晴天の霹靂
鈴はしばらくその場から動けなかった。
春の風が吹いている。
農民たちはそれぞれの仕事へ戻っていく。
喜二郎ももう見えない。広場には自分だけが残されていた。
未来から来たと言われ、その未来では天変地異が起きるらしい。
だが、鈴に何ができるというのか。
できることがあるなら、こんなところで立ち尽くしてなどいない。
訳の分からないまま始まって、訳の分からないまま終わった。
「……帰ろう」
そう呟く。
ここが過去だとして、本当に自分が未来から来たとして、天明元年に帰れるのか。
今は喜二郎の言葉を信じるしかない。
ちょっとツンツンしていたが、自分には優しい叔父上、という印象は変わらずだった。
それに普段見慣れているせいで気が付かなかったが、美少年だったんだ、叔父上。
鈴は林家へ向かって歩き出した。
屋敷へ戻ると、使用人たちが慌ただしく動いていた。
「わっ、なんだろ、忙しそう」
鈴は思わず足を止めると、通りかかった女中が驚いたように頭を下げる。
「奥方様」
鈴は目を瞬かせた。
「……奥方様?」
首をかしげる鈴に、女中は不思議そうな顔をした。
「旦那様と湯治に行かれたのではなかったのですか? ああ、大変! 戻られたのなら昼餉を用意しなければいけませんね!」
女中が一人納得したかのように、そのまま去っていく。
奥方様……うーん、いい響きだ。うらやましい。
鈴は思わず後ろを振り返った。誰もいない。
呼ばれたのは自分だったようだ。
「……そっか。母上と間違えられたのかな」
母は若いころ、嫁取り合戦が起こったほどの美人だったと聞く。
その母に間違われるとは、自分もなかなか捨てたものではないらしい。
しかし父と母は温泉旅行とは羨ましい、自分は連れて行ってもらった記憶なんてないのに!
「ああ、そっか。自分が生まれる前なんだ、この時代」
すると、自分はこの温泉旅行で……いやいや、あまり深く考えないようにしよう。
鈴は屋敷の奥へ進む。
見慣れた家のはずなのに、どこか真新しい。
廊下も柱も同じ場所にある。
それなのに、知らない家を歩いているような気がした。
今日はもう休もうと思った。
何もしていないのに、既に疲労困憊だった。
きっと、寝て起きたら。いつもの日常に戻っているはずだ。
そういえば、自分の部屋ってこの時期どうなっているのだろうか。
なかったら仕方ない、母上の部屋で寝よう。
だが部屋へ戻ろうとした時――喜二郎の言葉を思い出した。
自室にむかう途中、祖父の部屋の前で足を止める。
林什吾、鈴にとっては面倒見の良い祖父。
「そういえば……」
喜二郎は言っていた。
掛け軸の前に立てば帰れる、と。
一瞬、部屋で寝るかどうかで迷ったが、夜には祖父が帰ってくる。
本当に帰れるとすれば、今しかないかもしれない。
「おじ……いや、お義父様? いらっしゃいますか?」
鈴は祖父に声を掛け、部屋の外で待つ。
祖父はやはり不在のようだった。
鈴は恐る恐る祖父の部屋の中へ入る。
年季が入ったものを好む祖父だったが、この部屋の家具もやはり少し印象が違う。
「……掛け軸だ、あった」
部屋の奥、壁の中央に吊るされた一幅の掛け軸に目が留まった。
鈴はゆっくり近付く。
あの土蔵で見た掛け軸によく似ている。だが同じではない。
描かれている景色も。記されている銘も。どこか違う。
それでも不思議な引力があり、見ていると胸がざわつく。
まるで向こう側から呼ばれているようだった。
鈴はごくりと唾を飲み込む。
「夢なら、覚めてよね」
そして掛け軸の前へ立った。
その瞬間だった。
部屋の空気が揺らぎ、風が吹く。
障子は閉まっている。それなのに風だけが生まれる。
掛け軸が揺れ、描かれた木々がざわめく。
川が流れ、雲が動き始める。
絵の中の景色が生き物のように脈打っていた。
墨で描かれたはずの水面が光を帯びる。
鈴は息を呑んだ。
身体が動かない。
視界が白く染まり、世界が遠ざかる。
足元が消え、落ちるような感覚に襲われた。
鈴は思わず目を閉じた。
どれほど時間が経ったのか分からない。
やがて鈴はゆっくりと目を開けると―――。
「ここは…?」
冷たい風が吹いている。
空は灰色だった。
見上げても青さはなく、陽の光も弱い。
世界から色が失われていた。
思わず身震いする。
鈴はゆっくりと立ち上がり周囲を見回す。
そこには見覚えのある仙台の景色があった。
だが人の気配がない。
笑い声もない。鳥の声もない。風だけが吹いている。
土は痩せ、木々は枯れ、街並みは荒れ果てていた。
まるで世界そのものが死んでしまったよう。
「夢なら、覚めてよね……」
先ほどと同じセリフが、乾いた空気に響く。
さっきまで春だった世界が、一転して死んだような世界に変わっていた。
簡単に言えば、悪夢そのものである。
ここで、何かとてつもないことが起きたのだ。
鈴はまだ知らない。
ここが鈴が過ごしていた時代の二年後―――天明三年。
天明の大飢饉によって、すべてが終わってしまった世界であることを。




