一番、欲しかったもの
「約束とは? 御國様、詳しくお聞かせください」
喜二郎は居住まいを正してミクニに向き直る。
「喜二郎殿は蘭語を話せますか?」
「聞き取ることはできますが、話すことはできません。筆談でもよろしければ可能ですが」
「いえ。それではフェアじゃなくなりますね。このままで結構ですので、お話しします」
ミクニは語る。
喜二郎が鈴に作った「貸し」によって、薩摩へ「喜二郎の力」を貸すことになったこと。
船が沈んで仙台で米を運ぶ船が無くなり、薩摩が全面的に協力したこと。
その協力分の「喜二郎の力」を受け取りに、薩摩がここまで来たこと。
「先ほどの話で、喜二郎殿は知識を売って米を得たとおっしゃいました。薩摩から仙台まで運んだ見返りとして、喜二郎殿にはそれに見合うだけの力を貸していただきたく存じます」
「なるほど、道理です。しかし、某は既に売る技術を持ち合わせておりません。一部の技術は独占契約は結んでおりませんので、それでもよろしければお売りいたしますが……足りませぬか」
「ええ、僭越ながら一度明かした技術は値が落ちていくものです。お支払いできぬとあれば、代わりの物で支払っていただくしかありません。そうではございませぬか、喜二郎殿」
「あの、あの、ミクニ……」
慌てる鈴だったが、ミクニは全く相手にしない。
ミクニは今までの奔放なお姫様の佇まいではなく、島津の代表の御國として喜二郎と向き合っていた。
喜二郎はすぐには答えず、御國の言葉を吟味するように静かに黙り込んだ。
だが鈴に約束していた「貸し」には心当たりがあったのか、神妙に考え始める。
(どうしよう、私がした約束のせいで、叔父上が薩摩に行ってしまう……!)
なにか、なにか方法はないか。
そう思いながら考えを巡らせていると、喜二郎の家の門が開く音がする。
「失礼、客人のようです。見てまいります」
「ええ、お待ちしております」
ミクニはすっと道を譲り、居住まいを正す。
喜二郎は礼をしてその横を通り過ぎ、玄関の方へ歩き出した。
「ゴメンね、リン」
「ミクニ……さっきは、別に婿にしようとは思っていないって。堰とか味噌とかの話を聞くだけって、言ったのに……」
「うん。だから私は『婿に来て』とは言ってないよ?」
いや、確かにはっきりそう言ったわけではないが、「薩摩に来て」とはほぼ「婿に来て」と同じ意味ではないのか。
御國は少しだけ目を伏せたが、すぐに笑顔になる。
「貸した船代の分、返してくれるなら文句は言わないけど。難しいなら島津に来てもらって、力を貸してもらうしかないでしょ?」
薩摩ではなく、島津にきてもらう。
薩摩藩へ客人として迎えるのか、それとも島津家の一員として迎えるのか。その境目は鈴にはまだ分からなかった。
鈴には目の前の少女が、ただ明るく笑う友人には見えない。
納得のいかない鈴に、御國は微笑みかける。
「Rin.Uiteindelijk zal Satsuma zegevieren.」
「……」
「これ、どこで言った言葉か、覚えている?」
鈴はこくり、と頷いた。
「江戸。芋と鮫の技術を交換した時、ミクニが私に言った……たぶん、蘭語だよね」
「うん。これの意味はね――――」
―――最後に勝つのは薩摩だよ、リン。
その笑顔はいつものミクニのものだったはずなのに、鈴にはまるで別人のように見えた。
巨魁・島津重豪の血を継ぐ娘。
その事実を、改めて思い知らされた。
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「……ミクニ」
「何? リン」
「本気、なんだね」
「本気だよ。どんな手を使っても、彼を連れて帰る。父の命令じゃなくてもね」
鈴は驚いた。
重豪の命令があったことにではない。それがなくても喜二郎を連れて帰るという意思を御國が見せたことにだ。
「どうして……?」
「逆に聞くけど、どうしてそう思わないのかな? 政治に関わるものなら、会っただけで彼の異質さが分かる」
人脈、能力、経験、人柄……喜二郎が優れているというのは、もちろん鈴も昔から知っている。
それだけではない、と御國は続けた。
「米沢も彼を欲しがっていたでしょ。そして、しばらく彼は米沢に留め置かれた。もし仙台に留めてきたいなら、仙台の姫を……少なくとも家老の娘を娶らせておくべきだった。これは仙台の落ち度だと、私は思うけどな」
鈴は口を噤んだ。
御國の話には筋が通っている。
彼の経歴、やってきた事、実務姿を目の当たりにした者が、家臣として加えたいと思うのは当然だ。
仙台藩が喜二郎を米沢に貸し出したという事実も手痛い。他所から見れば喜二郎を冷遇しているように見える。
「……」
だが、鈴は知っている。
彼を高く評価し、陰ながら支えてきた仙台藩の人々もいることを。
反論したい。
しかし、と鈴は唇を噛む。
友人とはいえ、御國は姫だ。
御國は姫で、自分は藩医の娘に過ぎない。
御國はにっこりと微笑んだ。
「安心してよ、リン。島津に来た以上は、誰よりも大切にする自信はあるから」
「――それは、仙台藩が彼を冷遇しているとも聞こえるわね。聞き捨てならないわ」
鈴と御國はその声の方に振り向く。
そこには仙台の姫――イロハが立っていた。
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イロハの後ろには喜二郎と、薩摩、仙台の護衛の武士が立っていた。
どうやらトシから伝言を受け、ここにやって来たらしい。
「私は事実を述べたまでです。五郎ハ姫。異論があるなら聞きますよ?」
イロハは――五郎八は目の前にいるのが普段のミクニではなく、島津藩主の娘の御國としてここにいることを察した。
五郎八は部屋に上がり、近づいてくる。
鈴は自分が座っていた場所を譲り、五郎八はそこに座った。
――任せておきなさい。
一瞬だけ合った目が、そう言っている気がした。
「御國。あなたが知らないだけで、仙台は陰ながら彼を支援してきました。例えば、堰づくりもそうです」
「……そうですか? ではお聞きしますが、なぜ目を掛けているのに仙台藩は彼を放置しているのです? 少なくとも貴方が縁組をしていれば、私はこんなこと言い出しませんでしたよ」
「仙台の内情を明かすつもりはないわ。それにあなたがた薩摩が望んでいるのは、船と喜二郎の力の貸しについてではなくて?」
二人の姫の目が、互いに細める。
その口元には笑みは浮かんでいるが、目は真剣そのものだった。
「……では、お尋ねします。仙台までの米の運搬、水夫の労働力、帰るための費用、そして喜二郎殿への貸し。いくらでお支払いいただけるの?」
御國の目は自信にあふれている。
仙台は今、飢饉の上、火の車だ。
たとえ先ほどの金額を支払う資金があったとしても、たった一人の人間のために支払えるのか?
銭の利益で考えるなら、まず支払わない。
薩摩と違い、仙台は合理性を何よりも大事にすることを御國は知っているようだった。
だが、五郎八は表情一つ変えなかった。
「あなたが売りたくても売れないものを、買い取りましょう」
「……それは?」
そこで五郎八は口元をにっと引いた。
「夜明珠」
その場の空気が一瞬だけ止まった気がした。
「あなたが売れ残して嘆いていた、あの宝玉を買い取る。それでいかがかしら?」
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その言葉を聞いた御國の表情が一瞬だけ強張った。
夜明珠。
佐賀藩でどれだけ売り込んでも売れなかった至高の宝玉。
古くは中華の皇帝に献上されたことでも知られ、たった一つで城が立つといわれるほどの価値を持つ。
関ケ原で島津義弘が、かの大谷から預かったとされる曰く付きの品だ。
それを買い取ることで清算する、と五郎八は言う。
(夜明珠まで買い取るって……それじゃ船代も、叔父上の貸しも合わせたら、とんでもない額になるんじゃ……)
つまり、仙台と薩摩の往復の船賃、喜二郎の貸し、そして夜明珠の代金。
そのすべてを支払うだけの財力が、今の仙台にあるというのだろうか。
あるわけがない。
御國もまた、同じ結論に至っているのだろう。勝ち誇った笑みを浮かべていた。
「夜明珠を買い取る、とは大きく出ましたね五郎八姫。あれがいくらで取引されているのか、ご存知?」
「十万両。あなたは阿蘭陀の大使館で、その値段で売りつけたのでしょう?」
は……?
えっ、十万両………!?
あまりの途方もない金額に、鈴は腰を抜かしそうになった。
運搬費や喜二郎の貸しどころの話ではない。一国が傾きかねない金額だった。
護衛の武士たちもわずかに表情をこわばらせているのが見える。
だが、五郎八は平然としていた。
本当に支払えるというなら、交渉としては御國に断る理由はないようにも思えた。
当の御國が「持っていても使い道のない宝玉」として島津に長年保管していたと言っていたのだから。
御國がわずかに戸惑いを見せる。
「まさか、支払えるというの?」
「……その前に、人払いをして頂戴。この先は、藩の未来に関わる話よ」
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全員を家はおろか塀の外まで遠ざけ、内密の話をすることになる。
御國は改めて、五郎八に説明を求める。
「それで五郎八、あなたが十万両を払うという根拠は何かな?」
「仙台は長らく、幕府の命で蝦夷を調査していたわ」
いきなり話が変わったことに少し驚いた様子の御國であったが、そのまま話を聞く。
「露西亜が南下の動きを見せている。表向きは友好を建前としてね」
御國はわずかに息をのんだ。
日ノ本は長らく海外との戦争を行っていない。
そこに他国との戦争の可能性があると聞かされて、心穏やかでいられるはずがなかった。
(それが護衛たちを遠ざけた理由? ……確かに、脅威ではあるけど)
まだ、肝心の十万両の資金の話、もしくはそれに匹敵する何かには繋がっていない。
五郎八は続ける。
「家臣が偶然、蝦夷で座礁した船を見つけたわ。日ノ本とは違う構造をした大筒十門を備えた軍船をね」
その瞬間、五郎八が何を取引に引き出そうとしているのか、予想が付いた。
その軍船を譲る……確かに物次第では十万両、いやそれ以上の価値があるかもしれない取引だ。
しかも露西亜という大国の船。最新型かどうか分からないが、軍船であれば価値は計り知れない。
父であれば即決したかもしれない。
(……けど、軍船を渡すということがどういうことか、分かっているのイロハ?)
武力を持った藩は、幕府に警戒される。
ましてや大筒入りの軍船など、謀反を疑われてもおかしくない。藩の取り潰しさえあり得る。
持っている方も、渡される方もかなりの危険が伴う取引だ。
(でも……)
御國は薩摩藩という観点から考えてみる。
最近では海上警備の費用も馬鹿にならず、外国船が薩摩の近くを通る度に苦い思いをしている。
また、南蛮貿易も盛んなこともあり、護送や運搬などの機会も多い。
正直、のどから手が出るほど欲しい。
「持っていても使い道のない宝玉」がまさに十万両以上の価値を生み出す唯一無二の機会かもしれない。
藩にもたらす莫大利益と、個人の感情。
そんなの、比べるべくもない。
……そのはずなのに。
御國は喉を鳴らし、話の続きを聞く。
「船には人は乗ってなくて、自爆した後があったわ。国の軍事機密だもの。技術流出を避けるためね」
「船の損壊具合は?」
「砲と弾薬はいくつかダメになっていたけど、『修理』すれば使えるらしいわ」
修理……その道具が不足していたから、露西亜も放置したのかもしれない。
そしてそれは船を所持している仙台側にもいえる、技術がなくて修理できないという話なのかもしれない。
だが、大国の軍船。価値にしていかほどか。
仙台往復分の食料と労働力、夜明珠と合わせて、その価値は釣り合うか。
修理できる技術を仙台が要していれば、この取引に見合うのか。
(父ならおそらく、この話を受けた)
理由は話した通りである。そして父は新しいものに目がない。
(………)
危険だ。
利益云々ではない。
この話を呑んだが最後、毒饅頭が体を蝕む。
この話を内密にするだけでも、島津も連座させられる可能性が出てくる。
御國は薩摩藩を左右する岐路に立たされていた。
この寒い仙台で、御國の頬から一筋の汗が畳の上に落ちる。
「仮に……その話が本当だとして、修理できなければ使い物にならないでしょう? 動かない船に価値があるとでも?」
「そうですね……なので喜二郎に船の修理を任せてみる予定です」
なるほど。ここでその一手を指してくるのか。
喜二郎の話は、薩摩の密偵を使って詳しく調べた。
喜二郎は自ら堰の設計を行い、十数年にわたって水の供給を安定させてきた実績がある。
つまり設計だけでなく、保守まで考えている。
僅か八歳の子供が作った堰、そして数年後に改良された新しい堰。
リンから聞いた話とも擦り合わせてみたが、おおむね齟齬はない。
そして鮫製品などの細工を見る限り、喜二郎は優秀な研究者も抱えている。
たしか江戸で鮫技術を得た時に説明した漁師、三吉もその一人だろう。
船を直すには設計が必要だ。そして経験も。喜二郎ならその条件を満たす可能性は十分にある。
(絶妙な一手だよ……五郎八)
危険性を除けば、まったく文句のつけようのない取引だ。
海の向こうの技術は、どの藩だって欲している。
金で買える物ではない。世界という情勢に値がついているのだ。
(……でも)
そう。だから、話を受ければ薩摩は勝ったことになる。
優先するべきは藩だ。
個人の考えなど、捨てるべきだ。
そんな当たり前のこと、御國は自分で自分に言い聞かせなくても分かっている。
しかし、御國は利益や技術だけが欲しいんじゃない。
―――御國が、一番に欲しいのは喜二郎なのだ。
「……」
この場にいる交渉人は御國だ。
ならば、責任はとる。
たとえ、藩にとっての優先順があったとしても、御國はこれが自分にとって正しい選択だと信じている。
御國は覚悟を決め、交渉を再開した。
「……船が修理されるまで、島津は待てと? 修理できなかった、という結末にならない保証でもあるの?」
「……」
その一言に五郎八は口を紡ぐ。
損得や危険性、確実性を考慮するならば、喜二郎の方を取る方が良い。
利益だけではない。失敗した時の損害も考えるのが藩主の娘であるはずだ。
「それに、船を直せたとしてすぐに壊れないという保証は? 直す技術を持っているのはあなた達仙台なのでしょう? ……のめないよ、五郎八。喜二郎をもらうわ」
「……御國の言うとおりね。保証がない取引は、ないも同じよ」
五郎八が額に汗を浮かべていた。
(折れてよ、イロハ)
心の中で御國が声を上げる。
この迷いが、御國の心を満たす前に……!
しかし、御國を見つめる五郎八の目に諦観の色は微塵もなかった。
「先に、大砲八門を渡す。設計書は完成後に島津に渡す。完成した設計図を基に、後日薩摩で船を作る。夜明珠はその時に受け渡す……これでどうかしら」
「……保証はどうするの?」
五郎八は具体的な数字には踏み込まず、約束できることと、約束できないことだけを静かに伝えた。
勝負は決した。
薩摩藩としては概ね許容できる内容である。
交渉として後は、具体的な数字を詰めていくだけだった。
「……」
これほどの条件を出されて飲まないのは、島津の代表ではない。
たとえ危険性があったとしても、大砲のみならば何とでも言い訳できる。
設計図を持っていても、完成品がなければ幕府は問い詰められない。
そして夜明珠がその後の受け渡しということで、保証も得た。
文句のつけようのない取引だった。
(……見事だよ、イロハ)
島津は、この交渉で十万両を超える利益を手にしたに等しい。
―――しかしミクニだけは、一番欲しかったものを手に入れられなかった。




