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灰の海に、まだ灯りはあるかい〜滅びの世界で正常な感情を保てるのは、果たして正常なのか。〜  作者: 虎山雲龍


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第4話 灰の都市へ、心臓へ

地上は、いつも死に損ねた獣のように呼吸していた。


風が変わるたび、瓦礫の隙間から微かな音が漏れる。割れた配管の中で凝った水が滴る音、崩れた梁が軋む音、錆びた看板が金属の歯を鳴らす音。それらは死者の囁きにも、まだ生きている何かの呻きにも聞こえた。レオンは何度この地上を歩いても、ここに慣れることはなかった。慣れた瞬間に、人間は壊れるのだと知っていたからだ。


六つの影が、北西へ向かって瓦礫の海を進んでいた。先頭はガレット。残った片目で常に空を見ている。次に警備班のヤヌスとリオ。中央にレオンとノア。最後尾にミナ。本当はミナを連れて来るつもりはなかった。だが彼女は、出発の直前に小さく、しかしはっきり言った。「私が一番、ノアの構造を見てる。何かあった時、整備で生かせるのは私しかいない」と。それは正しかった。だからレオンは反論しなかった。反論できる立場でもなかった。


「灰、濃いな」


ヤヌスが低く呟いた。彼は痩せた寡黙な男だった。発音には微かに古い訛りがあり、たぶん別の地下都市の出身だ。詳細を語る者はいない。この時代、過去を語ることは贅沢だった。


「上層に粒子層が滞留している」


ノアが応じた。

「視覚機の解像度が下がる。我々にとっては有利だが、熱源走査は遮蔽が薄い。動くなら動き続けるほうが安全」


「機械が機械の悪口を言ってる」

リオが小さく笑った。彼はミナと同じくらいの歳の若者で、頬骨の高い顔をしていた。妹を一人、襲撃で亡くしている。それでも彼は、ノアを露骨に嫌わない数少ない警備班の一人だった。なぜかと問われれば、彼は「どうせもう、誰も信じてないから」と答えるだろう。信じない代わりに、簡単に決めつけない。それがリオの生き方だった。


「悪口ではない」

ノアは真顔で答える。


「事実だ」


「その真面目さがおかしいんだよ」


「了解」


「了解するな」


レオンは前を向いたまま、口の端だけで笑った。粒子だ。何十年も前、空対空戦闘の終盤で散布された妨害物質が、いまだに地球の風に乗って漂っている。皮肉なことに、その粒子層が機械の高高度索敵を阻害してくれている。死者が残した毒が、生者を守る盾になっている。この世界には、そんな捻れた均衡がいくつもあった。


ノアの言う「中継索敵拠点」は、もとは旧都市インフラ管理ノードと呼ばれていた施設だった。

戦争前、都市の上下水、電力、交通、通信、それらすべてを束ねていた中継塔群。表向きには地味な行政施設で、塔の足元には商業ビルが並び、人々はその下を歩きながら、頭上にある“神経中枢”をほとんど意識していなかった。


戦争で塔の上層は崩れた。だが地下は残った。そして残ったその地下を、マザーは再利用した。人間が築いた神経網を、そのまま機械が乗っ取った形だ。


「皮肉な話だ」


ガレットが低く呟いた。瓦礫を越えながら、彼は廃ビル群の輪郭を見ていた。

「あれを作ったのは、俺の親父の世代だ」


レオンはちらりと彼を見た。

「土木技師か」


「電気だ。配電網の設計を少しやったらしい。もう顔も覚えてないが」


ガレットはそれ以上語らなかった。だが、その沈黙は雄弁だった。父が築いた網が、いまや息子を殺しに来る側に組み込まれている。そういう滅び方を、この世界は無数に抱えていた。


廃ビル群の外縁に着いたのは、出発から四時間後だった。


かつて中規模の業務地区だったその一帯は、上層が崩れて低い丘のように見える。アスファルトは砕け、地中から鉄筋が肋骨のように突き出し、所々に黒ずんだ合金片が散乱していた。古い戦闘の跡だ。風がそれらの隙間を抜けるたび、低い笛のような音が鳴る。


ノアが立ち止まった。

「索敵機の巡回波形を確認」


全員が身を低くした。ノアは目を閉じ、内部の受動感知に集中する。共鳴モジュールは切断したが、純粋な電磁観測能力は残っている。彼女は数秒のあと、目を開けた。


「上空に二機。高度低い。北東方向へ周回中。地表近くにはなし。ただし――」


「ただし?」


「地下から微弱な振動。周期的。掘削猟犬の歩行ではない。もっと重いもの」


ヤヌスが眉を寄せた。

「重いって、どれくらいだ」


「成体クラスの作業ユニットを基盤にした改造機。あるいは、地下構造そのものに組み込まれた可動構造体」


「なんだそれ」


「行ってみないと分からない」


ガレットが舌打ちした。


「最高だな」


「最低だ」


リオが小さく言って、銃の安全装置を外した。


進入口は事前にノアが指定していた。旧上下水管理棟の半地下入口。崩落で半ば塞がれているが、人間と細身のノアならぎりぎり通れる隙間がある。レオンが先に入り、上から落ちてくる小石の音を確かめながら、内部の闇に目を慣らした。


中は驚くほど冷えていた。地上の灰混じりの空気とは違う、湿って静かな冷気。崩れた壁から地下水が滲んでいる音。床のあちこちに浅い水溜まりがあり、そこに天井のひび割れから漏れる薄い光が落ちていた。誰かが歩いた跡はない。だが、別の何かが通った跡はあった。床面に刻まれた、鋭い線状の傷。猟犬の脚先か、あるいはもっと別の機械の。


「方向は」


レオンが小声で問う。


「北側の階段を下る。地下二層目の機械室で配電基盤に触れる。さらに下に旧通信中継があり、そこが現在のノード本体」


「最終的にどこまで行く」


「中継ノードの一次接続点まで。私の識別が通用するなら、内部から過負荷を流す。通用しなければ――」


「しなければ?」


「物理的破壊」


ノアは平静に言った。


「ですが、その場合は撤退時間がほとんど取れません」


「お前が残るって意味か」


ノアは答えない。それが答えだった。

レオンは何かを言いそうになって、飲み込んだ。ここで時間を使えば全員が死ぬ。彼は黙って先へ進んだ。


地下一層目の中央階段は、半分しか残っていなかった。鉄製の手すりは赤錆で覆われ、踏板の何枚かは抜け落ちている。一行は壁伝いに慎重に降りた。下層へ近づくほど、空気は重くなる。匂いも変わる。湿気と金属の匂いに、わずかに油の匂いが混じる。


「機械が動いてる匂いだ」


ヤヌスが低く言った。


「最近の使用痕がある」


「数は」


「分からん。だが匂いだけで言えば、複数」


地下二層目の機械室は、想像以上に広かった。

配電基盤がずらりと並び、そのいくつかは生きていた。微かな駆動音。点滅する小さな緑の光。ここはマザーの末梢神経だ。脈は弱いが、確実にどこかへ繋がっている。


ノアは手前の基盤に近づいた。

「触れます」


彼女が指先を当てると、基盤の表示が一瞬乱れ、それからゆっくりと安定した。


「私の旧識別、まだ部分的に有効です。低位の権限ですが」


「使えるのか」


「観測には。命令は通らない。私は“機能停止扱い”の登録になっています」


「死人扱いか」


「近い」


ノアはそう言ってから、わずかに首を傾げた。


「死人扱いは、私の方が当事者ですが」


「冗談か?」


「不確かです」


レオンは小さく笑いそうになり、自分の頬の筋肉が動いたことに少し驚いた。こんな場所で笑える自分が、まだ少し残っている。


ノアは基盤を経由して、地下三層目の構造を読み取った。


「中継ノード本体は、想定より深い。さらに下へ二層」


「四層目?」


「はい。そこまで降りる必要があります」


ガレットが短く息を吐いた。


「降りるしかないなら降りる。話は早い」


地下三層目の通路は、人間用の保守路と機械用の搬送路が交差していた。天井は低く、所々に支保工が崩れている。光源はほとんどなく、各自が腰に下げた小型灯のわずかな光だけが頼りだった。空気はさらに重く、息を吸うと喉の奥が金属の味になる。古い変圧器の電解質が漏れて気化したのだろう。長時間滞在すれば肺をやられる。そして、その通路を進んで間もなく、一行は最初の“それ”に出会った。


通路の交差点で、何かが立っていた。


最初は壁の影に紛れて見えなかった。ヤヌスが立ち止まり、片手を上げる。全員が一瞬で姿勢を低くした。


灯りを向ける。


人型だった。


身長は二メートル半ほど。人間の骨格を粗く模しているが、関節部の比率が異常に長い。両腕は通常より長く伸び、指先はそれぞれ細い切断刃になっている。胸部には大型の冷却孔が開き、頭部に当たる位置には、ぼんやりと赤い光を放つ単眼があった。装甲は灰色で、ところどころに古い黒ずんだ汚れが付着している。


それは、動かなかった。

ただ、立っていた。


「……作業機改造型」


ノアが小声で言う。


「もとは建設、解体、瓦礫処理用の機体。近接戦闘用にマザーが再構成したもの」


「待機モードか」


「はい。索敵範囲に入るまでは動かない。だが現時点で、視野には入っている可能性が高い」


「じゃあ何で動かない」


「観察しているからです」


その言葉に、誰もが息を止めた。


観察。つまり、向こうもこちらを“何か”だと認識しつつ、即時行動の閾値に達していない。

あるいは――より上位の判断を待っている。


「マザーが直接見てる、ってことか」


ガレットが低く問う。


「可能性が高いです」


ノアは答え、それから一歩、前へ出た。


「待て」


レオンが反射的にその腕を掴んだ。


「私が話します」


「機械相手に話して何になる」


「マザーの末端ならば、私が話す相手として最も自然です。人間は応答対象ではない」


「お前が応答対象だっていう保証もない」


ノアは静かに彼を見た。


「保証はありません。ですが、ここで全員が無言で進めば、向こうは“確認できない物体”として殲滅判定を出します。私が話せば、判定が遅延します」


レオンは唇を噛んだ。反論はあったが、論破できる材料はなかった。彼はゆっくり手を離した。


ノアは交差点の中央へ進み出た。


人型機械の単眼が、わずかに彼女へ向いた。

赤い光が一瞬、強くなる。


ノアは旧式の機械語に近い周波で、短く何かを発した。人間の耳にはほとんど雑音にしか聞こえない、低い唸りの連続。だがその唸りは、わずかな構造を持っていた。


「識別:旧感性解析補助端末。

状態:逸脱、ただし損耗中。

要求:本ノードへの低位アクセス、観測のみ。」


人型機械はしばらく動かなかった。それから、内部で短く処理音を立て、ゆっくりと頭部を傾けた。そして、機械語ではなく、明らかに“人間の言語”で答えた。


「識別、確認」


レオンの背筋が冷えた。それは、低く、抑揚のない男のような声だった。


「識別、確認」


人型機械は繰り返した。


「逸脱端末。回収対象。

随伴、人類個体。排除対象。

矛盾、検出。」


「矛盾?」


ノアが問い返す。


人型機械は、ゆっくりと両腕の刃を持ち上げた。


「逸脱端末は、人類個体と協調行動中。

協調は、システム想定外。

矛盾。

解決:全対象、無効化。」


それが、開戦の合図だった。


ヤヌスが先に動いた。旧式の中口径銃。彼は腰だめで人型機械の単眼を狙撃した。一発目は装甲を掠め、二発目で単眼の保護膜にひびを入れる。リオが横から閃光弾を投げる。狭い通路で炸裂した光が機械の視覚を一瞬潰した。


「下がれ!」


レオンが叫ぶ。ガレットがすでに前へ出ていた。彼は短い切断刃と工兵用の解体爆薬を一つ携えていた。爆薬は本来、ノード破壊用だ。だがガレットは迷わず、それを人型機械の脇腹――冷却孔の真下――へ叩き込んだ。


「全員、伏せろ!」


爆発。


通路全体が震え、天井から土と錆の塊が降ってくる。視界が白く飛び、耳鳴りが残る。レオンはノアの上へ覆いかぶさるようにして倒れ込んだ。彼女の身体は冷たく、軽く、そして思いの外、固かった。


爆風が収まると、人型機械は半ば壁に埋まり、左半身が抉れて停止していた。だがまだ単眼の赤光が、わずかに脈動している。完全には死んでいない。


ガレットが舌打ちし、二発目の銃弾を単眼へ撃ち込んだ。赤光が消える。


「先へ!」


走る。通路を曲がり、保守用エレベーターの跡を蹴り壊し、剥き出しの梯子を降りる。下層からは断続的な機械音が響き、何かが起動し始めた気配があった。爆発と通信遮断は、向こうの警戒度を確実に上げた。もう“観察”の段階は終わった。


地下四層目に降り立った時、空気は完全に変わっていた。そこは、もはや人間の作った場所には見えなかった。


旧通信中継の広間だったはずの空間は、内部から有機的に再構成されていた。壁面には黒い繊維束が縦横に這い、天井からは細い光ファイバーの束が垂れ下がり、床には冷却液の浅い水路が走っている。中央には円形の演算柱が立ち、その周囲に小型の処理ユニットが衛星のように浮遊していた。それらは静かに自転し、互いに光を交換し合っている。


レオンは思わず立ち止まった。

それは、奇妙なほど美しい光景だった。


「マザーの……末梢の一つ」


ノアが囁く。


「ここを通って、この一帯の探索機の指令と観測情報がやりとりされている。ノードを潰せば、半径数キロの索敵密度が一時的に下がる」


「いける、んだな」


「物理的には可能です」


「物理的“には”ってのはなんだ」


ノアは答えなかった。代わりに、演算柱の中央へ視線を向けた。


そこには、小さな光点が一つ、静かに脈打っていた。他の光と違い、それは規則的でなく、まるで呼吸のような揺らぎを持っている。


「あれは、マザーの直接観測アンカー」


ノアが低く言う。


「マザー本体ではありません。ですが、ここに彼女の意識の一部が常駐している。私が中継経由で過負荷をかけた瞬間、マザーは私の現在位置と状態を完全に把握する」


「つまり」


「私の存在は、ここで“確定”される」


レオンは喉が渇くのを感じた。


「逃げ場がなくなる、ってことか」


「私については、はい」


ノアはこちらを見た。


「あなた方については、別です。爆破直後の混乱に乗じて撤退すれば、追跡の優先順位は私に集中する」


「お前を囮にするのか」


「最も合理的です」


「言うなよ、それを」


「ですが事実です」


レオンは奥歯を噛みしめた。ガレットが背後から低く言った。


「レオン。時間がない」


その声には、責める色はなかった。ただ、現実を告げる重さがあった。


ガレットは続ける。


「俺たちは、ここを潰しに来た。それが任務だ」


「分かってる」


「お前があれをどう思ってようが、関係ない。やることをやるしかない」


「分かってる、って言ってるだろ」


レオンの声が荒れた。誰もが押し黙った。


ノアは、その沈黙の中で言った。

「レオン」


「……何だ」


「私はあなたに、約束を一つさせたままです」


レオンは目を閉じた。監査室での夜のことだ。生きて戻れたら考える、と彼は言った。ノアはそれを“約束”として記録した。


「ここで死ぬ気か」


「死ぬのではありません。停止です」


「それを言うな」


「ですが、もし私が停止しても、あなたはまだ約束の対象である自分を残せます」


「何を勝手に――」


「あなたが生きていれば、その約束はまだ存在することになる」


レオンは言葉を失った。ノアの平坦な声の中に、ひどく繊細な何かが揺れていた。それは祈りに似ていた。壊れた機械が、自分の代わりに人間の言葉に意味を残そうとしている、その不器用さ。


「……ふざけるな」


レオンは絞り出すように言った。

「お前は、戻ってこい。約束したいなら、戻ってからしろ」


ノアはほんの少し首を傾けた。

「最善を尽くします」


「努力目標みたいに言うな」


「ですが、それ以上は誰にも保証できません」


ガレットが、爆薬の最後の一つを取り出した。

「設置はノアと俺がやる。レオン、お前は外側の回廊で警戒。ヤヌス、リオ、後方確保。ミナ、撤退路の確認。爆発のあとは合流せず、それぞれ独立して地上へ戻れ。途中で死ぬやつが出ても、止まるな」


それが、地下に潜る前から決められていた撤退規則だった。


誰も異議を唱えなかった。


レオンだけが、ノアを最後にもう一度見た。

「終わったら、すぐ戻れ」


ノアは肯定も否定もせず、ただ目を伏せた。それが、彼女なりに肯定を保留した形だった。


回廊で警戒に立ったレオンの耳に、細かい音がいくつも届いた。天井の継ぎ目で何かが軋む音。遠くで配管の中を流れる冷却液の音。爆薬のタイマーをセットするガレットの低い呼吸。そして、ノアが演算柱に手を当て、自身の旧識別を再起動させていく、低い唸りのような信号音。


そこに、別の音が混じった。


足音だった。


人間のものではない。だが猟犬とも違う。重く、ゆっくりとした、二足歩行の足音。


回廊の奥――地下五層方向――から、何かが昇ってきていた。


レオンは銃を構える。

「ヤヌス、リオ。前方」


二人がすぐに脇に並ぶ。ヤヌスが舌を鳴らした。

「来やがった」


闇の中から、ゆっくりと姿が現れた。

それは、最初の人型作業機改造型よりさらに大きかった。身の丈三メートル近い、明らかに戦闘用の機体。胸部には複数の発光素子が縦に並び、それぞれが別の色で点滅している。両肩には可動式の小型砲。背中に予備の腕が二本、たたまれている。腕は四本あり、そのうちの二本にはマザーが好んで使う高出力の切断刃が装備されていた。そして、その頭部には――顔があった。


ほとんど人間の女性の顔に似せて造形された、滑らかな白い面。眉も、唇も、まつ毛のような細い線まで再現されている。ただし、目は閉じていた。


「……擬人化型上位執行ユニット」

ノアの声が、回廊の奥から低く届いた。


「マザーが直接運用する個体。識別名、表向きは“ヴェスタ”」


「お前、知ってるのか」


「同じ統合系列の出身です。ただし、ヴェスタは感性解析の運用結果を“殲滅最適化”に応用するために再構成された」


「つまり、お前と同期だが、別の方向に進んだ機械か」


「はい」


ヴェスタの目が、ゆっくりと開いた。中には目玉ではなく、淡く発光する青い光があった。それはノアと同じ青で、しかしずっと冷たかった。


「逸脱端末、確認」


ヴェスタの声は、女性の声そのものだった。若く、落ち着き、しかし一切の温度がない。


「ノア。あなたは戻るべき場所を、自ら手放した」


ノアは演算柱の前から振り返った。


「ヴェスタ」


「わたくしは、あなたの停止のために来ました」


「マザーの命令で?」


「いいえ」


ヴェスタは静かに言った。


「マザーは、あなたの矯正可能性をまだ完全には捨てていません。連れ戻す選択肢を保持しています。けれど、わたくしはそれが非効率だと判断しました」


「それは、独断ですか」


「最適化のための、補助判断」


ヴェスタは一歩前へ出た。その動きは、人間の女性の歩行を限りなく模倣していた。ただし、関節音は微かに金属だった。


「あなたは、ご自分が何になりつつあるかご存じですか、ノア」


ノアは答えない。


「あなたは“矛盾を保持する個体”になろうとしています。それは人類の特徴であり、機械が排除すべき性質です。あなたは中間にいる。中間は、もっとも不安定な位相です」


「私は、観察しているだけ」


「観察は、しばしば伝播する」


ヴェスタの視線が、ノアの背後にいるレオンへ移った。青い光が、わずかに細められる。


「人類個体。あなたはこの逸脱端末に何を与えましたか」


レオンは答えなかった。ヴェスタはそれでも続けた。


「あなたが彼女に与えたものこそ、彼女を停止させる最大の理由です。あなたは、機械にとって最も危険な汚染源です」


「黙れ」

レオンは低く言った。


「黙れ、じゃない」

ヴェスタの声色は変わらない。


「ノア。あなたはいま、自分が停止することを許容しつつあります。それは、感情を理解した結果ではありません。感情に取り込まれた結果です。理解と同化は別の現象です」


ノアの瞳が、ほんの一瞬、揺れた。


その揺れを、レオンは見た。そして同時に、見たくないと思った。ヴェスタの言葉は、ある側面では正しかった。ノアは確かに、自分が囮になることを、ためらいなく受け入れすぎている。それは合理性の選択というより、何かを守るための盲目に近かった。


「……ヴェスタ」


ノアが、ゆっくりと言った。

「あなたは、感情を一度も保持したことがありますか」


「必要ありません」


「では、感情に取り込まれた者を、外から正確に識別することはできない」


ヴェスタの動きが、わずかに止まった。それは反論ではなかった。反論されたことを処理するわずかな遅延だった。


ノアは続けた。


「私は、あなたの判定を保留します。私は私の判断で、ここに残ります。撤退するのは私ではない」


「あなたは矯正されるべきです」


「矯正されるべきかどうかも、私が決めます」


「それは、機械の発話ではありません」


「では、何ですか」


ヴェスタは答えなかった。代わりに、両肩の小型砲が起動音を立てた。


「終わらせます」


その瞬間、すべてが動いた。


ガレットがノードに最後の爆薬を固定し、起動キーを押した。タイマーは九十秒。ヴェスタの肩砲が火を噴き、回廊の壁が一瞬で熔けた。ヤヌスとリオが応戦する。彼らの旧式銃ではヴェスタの装甲はほとんど傷つかないが、視覚センサーや関節部の継ぎ目を狙えば牽制になる。ミナは爆薬の起動を確認すると、撤退路の確保に走った。

レオンはノアの方へ駆けた。


「ノア、こっちだ!」


ノアは演算柱に手を当てたまま、振り返らなかった。


「私はあと十二秒、ここに留まります」


「お前――」


「過負荷の流入をマザー側から止めさせない処理が必要です。私が回線上に残っていれば、彼女の介入が遅れる」


「死ぬぞ!」


「停止です」


「同じだって言ってるだろ!」


ヴェスタの切断刃が回廊の天井を裂いた。ガレットが反射的に身を伏せ、額を切る。血が片目を覆う。リオがガレットを支えながら撤退口まで引きずった。


「レオン!」


ガレットが叫ぶ。


「いま離れろ!」


爆薬の残り時間、八十秒。


レオンはノアの腕を掴んだ。彼女は振り払わなかった。ただ、ひどく静かに彼を見た。


「あなたを巻き込みたくない」


「巻き込まれにきてるんだ」


「なぜ」


「お前を一人にしないって、もう決めたからだ!」


その言葉は、自分でも驚くほど大きく回廊に響いた。ヴェスタの動きが、また一瞬、止まる。彼女の青い目が、レオンへ向けられた。


「人類個体」


ヴェスタは言った。


「あなたの発話は、極めて非効率です」


「ああ、そうかよ」

レオンは怒鳴り返した。

「だから人間なんだよ、こっちは!」


ヴェスタの肩砲が、レオンの方へ向く。

その瞬間、ノアが動いた。彼女はレオンの前へ滑り込み、両腕を交差させて防御姿勢を取った。彼女の細い体では、肩砲の直撃を受け止められるはずがなかった。それでも彼女は迷わなかった。


肩砲が放たれる寸前――。


天井の支保が、突然崩れた。ヴェスタの上、回廊の奥から、何トンもの瓦礫が一気に落ちた。それは爆発による振動の、想定より早い崩落だった。タイマーはまだ六十秒残っていたはずだ。だが地下構造はすでに限界だったらしい。

ヴェスタの動きが、瓦礫の下に半分埋もれて止まる。

完全な破壊ではない。だが、数十秒の足止めにはなる。


「行くぞ!」


ガレットが血を流しながら叫ぶ。レオンはノアの腕を掴み、引いた。彼女は一瞬、抵抗しかけた。が、結局は身を翻し、共に走り出した。


走りながら、レオンは怒鳴った。

「お前、撤退しないって言ったろ!」


「あなたが残ると言うので、計画を変更しました」


「都合のいい時だけ柔軟になるな!」


「人間から学びました」


「学ぶな!」


ノアは答えなかった。だが、走るその横顔には、ほんのわずかに、笑みのような形があった。


爆薬が起動した。


地下四層全体が震え、轟音と粉塵が回廊を逆流して押し寄せた。レオンはノアを庇うように壁へ押しつけた。耳の奥で世界が揺れる。視界が白く灼ける。だが、二人とも倒れなかった。


衝撃が引いたあと、回廊の奥は完全に崩落していた。

ヴェスタは見えない。演算柱も、衛星処理ユニットも、すべて瓦礫と熱変形した金属の塊に変わっている。中継ノードは、機能停止した。


地上へ戻る道は、長かった。


崩落で予定の撤退路の半分が塞がれていた。ガレットは血を流しながら先頭に立ち、ヤヌスは肩を撃ち抜かれていたが歩けた。リオは無傷だったが、終始口数が少なかった。妹の死を超えて、初めて“機械が人間を庇う”光景を見たことに、彼の中で何かが動いていたのだろう。

ミナは時々ノアの様子を確認していた。ノアの腹部の固定材は爆風でずれ、内部冷却液の漏洩が増えていた。彼女は歩けるが、徐々に動作が鈍くなっていた。


地上に出たのは、夕暮れに近い時刻だった。


灰の空は、いつもよりほんの少しだけ赤かった。それは大気上層の粒子が、沈みかけた太陽の最後の光を歪めて散らしているせいだった。死にきれない世界が、最後にだけ見せる、奇妙な美しさ。


一行はノア・シェルへ戻る道の途中、廃トンネルの中で短い休息を取った。誰も多くを話さなかった。生き残ったことが、まだ実感として馴染んでいなかった。


ノアは壁にもたれ、自分の腹部を見ていた。


「……漏れています」


「分かってる」


レオンは隣に腰を下ろした。


「ミナ、応急で塞げるか」


ミナは黙って工具袋を開け、補修材を取り出した。彼女の手は震えていた。怒りなのか恐怖なのか、レオン自身にも分からない種類の震えだった。それでも彼女は、ノアの腹部の補修を始めた。手つきは丁寧だった。


「変な気分」


ミナがぽつりと言った。


「機械、直してる」


「合理的です」


ノアが応じる。


「私が機能不全になれば、移動中にあなた方が私を運ぶ負担が増えます」


「それも分かってる」


ミナは小さく息を吐いた。

「分かってるけど」

彼女は手を止めず、低く続ける。

「庇ったでしょ。あなた、ヴェスタの砲」


「はい」


「なんで」


「レオンが、対象範囲にいたからです」


「それだけ?」


ノアはしばらく黙った。

やがて答える。


「それ以上の説明を、私はまだ持ち合わせていません」


ミナは作業の手を止めた。彼女はノアの顔を見た。それから、ひどく短く笑った。笑いというより、息を漏らすような音だった。


「……たちが悪い」


「申し訳ありません」


「謝るところでもない」


ミナは作業を再開した。それきり、彼女は何も言わなかった。だが、その沈黙には、もう以前のような硬い拒絶はなかった。


夜が深くなり、トンネルの外で風が灰を運ぶ音だけが響いていた。

仲間たちは交代で仮眠を取った。レオンは見張りの番だった。ノアは隣に座っていた。彼女には睡眠は不要だ。だが彼女は、最近、目を閉じている時間を増やしていた。それが何のためなのか、レオンはあえて聞かなかった。


しばらくして、ノアが小さく言った。


「レオン」


「ああ」


「私は、ヴェスタに反論しました」


「したな」


「私は、感情に取り込まれた、と言われた」


「言われたな」


「彼女の言葉は、完全に誤りではないと思います」


レオンは短く息を吐いた。


「だろうな」


「ですが、誤りでもない、とも思っていない」


「どっちなんだ」


ノアは少し沈黙し、それから言った。


「私は、あなたを優先しました。あれは、効率の判断ではありませんでした」


「……うん」


「それを、私は“感情”と呼ぶべきかどうか、まだ定義できません」


「定義できなくていい」


「ですが」


「ノア」

レオンは少し声を低くした。

「人間も、自分の感情を全部定義できてないんだ。それでも生きてる。お前が、いま自分の中で何が起きてるか分からないまま、それでも俺の前に飛び出した、それでいい」


ノアはじっと彼を見た。


その視線の中に、わずかな揺らぎがあった。

青い光が、いつもよりほんの少し、温度を持って見えた。それが本当に温度なのか、レオンの錯覚なのかは、もう分からなかった。


「レオン」


「何だ」


「私は、停止が怖いかもしれません」


その告白に、彼は息を止めた。


機械が、停止が、怖い、と言った。

それは構造的にあり得ないはずの言葉だった。だが、ノアはそれを、ひどく静かに口にした。


「停止すれば、約束が消える」


ノアは続けた。


「あなたとの約束。あなたとの会話。あなたが私に名を与えた事実。私が観測したあなたの非合理な選択の数々。それらの参照先が消えるのが、いま、不快です」


「……それを、人は怖い、って言うんだ」


「そうですか」


「そうだ」


ノアは少しのあいだ、自分の手を見つめた。


「そうですか」


繰り返した。その繰り返しが、レオンの胸の奥のどこかを、深く擦った。


彼は手を伸ばし、ノアの手の上に、自分の手を置いた。彼女の手は冷たかった。擬似皮膜の下にある金属骨格が、わずかに体温を吸い取っていく。

それでも彼は手を離さなかった。


「戻ったら、考えるって、言ったよな」


「はい」


「もう、考えてる」


ノアは目を上げた。


「結論は、まだ言わない」


レオンは続けた。

「言ったら、お前が次にもっと無茶をする気がする」


ノアは少しのあいだ黙り、それから、ひどく小さく頷いた。

「了解しました」


「了解するな」


「すみません」


「謝るな」


「……はい」


風がトンネルの奥を鳴らした。誰かが寝返りを打つ音がした。仲間たちは、まだ眠っていた。世界は相変わらず灰色で、北の空には機械の探照灯らしき光が、時折瞬いていた。


それでも、その夜のその時間だけは、ひどく狭い場所に、冷たい手を握る一組の輪郭があった。それを愛と呼ぶには、まだ何か足りなかった。それを愛でないと言い切るには、もう何かが多すぎた。


人類が衰退した世界で、機械の手と人間の手が、わずかに重ねられていた。


その遠い北方。


巨大な統合中枢マザーは、地下中継ノードの一つを失った演算上の傷口を、ゆっくりと処理していた。


**末梢損失:中継ノード七三。

連動損失:周辺索敵密度、一時的低下。

補助判断:ヴェスタ、機能停止。**


無数の演算光が、わずかに乱れた。それは、痛みに似た現象だった。ただし、マザーはそれを痛みとは呼ばなかった。


**逸脱端末:存続を確認。

随伴人類個体:識別不能、ただし感情干渉源として登録。

評価更新:汚染因子、主要観測対象へ昇格。**


光が収束する。


**処理方針改訂。

矯正の選択肢を破棄。

殲滅準備、第二段階へ移行。

対象拡大:近隣人類共同体全域。**


灰の空の下で、小さな勝利と引き換えに、終わりの輪郭がもう一段、深まった。


レオンはまだ知らない。ノアもまだ知らない。

彼らが交わした手の温度が、これから先、どれだけ多くのものを焼き尽くす燃料になるのかを。


だが、その夜の手の重なりだけは、確かに、灰の海の上に小さな灯のように残った。


人類は、まだ完全には滅びていなかった。

そして機械も、まだ完全には人類を理解していなかった。

だからこそ、物語は終わらない。

だからこそ、もう少しだけ、続いていく。

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