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天下の台所と犬猿の仲

船は特に嵐に遭うこともなく進んだ。

驚いたのは途中で他の陸地どころか江戸にも寄らず、まっすぐ南下していったことだ。


「すごく船足が早いんだね、この船」


部屋で暇つぶしに真田紐を編みながら、横で刀の手入れをしているナナシに話を振る。

ナナシは何も言わず、ただコクリと頷いた。


この船に乗って思ったが、ナナシはどうしてもこの船の話題に触れたくないらしい。

おそらくだが、この船は幕府にとって認可できない類の船なのだろう。


あまり深くは聞かない方がよい空気を察して、鈴は引き続き真田紐を編み続けた。

今まで乗った船より明らかに揺れが少ないこの船は最高だ。


それだけに帰りにはいつもの揺れのある船で帰るのかと思うと少しげんなりする。


叔父上たちは無事だろうか。

半年も指南をしているというのが気にかかる。


鈴がどれだけ考えても分からないが、この船を引き渡せばお役御免になることを祈るしかない。

船の心地よい揺れに編みかけの紐を置いて寝そべると、次第に眠気がやってきた。


もうすぐ上方と呼ばれる大阪に着く。

これが最後の旅路になるかもしれない。


そんなことを考えながら、鈴の意識は睡魔の向こうへと消えていった。






---

天下の台所、大阪。

そこからかなり離れた沖の上で、鈴は上陸用の小舟に揺られていた。


「やっぱりあの船では港に行かないんだね」

「わかっているなら聞くな。説明できないことだ」


ツンツンしているナナシ。船に乗ってからずっとこの調子だ。

鈴はやれやれと思いながらも、二度目の大阪に思いを馳せる。


一年前にも大阪には足を踏み入れたが、ほとんど何もすることなく西海道へと出立してしまった。

今川焼き……いや回転焼きが美味しかったことくらいしか記憶にない。


もし時間があるなら、もっと食事処を巡ってみたいものだ。

きっと喜二郎たちはこの美味しい大阪の食べ物を堪能しているに違いない。


胸の奥に秘めた不安を食への期待という楽しみで押し込めながら、鈴は大阪へとたどり着いた。

江戸に負けず劣らずの活気がその街にはあった。






---

トシとイザマルはすぐに見つかった。

仙台に用意された宿の前で取っ組み合いをしていたからだ。


「なんで勝手に製粉した蕎麦を買ったんだ! カビるだろ!」

「お前こそ何を言っている。これほどの安値、今を逃せば二度と機会は来ない!」


仲が良くないとは薄々感じていたが、取っ組み合いをするほどか。

いや、これは喧嘩するほど仲がいいということなのだろうか?


「何してるの二人とも」

「はぁ? ……え! なんでリンがここにいるのさ」


トシがイザマルの袖を離してこちらにやってくる。鼻血出てるよ。

鈴は手拭いでトシの顔を拭くと、イザマルはバツの悪そうな表情でこちらに歩いてくる。


「おりん様、いらっしゃったのですね。湯治村の方はいかがでしたか?」

「そっちは目途がついたよ。それより、二人ともなかなか帰ってこないから、様子を見てくるために大阪に来る船に乗せてもらったんだけど」


なんでこんな往来で喧嘩しているのだろうか。鈴は首をかしげる。


ちなみにあの船のことは話さない方がいいだろう。

後ろでナナシが怖い目でこちらを見ている気がした。


トシは「聞いてくれよ」とイザマルを指さした。


「こいつ製粉した蕎麦を大量に買ったんだよ! 僕に何の相談もなしに!」

「相談はした。お前も頷いていただろうが」


頷いてない、とトシがまたイザマルに詰め寄る。

どういうことか話を聞く必要がありそうだ。


「色々話は聞きたいけど、まずはこの大通りで揉めるのを止めない? 賭けまで始まってるよ」


トシとイザマルが我に返って周囲を見渡すと、胴元を中心に賭け事が始まっていることに気づく。

急に恥ずかしくなったのか、二人とも衣服を直して互いに顔を背ける。


「詳しい話は中で聞くよ。叔父上もいる?」

「キジ兄は清右衛門様と薩摩の御屋敷にいるよ。ここしばらくは会ってないし」


そうなのか。

てっきり喜二郎とトシたちは一緒にいるものだと思っていた。


「薩摩は喜二郎様を取り込むことに必死です。しかし、おりん様が薩摩へ渡す品を持ってきてくださったのであれば安心でございます」


どうやらそこらへんの事情も聞かなければならないようだ。

盛り上がる賭場を無視して、鈴たちは仙台用の宿の中に入っていった。






---

トシとイザマルの喧嘩は、大量の蕎麦粉の購入から始まったようだ。


「こいつ、僕に『蕎麦が安い、今が好機だ』とか言って買いに行ったと思ったら、製粉した蕎麦を買ってきたんだよ!」

「だから相談した。お前も頷いていただろうが」

「僕は『蕎麦の実』だと思ったんだよ! もう廃棄寸前の蕎麦粉を買ってくるなんて、誰も思わないじゃん!」


なるほど、大体のあらましはつかめた。


トシとイザマルは仙台からの品を売りさばいて、食料を確保するところまでは順調に進んだのだろう。

しかしそれが日持ちしない蕎麦粉を手に入れたことで、トシが怒っているのだ。


たしかにトシの言っていることは正しいが、これにはトシにも落ち度があると思う。


「トシは江戸で買った蕎麦粉がかびた話を、イザマルにした?」

「それは、してないけど。でもそんなの考えればわかるじゃん」


言いたいことはわかる。

だけど、そういうことは船旅をする間に雑談でもいいから話しておくのが大切なんだよ、トシ。


この様子を見ると、船で大阪に来る途中でも喧嘩していたことがうかがえる。

イザマルの方を見ると、自身にも非があることは認めているのか、蕎麦粉を買ってきたことに関しては反省しているようだった。


はぁ、と鈴はため息をつき、もう少し詳しい話を聞く。


「それで蕎麦粉はどれくらい買ったの?」

「……資金の半分ほど、つぎ込みました」


イザマルの言葉に「ふざけんなよ」とトシが足を踏み鳴らした。


「せっかくキジ兄が任せてくれた仕事なのに、顔向けできないよ!」

「……」


喜二郎の名前を出すとイザマルは黙り込んだ。


喜二郎を信奉しているだけあって、自分の失態が許せないのかもしれない。

たしかに製粉してしまったらドンドン風味が落ちていくので、早めに加工することが求められる。


どうしたものか。


資金の半分を使ったというが、今回は商売の規模も大きくなかったはずなので、まだ取り返せる気もする。


「蕎麦粉は日持ちしないから、持って帰るのは難しいね。ここで売っちゃおう」

「売る、でございますか?」


イザマルがきょとんとした顔を鈴に向ける。

すると、トシが静かに首を振った。


「それは僕も考えたよ。でもさ、大阪って蕎麦よりもうどんの方が人気があるんだ」


ああそういえば、と鈴も思い出す。

以前大阪に来た時、食べたのはうどんだった。たしかにこのままでは売れそうにない。


「江戸ではすぐ食べられる蕎麦が人気だったんだよね。大阪はうどんなんだ」

「それに味噌は人気だったけど、買うのは大阪の人じゃなくてほとんど商人だったんだ。たぶん、ここでそのままじゃ皆食べてくれないと思うよ」


それは困ったね。

何か一工夫が必要そうだ。






---

喜二郎のことは気になったが、まず蕎麦のことを何とかしよう。

鈴はイザマルが買い込んだ蕎麦粉を見せてもらった。



「買い込んだねぇ」

「……申し訳ございません」


小さな船に全て乗せられるかどうかというくらいの俵が倉庫の中に鎮座している。

これが全部蕎麦とは、よくもまあ買い込んだものだ。


製粉していなければこれで名主村の食糧事情は解決だっただろうに。

鈴は手近にあった俵を少し開き、中の蕎麦粉を確かめる。


クンクンと匂いを嗅ぐと、少し風味が落ちていてもう日持ちしそうにない。


「蕎麦を揚げて、日持ちさせるのはできないかな?」

「蕎麦を? せんべいみたいにするってこと?」


鈴の思い付きに、トシが首をかしげる。


風味が落ちているなら、もう揚げてしまった方がいいかもしれない。

香ばしくすれば、多少はごまかせそうだし。


「恐れながら、おりん様。揚げるのは難しいかと。油が足りません」

「まぁ、そうだよね」


そうなると普通にそばを作るしかないのだが、これだけの蕎麦を売りさばくのは容易なことではなさそうだ。

こういう時に三吉がいれば、思いもよらない案が飛び出してくるのだが……いないものは仕方ない。


そんな時、イザマルがぽつりとつぶやいた。


「焼く、というのはどうでしょうか」

「焼く?」


一瞬焼きおにぎりのようなものを想像したが、蕎麦を焼くことなんてできるのだろうか?

全く想像できない。


トシも、後ろにいたナナシもあまりピンと来ていないようだった。


「原理は焼きおにぎりと同じです。焦げ目をつければ、香ばしい匂いで食欲を刺激することはできないでしょうか」

「なにそれ、面白そう」


イザマルの案に鈴は心が躍った。


形は想像できなかったが、焼きおにぎりと聞けば美味しそうだ。

あれを蕎麦で味わえるのなら、ちょっと試してみたい。


まずは試作してみようということで少し練った蕎麦を釜の上で焼いてみた。

溶かした味噌を垂らすと、香ばしい匂いがする。


「じゃあ、試食してみよう」


鈴は出来上がった蕎麦焼きをかじってみる。

……うーん。美味しいか美味しくないかで言ったら、美味しくない。


「申し訳ございません、浅はかでした……」


イザマルがシュンと項垂れる。


いやいや。鈴もひょっとしたらいけると思ったんだし、謝らなくていいよ。

その後も蕎麦を細かくしたり切ってみたり、時には味噌じゃなくて醤油を試してみたが、どれも粉っぽくて美味しくなかった。


「うーん、面白そうなんだけどなぁ」

「なんか最近。キジ兄と三吉に似てきたね、リン」


トシがそう言いながら感慨深そうにこちらを見て笑っている。

……それは褒めているんだよね?


結局どれも今一つのまま満腹になり、試食は終了する。


「もうお腹いっぱいだよ。……ってずるいよ、ナナシ。僕らが頑張っている横で普通の蕎麦を湯がいているじゃん」

「俺は商売には疎いのでな」


そう言ってナナシは我関せず、蕎麦を啜っていた。


「……あ、試してないものあった」

思いついた鈴はナナシの前に立ち、両手を差し出す。


「……なんだ?」

「その蕎麦、ちょーだい」


明らかに嫌そうな顔をするナナシだったが、ため息一つついて食べかけの蕎麦を鈴に差し出した。

鈴は鍋に油を敷き、蕎麦を炒める。


湯がいた蕎麦だと水分が多くて食べられないと思ったので、しっかり水気がなくなるまで炒め、溶いた味噌を垂らした。

途端に、あたりにいい香りが立ち上った。


「ほぁ……!」

「おお!」


なんかモチみたいな、モチモチとした蕎麦が出来上がった。

集まった四人は顔を合わせ、それを箸で一口つまんだ。


今まで食べたことのない、モチのような食感の蕎麦。

それは思いのほか、美味しかった。






---

モチ蕎麦は美味だったが、かなり改良の余地がありそうだった。


「私にお任せを。汚名を返上させてください」

そう名乗り出たのはイザマルだった。


トシは何か言いたそうだったが、失敗しても諦めないことが大事なのは鈴がよく知っている。

イザマルがモチ蕎麦を研究している間、鈴は当初の予定だった喜二郎を連れ帰る仕事の方を進めることにする。


「でもアレの受け渡しは一緒に乗っていた家老の人がしてくれるんだよね?」

「中村様だ。そのように聞いている」


尋ねた鈴に、ナナシが答える。


ということは、鈴は待っているだけでもよさそうだったが、なんとなく一波乱ありそうな気はしていた。

大阪に来ているのは島津重豪らしく、トシによると熱心に喜二郎を勧誘しているとか。


「それはもうスゴイ勧誘だよ。ミクニ様の婿養子になれば薩摩にキジ兄専用の研究施設を作るって言ってた時、少しキジ兄の目が泳いでた」


お、叔父上―!


何が魂は仙台にある、だ。しっかり餌に目を奪われてるじゃん。

はぁ、と鈴はため息を吐く。


やはり島津は手ごわい。

釣り野伏で有名なだけあって、釣りはお手の物というわけだ。


少し腹が立ったが、結局は清右衛門の取りなしもあって、断り続けているらしい。


「このままだと喜二郎が取り込まれる可能性も否めん」

「ちょっと私もそう思ったよ」


もしもミクニがあの積極性で喜二郎を誘惑したら、もしかするとついて行ってしまうかもしれない。

喜二郎はあんなに信じていた私とイロハに謝ってほしい。


気になって薩摩藩邸に行ってみたが、鈴たちが中に入る許可は得られなかった。


「袖の下も受け取ってもらえなかったよ」

シオシオと鈴は一朱の入った財布を袖にしまう。


「どうやらリンは薩摩に……いや島津にかなり警戒されているようだ」


ナナシは薩摩藩邸からじっと鈴を見てくる門番たちを見て言った。

それが重豪かミクニの指示かは分からないが、買いかぶりすぎだ。


鈴は喜二郎をひっぱたいて仙台に連れ戻そうとしただけなのである。


「しばらくは様子を見ようか。先にモチ蕎麦を売って食料調達する方がいいかもしれないね」

鈴の言葉に、ナナシは頷いた。


おそらく薩摩藩邸では例の船の説明が始まっているだろう。

すぐに船の受け渡しをするだけなら仙台から家老がやってくる必要もないだろうし、使い方や実際の動かし方も教えているのだろう。


鈴たちはその間に食料調達を優先するべきだと方針を改めた。

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