相性?」
鈴の疑問にミクニは「そうそう」と頷く。
「薩摩は筋肉ですべてを解決しようとするけど、知恵者には敬意を払うの。でも、それは相手にも敬意があるかどうかで対応が正反対なんだ。ほら、モヤシさんとの差がそれかな」
だからミクニの父である島津重豪が喜二郎を欲しがるのはわかる。
しかし鈴を欲しがる理由は特に思いつかないらしい。
「特にリンに縁談を持っていくようなことも言ってなかったし、ホントに分からないんだよね」
たしかにこう言っては何だが、リンは特に頭が良いわけではない。
商売はそこそこできるものの、交渉や腹の探り合いは政に関わる人たちに比べれば足元にも及ばない。
それこそ喜二郎の血縁である以外に、重豪が鈴を欲しがる理由が分からないのだとミクニは言う。
「まぁ、逃げ切っちゃえばどうでもいいかー。んん! 風が止んだね。ほら休憩終わり、皆いくぞー!」
「おぅ! チェストぉおお!」
ミクニの号令によって、再び船は速度を上げた。
鈴は猫をあやしながら、釈然としないまま船の揺れに身を任せていた。
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それから数日の間、海の上での追いかけっこが続いた。
途中雨にぬれたり波が高くなったりしたが、薩摩武士の力と喜二郎の操舵のお陰で軍船には追い付かれていない。
「おかしい」
喜二郎が遥か後方にいる軍船を見ながらつぶやいた。
「何が?」と鈴は首を傾げた。
「あの船は雨や波の影響を受けにくい構造をしている。にもかかわらずこの船との距離が縮まっていない」
「それはいいことなんじゃないの?」
雨や波が高くなった時は帆を畳み、櫂も収めていた。
夜はさすがに薩摩武士も眠り、代わりに喜二郎が風を読みながら船を操っていた。
それでもその間に距離を詰められることを喜二郎は想像していたようだ。
間近に迫られるよりはよいような気がするのだが、喜二郎は胸騒ぎがするようだった。
「地図を見てくる」と言って船長室に向かったので、鈴もついて行った。
「ミクニ様。地図をお貸しくださいませぬか」
「んー。やっぱりキジローさんも違和感あり?」
船長室に入ると、ミクニも落ち着かない様子で立っていた。
二人は地図を広げると、大まかな現在地を指さす。
「今は名古屋らへんだから、江戸まであと半分かな」
「そうなると、こちらの消耗を待っているのが理由の一つですね」
そして喜二郎は考えられる理由を述べていく。
「最新の船の性能試験を兼ねているのかもしれません。あるいは、先行している我々の油断を誘っているか」
「何か方法はあるかな、キジローさん」
ミクニは期待を込めて喜二郎を見た。
「少し速度を落としましょう。漕ぐ人数も、今日一日は半分でよいかと。夜半には距離を縮められるでしょうが、こちらにミクニ様がいる以上は射程に入っても当てるつもりはありますまい」
「射程?」
喜二郎の言葉で少し気になったことがあった。
射程に入っても「当てる」つもりはないとはどういうことだろう。
あの船には弓や種子島の達人が居て、かつそれを威嚇だけに留める腕前があるというのだろうか。
鈴の疑問にミクニが答える。
「あの船……軍船にはね、大筒が積んであるんだよ」
「大筒!?」
大筒……国崩しと呼ばれるほどの威力を誇るそれは、戦国時代に特に恐れられた。
だが、それを船に乗せるなんて誰がそんなことを……そう思ったところで、鈴には一人しか思い浮かばなかった。
「んん! あれを見た時は興奮が止まらなかったんだけどね! 追われる立場になるとこれほど脅威だとは思わなかったよ」
「そうですね。図らずも薩摩の演習に付き合うことになりそうです」
二人はそう言って笑い合った。
いや、どこに笑う要素があったのか、さっぱりわからなかったが。
喜二郎の予想通り、船の速度を落としても軍船はあからさまに距離を詰めようとはしなかった。
おそらく江戸に着く前に一気に詰め寄ってくるのかもしれない。
嫌な緊迫感を鈴は感じ始めていた。
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折悪く嵐がやってきた。
さすがにこのまま海にいるわけにもいかないと思った鈴とは反対に、ミクニと喜二郎はこのまま船にいることを選択した。
「理由の一つは、許可を取っていないからこの船はどこにも寄れないんだよね」
そう言えばミクニは、慌てて出航してきて鈴たちを回収したように見えた。
各藩を通過するための許可状を発行する時間などなかったのかもしれない。
「それにこの嵐だと港の方が転覆の危険性が高い。操船できる者がいるなら船の方が安全だ」
喜二郎はそう言って船に残る方を勧めた。
そう言えば喜二郎はどうやって船の技術を身につけたのだろうか。
「三吉に教えてもらった。鮫を捕まえるときに乗せる船が必要でな。軍船を作る時にも役に立ったが、それが此度はアダとなってしまったな」
嵐の中、船は揺れに揺れた。
慣れたと思っていた鈴でさえ、ぐるんぐるん揺れる船に酔って吐いた。
一昼夜の間、風と波に揺られて嵐が過ぎるのを待つ。
あまりの具合の悪さにナナシに背中をさすられていると、次第に船が大きく傾くことも減っていった。
「どうやら嵐を乗り切ったようだ」
「もう胃の中に何も残ってないよぅ」
ふらふらしながら甲板に行くと、船員はぐったりしたように座り込んでいた。
見たところ波にさらわれた人はいないようだった。
「まぁ、それほど大きくない嵐だったしね。次に来たらヤバいけど」
ミクニは空元気のまま笑った。
後方にいる軍船が気になった鈴は船の最後尾に行くと、かなり距離があったがまだついてきていることが分かった。
「嵐ですこし離すことができたのかな?」
「もう俺でもよく見えん。これだけ離せば、しばらくは大丈夫だろう」
その日は、はるか遠くに見える軍船を警戒しながら多くの者が眠りについた。
そして翌朝。
昨日まで見張っていた船とは別に、むしろ進行方向から近づいてくる船があった。
それは今まで見張っていたはずのあの軍船だった。
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「……最初から追跡していたのは二隻だった、ということですね」
「んん。だから追いつこうとしなかった……というか軍船の後ろの船が追い付けていなかったってことかぁ」
喜二郎とミクニが挟み撃ちにされた船上で呑気に分析を始める。
「あの嵐で後続のもう一隻が追いつき、嵐に乗じて先行していた軍船の方は某たちの進路に回り込んだ。遠目でよくわからなかったのは、それを某たちに誤認させ、足止めするのが目的ですね」
「さすが父上。海での経験は私たちより上だねぇ」
「……どうするの?」
もうあの軍船が、鈴にもはっきり見える。
早く行動しなければ、このままでは捕まってしまうだろう。
だが喜二郎もミクニも肩を竦めた。
「んー……バラバラになりたくなかったら、もう従うしかないよ。リン」
「性能が違い過ぎる。この距離ではもう逃げられん」
まさか諦めるというのだろうか?
あの諦めの悪い喜二郎が、そんな潔いはずがないだろうに。
鈴の表情を読んだのか、喜二郎は静かに笑った。
「無論だ。ここからは言葉の将棋……つまり話し合いの時間だ」
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薩摩の船は軍船に横付けされ、そのまま同じ速度で進んでいた。
薩摩の船も小さくないはずなのだが、この軍船と比較すると小舟に見える。
甲板の上には見下ろすように島津重豪が立っていた。
「Je hebt een flink stuk gerend, Kijiro. En Mikuni.」
「ずいぶん遠くまで逃げたものだな、キジローとミクニ。だって」
重豪の蘭語をミクニが翻訳する。
薄々感じていたが、薩摩……というか島津家は内緒話をするときに蘭語を使うらしい。
「Een proef uitvoeren op zo'n grote afstand… Heer Shimazu, u bent werkelijk een voorbeeldige daimyo.」
すると喜二郎が流ちょうな蘭語で重豪に応えた。
「え? 叔父上。蘭語を話せたんだ」
「あの船作るにあたって、みっちり勉強したんだって」
ちなみにミクニによると喜二郎は「こんな遠いところまで演習とはご苦労様です、大名の鏡ですな」と言ったらしい。
そういえば昨年ミクニが内緒話をしようとしたとき、喜二郎は蘭語を話せず「筆記ならできる」と言っていた気がする。
喜二郎はおそらく一年をかけて話し方も勉強したのだろう。
「んん。なんかね、イロハが練習に付き合ったんだって。私に言ってくれたらもーっと上手に教えたのに」
「へぇ……。で、叔父上は何て?」
「こんな遠くまで試験運用とは藩主の鏡ですな島津様。だって」
はたから聞いていると世間話をしているようにしか見えない二人だ。
しかしその言葉の一つ一つが詰みに至るための布石なのだろう。
どこにどんな意味があるのか分からなかったが、二人の間では確かに火花が散っている。
というか、重豪がすごく楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。
だが、次の翻訳を聞いて、鈴の身の毛が逆立った。
「時掛けの秘術を握れば変えられぬものなどない。Tenmei Schel……テンメイのスズと共に来い。だって」
テンメイのスズって何? とミクニは首を傾げた。
もっとも知られてはならない人物に、鈴の秘密が知られてしまった。
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「……」
ナナシと呼ばれるその男は、遠くから島津重豪と喜二郎の交渉のやり取りを見ていた。
重豪と喜二郎が何を言っているか、ナナシには全くわからない。
しかし喜二郎のそばにいるミクニが、鈴に内容を要約しているのでどんなやり取りをしているのかはわかる。
周囲に聞かれないようにミクニは小声で話しているが、それならば口元も隠すべきだ。
慣れた者なら難なく唇を読むことができる。
だが重豪が「Tenmei Schel」……テンメイズヘルと言った時、喜二郎の表情にはっきりとした動揺が走った。
ミクニの翻訳によるとテンメイのスズ、らしい。
スズ、というのは名主村で鈴が一部の人間から呼ばれていた名前だ。
最初のころは何かの暗喩なのだと思っていたが、何のことはない。リンをスズと読み替えただけだ。
最初に江戸に行った後、みんなリンと呼ぶようになったのですっかり忘れていた。
(トキカケを知ってどうするというのです。我々には使えませんよ……か)
小声で話すミクニの唇をさらに読む。
話の勢いを見るに、喜二郎の方が劣勢のように見える。
正直内容はまったく分からないが、一瞬の判断でこの場にいる人間の運命が決まる。
いざという時は汚れ役を買ってでも、鈴を逃がすことが重要だ。
そのためには、ついでに喜二郎も逃がしてやる。
それがナナシの役目だった。
だが、決意を固めたナナシの予想を裏切って、鈴が勢いよく手を挙げた。
「私。直接、重豪様とお話ししたいです」
喜二郎を除く全員が、一斉に鈴の顔を見た。
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鈴は横付けされた階段を上って軍船に足を踏み入れた。
付き添いは許可されなかった。
いつも誰かしらの後ろに隠れて見ていた島津藩主である重豪、実は正面から対峙したのはこれが初めてだ。
大きな体躯に、大きな目。
クマというか鬼を人間にしたらこんな感じなんだろうな、という感想がピッタリなくらいの大男だった。
「おんしのそん力ばわしがつこうちょる」
「あのぅ、言葉が聞き取りづらいので、ミクニか叔父上を呼んでいいでしょうか?」
薩摩弁は聞き取りづらいので、これ幸いと付き添ってくれる人がいた方がいいですよと提案した。
重豪は「ふぅむ」と顎を撫でた後、ドンと自身の胸を叩いた。
「よかろう。仙台の者が聞き取りやすいよう、そちに合わせてやる。これで問題ないな?」
重豪の言葉がいきなり聞き取りやすくなり、鈴は当てが外れた。
というか普通に喋れるのだったら、最初からそうしてほしかった。




