第9話 明日の予定と選択科目
夕食の喧騒がすっかり引いた静かなリビング。 天井の柔らかな暖色の照明が、ローテーブルの上と二人の影を優しく照らし出していた。テレビからは、今どきのバラエティ番組の賑やかな音声がBGMのように流れているが、ソファに並んで座る一華とシンの間には、どこか穏やかで落ち着いた空気が漂っている。
一華は両手でティーカップを包み込むように持ち、その縁から立ち上る微かな湯気をぼんやりと見つめていた。カップの中身は、魔界特産の『月華草茶』だ。ほのかな甘みと爽やかなハーブの香りが、一日の終わりに高ぶった神経を心地よく鎮めてくれる。
「ふう……」
小さく息を吐き出した一華は、手元から現実を無理やり引き剥がすように、パッと顔を上げた。
「ねえ、シン。明日、体育あるよねえ……。」
その呟きには、どこか絶望と現実逃避の色が混ざっている。シンはテレビ画面から視線を外し、テーブルの隅に置かれた時間割表に目をやった。
「明日は、数学、現代国語、英語、体育。四時間目だな!」
淀みなく答えるシンの声には、毎日の予習を欠かさない彼の生真面目さがにじみ出ている。しかし、一華の肩はガックリと落ちていた。
「体育かぁ……。男女別々だよ。どうする?」
その言葉を聞いた瞬間、シンの表情が一瞬にして硬直した。彼の脳裏で、これまでの日常が危険信号を点滅させる。シンの人間界における最大の、そして最優先の任務は、魔力暴走のリスクを抱える一華の『常時護衛』である。四六時中、半径数メートル以内で彼女を見守ることが、魔王である叔父から下された厳命だった。
「ふむ、護衛できないな。……さて、どうするか。」
「でも、体育館で月なんて見ることないから大丈夫だよ。きっと!」
自分を納得させるように明るく振る舞う一華だったが、その内情は複雑怪奇だった。もともと運動が苦手な彼女にとって、校庭を走るのも、マットの上で転がるのも、体育そのものが苦行でしかない。プールがないこの学校を選んだのもそれが理由の一つだったが、そもそも学校の体育にプールがあること自体、一華の人生設計における最大のバグだった。
一方のシンは、完全に戦闘モード、いや護衛モードに入っていた。彼は沈黙し、端正な顎に手を当てて深く考え込んでいる。彼の脳裏では、体育館の構造、女子更衣室の位置、万が一の際の最短移動ルートなどが瞬時にシミュレーションされている。
しばらくの沈黙のあと、シンは真剣な眼差しを向けた。
「体育とは、具体的に何をするんだ?」
熟考の末、シンが真剣な眼差しを向けて尋ねる。
「えっと、簡単に言えば運動だけど? 球技とか、陸上かなぁ。」
「魔界でいう、肉体鍛錬に近いな。ならば、身体能力の制限を少し緩めれば……。」
「ダメダメ! 魔力は出しちゃ絶対ダメだよ! 他の男子たち、シンの運動能力についていけないよ。人間界の常識を超えちゃうから!」
一華は慌ててシンの袖を掴み、強い口調で釘を刺した。常人離れした身体能力や魔力放出は、人間界では即座に都市伝説か事件になってしまう。
「……承知した。抑制するよう、全力を尽くそう。とりあえず明日の体育は、俺と一華の間に魔力による微弱な通信回線を張る。何か異常を感じたら、即座に知らせるということで対処しよう。」
シンの現実的な提案に、一華は安心したようにふっと息を漏らした。
「うん、分かった。私もいつもより結界を強く張っておくね。これで少しは安心かな。」
「それと、選択科目って何にする?」
話題がパッと切り替わり、一華は通学用かばんから一枚の用紙を取り出してシンに見せた。それは、来週から始まる選択科目の希望調査票だった。期限は明日である。
「選択科目?」
「うん、明日が提出期限なの。」
シンはすっかり忘れていたとばかりに、用紙の文字を凝視した。
「音楽、書道、美術の中から希望順を出して、どれか一つの授業を受けるの。人数が多いと抽選で他の科目に回されるらしいよ。」
「ほう。同じものを選択しても、必ずしも同じクラス、同じ空間になるとは限らないのか?」
「だねぇ。クラスがバラバラになる可能性もあるって先生が言ってた。」
シンは再び、腕を組んで思考を巡らせる。護衛任務の観点から見れば、授業中に物理的に離れることは致命的なリスクの発生を意味する。一瞬の油断が、一華の魔力暴走を招くかもしれない。
「一番リスクが低い、つまり一華と同じ科目を選択したいが……苦手なものだと、いささかつまらんよなぁ。」
「ちなみに、シンは何が苦手なの?」
「絵だな。視覚情報の構築が抽象的すぎて、我が頭脳の論理的処理回路の邪魔になる。美を具現化するプロセスがどうにも非効率だ。」
それを聞いた一華は、クスッと声を立てて笑った。
「私も全部苦手って言いたいけど、強いて言えば私も美術かなぁ。粘土とかデッサンとか、自分の想像力のなさに絶望するもん。」
「書道なら、精神統一の実践にも役立つだろうし、音楽なら、人間界の文化を学ぶ上で気分転換にもなりそうだが。」
「じゃあ、第一希望:書道、第二希望:音楽、最後は美術で出す?」
「妥当な線だな。しかし、もし抽選で外れて離れ離れになった場合は……」
シンが懸念を口にかけようとした瞬間、一華は突然ひらめいたように目を輝かせた。
「あ、待って。そんな面倒なことしなくても、シンは高校受験の時みたいに、魔力でこっそり結果を操作して好きに決めれるんじゃないの?」
その柔軟すぎる発想に、シンは一瞬驚いたように目を丸くしたが、次の瞬間には深く納得したように小さく頷いた。
「……確かに。俺の魔力を用いれば、用紙の記載内容や集計の確率を書き換えることは容易い。うん、できるな。」
一華は満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、二人とも第一希望の『書道』で決まりね!」
「あぁ。これで、選択科目における護衛対象離脱のリスクは完全に消滅した。ところで、書道の道具はどうするんだ?」
「えーっと確か、小学校の時に使ってたのが実家の押し入れかどこかにあったっけ……。どこに片付けたかなぁ。シン、魔力で探し出せる?」
シンは言われるがままに静かに目を閉じ、意識を研ぎ澄ませた。微細な魔力の波を部屋の隅々、さらには家全体の空間へと広げ、一華の気配と結びついた思い出の物品の波長を拾い上げていく。
「……少し待て。一華の勉強部屋のクローゼット、その奥にあるダンボール箱の底だな。」
「おー、さすがシン様!」
一華は敬称をつけると某時代劇の『新さん』を思い出しながら両手を叩いて喜んだ。その無邪気な素直な賞賛に、シンの整った頬がわずかに赤らむ。彼は慌てて無表情を保とうと試みたが、隠しきれない喜びがわずかに口元を緩ませていた。
「……任務の一環だ。誇るようなことではない。」
そう言いながらも、どこか嬉しそうなシンの態度に、一華はクスクスと笑いながら勉強部屋へと向かった。しばらくして、少し誇らしげに古びた書道セットのハードケースを抱えてリビングに戻ってくる。
「あったあった! さすがシン、一発だったね。」
テーブルの上にケースをドンと置き、蓋を開けて中身の状態を確認する。
「うーん、大体揃ってるけど、筆はちょっと穂先が割れちゃってるから買い換えないとダメみたい。墨汁と下敷き以外は、二人分新しく用意しないとだよね?」
「明日、科目が正式に提出・決定されたら、放課後に一緒に文具店へ買いに行こう。」
「そっかぁ。高校生になると、地味に買い忘れってあるよねぇ。お金、足りるかなぁ……。」
一華が心配そうに首を傾げると、シンは頼もしく首を横に振った。
「心配要らない。生活費や学費全般は、叔父上からいただいている資金から十分に拠出されている。公共料金や日用品の引き落とし手続きも完璧だ。一華は、自分のお小遣いの管理だけで十分だ。」
「そうなの? 一人暮らしするって大口叩いて宣言したのに、お金のこと全然頭になかったよ〜。これじゃ婚約者としてダメだね。」
自嘲気味に肩を落とす一華に対し、シンは真摯な動作で彼女の顔を真っ直ぐに見つめた。そして、ふっと柔らかく声を落とす。
「そんなことはない。一華は今、子どもから大人への階段を一歩ずつ、確実に上がっているんだ。まずは、自身の抱える魔力のコントロールが最優先事項だ。それが完全にできるようになれば、経済的な生活の知恵も、自ずと身につけていけばいい。」
シンの温かな眼差しと、どこまでも誠実な優しい言葉に、一華は胸を突かれたように顔を輝かせた。
「ありがとう! パパって魔王だけあって、ちゃんと人を見る目あるね。シンを婚約者にしてくれるんだから!」
心からの信頼を込めて笑う一華。しかし、その直後だった。
「一華……っ!」
一華の口から飛び出した言葉の真意、そして『婚約者』という響きの重みに今さら気づいた瞬間、シンの顔から首筋にかけて、カッと一気に血が上ったように赤く染まった。
「あ……!」
一華もまた、自分が今なんて言ったのかを脳内でリプレイし、同じように顔をトマトのように真っ赤に染め上げた。先ほどまでの和やかな空気が一変し、リビングには甘く、そして耐えがたいほど気まずい沈黙が流れる。
お互いに視線を合わせることができず、両者はあさっての方向へと目を逸らした。
シンは気まずさを紛らわせるように、わざとらしく大きく咳払いをし、必死に帝王学で培った精神力を総動員して平静を取り戻そうとした。
「……明日は初めて授業で物理的に離れる時間が発生する。今夜は早くベッドに入り、精神と魔力の状態を落ち着かせておこう。」
「そ、そうだね! 明日も早いし……。おやすみ、シン!」
「あぁ、おやすみ、一華。」
短い挨拶を早口で交わすと、二人はまるで追われるようにそれぞれの自室へと引き返していった。
自室に戻った一華は、勢いよくベッドにダイブし、ふかふかの枕に顔を埋めた。先ほど自分の口走った言葉と、それに反応して照れくさそうに真っ赤になったシンの端正な顔立ちが、脳裏で何度も何度もリフレインする。
シンの圧倒的な強さと、護衛としての揺るぎない誠実さ。そして、ふとした瞬間に見せる年上らしい、どこか不器用な優しさ。それらが一華の胸を激しくノックし、心臓の鼓動はベッドのマット越しにも聞こえるほど高鳴っていた。
「もう……あんなこと言っちゃうなんて……!」
枕をバフバフと両手で叩きながら、一華は恥ずかしさのあまり身悶えした。しかしその頬に浮かんでいるのは、紛れもない幸せな熱だった。
一方のシンはといえば、自室のベッドの端に腰掛けたまま、しばらくの間一ミリも動けなかった。感情の回路や魔力の流れは、常に任務の遂行に最適化されているはずだった。どんな修羅場でも冷静さを失わないはずの魔王族の血を引く彼が、一華の何気ない、しかし純粋な信頼と笑顔の破壊力の前には、いとも簡単に鉄壁のシステムを乱されてしまう。
シンの胸の内で打つ心臓の音は、かつて魔界で数々の死闘を潜り抜け、護衛対象の危機に直面したときよりも、はるかに激しく、そしてリズミカルに鼓動していた。
「……全く、彼女といるとペースを狂わされる……。」
静まり返った暗い自室で、シンは小さく自嘲気味に呟いた。冷たい魔界製の特殊なベッドに横になり、明日という新しい日常へと思いを馳せながら、彼はそっと静かに目を閉じた。窓の外では、人間界の穏やかな月が、二人を優しく見守るように光を放っていた。




