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偽りの兄妹(旧タイトル:いちにの華)  作者: ゆず華
覚醒編

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第8話 魔力暴走

クラスの委員選出という大役から無事に逃れられた一華とシンは、夕暮れの街を歩いて帰路についた。

道中で明日の朝食とお弁当用の食材を買い込み、帰宅してからは二人で手際よく冷蔵庫へと収めていく。


制服からリラックスしたルームウェアへと着替えると、いよいよ夕食の準備だ。ご飯は少し多めに炊き、夕食分を除いたものは一食分ずつラップにくるんで冷凍庫へ。今夜は炊き立てのご飯に、先ほど買ってきた総菜を並べて手早く済ませた。


慌ただしくも穏やかな後片付けを終え、まずは一華が浴室へ向かう。湯気の中から心地よさそうな気配が消えると、入れ替わりにシンが浴室へと入っていった。


一華はタオルで濡れた髪をざっと乾かした後、リビングのソファに腰掛けドライヤーをかけながら、ぼんやりとテレビの画面を見つめていた。

何気なくリモコンを操作してチャンネルを変えたとき、たまたま夜空の特集番組が目に留まる。


画面には、美しい夜空に浮かぶ満月がアップで映し出された。


その月を目にした瞬間、一華の全身を電流が走るような強烈な衝撃が駆け抜けた。

次の瞬間、一華の姿はかき消され、ソファの上には一匹の黒猫がぽつんと座っていた。


「にゃんにゃ?……(にゃんで?)」


黒猫の甲高い、聞きなれない自分の鳴き声がリビングに響き渡る。

仁華の悲鳴と、それに伴う微弱な魔力暴走の波動。その異変を、浴室のドア越しに敏感に察知したシンが飛び上がった。


護衛任務を何よりも優先するシンにとって、それは一華の命に関わる緊急事態だった。考える間もなく浴室のドアが開き、シンはそのままリビングへと駆け出す。水滴を滴らせたままの姿で、ソファへと視線を走らせた。


「一華、大丈夫か!? 何があった……」


荒い息を整えながらシンの視線の先を捉えたのは、混乱に満ちた瞳で自分の身体を見下ろしている小さな黒猫の姿だった。


「にゃんにゃにゃ……(にゃんでにゃ!?)」


シンは自分の状態を顧みる余裕もなく、ただ一華の安全を確認して安堵の息をもらす。しかし、その直後、黒猫仁華から再び悲鳴が上がった。今度は魔力暴走によるものではない。


「にゃっ!……(きゃっ)」


思わず、黒猫仁華は両前足の肉球で自分の目を隠し、そのままソファに突っ伏した。


その切羽詰まった甲高い声で、シンはようやく自分の現状を理解する。

彼は今、鍛え上げられた男性の肉体を何の隠すものもなく、そのままリビングに晒していたのだ。


自分の姿に気づいた瞬間、シンの顔がカッと真っ赤に染まる。


「うわぁ! ごめん!」


シンはそう叫ぶやいなや、瞬時に踵を返し、再び浴室へと飛び込んでいった。


一方、ソファの上の黒猫――仁華の心臓は、ドクンドクンと激しく狂ったように鳴り響いていた。顔どころか、全身の毛が逆立っているかのように熱い。


人生で初めて直視してしまった、生身の男性の身体。少年時代の面影など微塵もない、完璧に鍛え上げられた筋肉の記憶。

人間に戻る余裕すらないまま、頭の中はぐるぐるとシンの裸体のイメージで埋め尽くされていく。


そうこうしているうちに、パジャマをきちんと身にまとったシンが、恐る恐る再びリビングへと戻ってきた。その声は心持ち震えている。


「ごめん……驚かせて、そのまま飛び出してしまった……。」


黒猫仁華は恥ずかしさのあまり顔を上げられず、「うんにゃ」と小さく鳴くのが精一杯だった。


シンは深々と謝罪すると、濡れた廊下をタオルで手早く拭き取り、以前よりもずっと大きな隙間を空けてソファの端に腰掛けた。必死に平静を装いながら、落ち着いた声で語りかける。


「とりあえず……人間にもどろうか。」


その言葉に促され、黒猫仁華は正気を取り戻した。震える前足で胸元のペンダントに触れ、何度か深呼吸を繰り返す。

パッと光が広がり、黒猫の姿から元の少女の姿へと戻った。


しかし、顔だけでなく、首筋から耳たぶの先までが真っ赤に染まっている。すぐ隣に座るシンからは、自分と同じシャンプーの香りが微かに漂ってきた。物理的な近さと、先ほどの強烈すぎる光景のせいで、心臓の鼓動は収まるどころか激しく跳ね続ける。目の前にいるのは、他でもない自分の『婚約者』なのだ。意識するなという方が無理な話だった。


シンもまた、人間に戻った一華の紅潮した横顔を前にして、どこか落ち着かない様子を見せていた。このままではお互いの距離感がぎこちなくなってしまうと察したのか、シンは意を決してしっかりと体を向き直らせた。


「一華……いきなりであんな姿を見せて、本当にすまなかった。」


一華は蚊の鳴くような声で返事をしたものの、恥ずかしさで俯いたまま顔を上げられない。


「……う、ん。」


シンは、中途半端な沈黙がこの気まずさを悪化させると理解し、真摯で真っ直ぐなトーンで言葉を紡ぎ出す。


「俺は……一華を護衛する使命を最優先している。あの時、君の悲鳴を聞いて頭に浮かんだのは、魔界からの襲撃か、あるいは制御不能な魔力暴走の危険だけだった。だから、自分の身なりなど気にする余裕はなかった……。それは護衛としての本能であり、任務だったんだ。」


(――わかった、もう分かったから! そんな真面目な顔で正当性を力説しないで、お願いだから思い出させないで……っ!)


「だが、その結果として一華に不快な思いをさせたことには変わりない。……本当に、すまなかった。一華と俺は婚約者という立場だが、高校生活の間、この婚約は『封印された』約束だ。俺の身体は、一華を守るための道具に過ぎない。俺の役割はあくまで君の護衛であり、人間界で安心して日常を送れるよう、今後も境界線を厳守するつもりだ。」


(――お願い! その低い声で「俺の身体」とか言わないで……っ!)


一華は耳まで真っ赤に染め上げ、両手で顔を覆った。早くこの話題を終わらせてほしい一心で、指の隙間から必死に「う、うん……」と蚊の鳴くような相槌を打つ。


だが、シンは誠実さを貫こうと、さらに言葉を重ねてしまう。


「だから、一華が感じた動揺も戸惑いも、全部俺に預けてくれ。明日からは、今日の出来事は『魔力暴走による不可抗力』として完全に封印していい。君の女子高生ライフを、これ以上俺が邪魔することはない。……いいか? 俺にとって一華は、今もこれからも、命を懸けて守るべき大切な一華様だ。」


まっすぐすぎる真面目な言葉に、一華の頭は完全にキャパオーバーを起こしていた。

シンはそう言い切ると、一華から少し身を引き、再び隣に座り直した。


しかし、その整った横顔を盗み見ると、首元や耳たぶの先がわずかに赤らんでいる。必死に『ただの護衛としての任務』だと自分に言い聞かせているのだろう、組んだ指先がわずかに強ばっていた。


(……危なかった。真面目な顔を取り繕うので精一杯だったが、一華のあんなに真っ赤な顔を見せられたら、自分の心臓の音まで聞こえそうだった……)


シンは内心で冷や汗を拭いながら、これ以上余計なことを口にして墓穴を掘らないよう、ぐっと奥歯を噛み締めていたのだった。


一方の一華も、シンの誠実な言葉と、わずかに揺らぐその不器用な横顔に気づいてしまい、胸の内で別の意味の熱がふつふつと湧き上がるのを抑えきれずにいた。


(……待って、シンのバカ真面目なところ嫌いじゃないけど……そんなに意識させないでよ……っ!)


誠実さが真っ直ぐに伝わってくるシンの言葉と、『婚約者』と『護衛』という明確な境界線の提示に、顔を真っ赤に染め、頭から湯気を出しそうになりながら必死に理性を取り繕う一華。


「……大人、の人の身体なんて初めて見たから、過剰反応しちゃったんだと思う。」


(大丈夫、大丈夫、うん大丈夫。ただの護衛なんだから……ハプニング、事故みたいなものよ……っ!)


一華は心の中で必死に自分に言い聞かせ、顔の赤みを両手で必死に抑え込もうとする。

しかし、首筋まで染まった熱は一向に引く気配がない。シンのシャンプーの香りと、さっきの直視してしまった鍛え上げられた筋肉の残像が、脳裏でメリゴーラウンドのようにぐるぐると暴れ回っていた。


――頭が沸騰するような恥ずかしさと混乱のなか、一華の理性がどうにかこうにか現実へ引き戻されかけた、まさにその時だった。


(待って……? ちょっと待ってよ……)


恥ずかしさでいっぱいの脳みそが、別の恐怖で一気に凍りつく。


「……まさか、テレビの月ごときに反応しちゃうなんて。これからどうしよう……。私、明日からどうやって生きていけばいいの……っ!」


シンは冷静さを取り戻しつつも、声の底には深い緊張の色を滲ませている。


「自宅でよかったと心底思う。これがもし外だったら、今すぐ君を強制的に魔界に連れ帰るしかなかったな。人間界で変身の瞬間を目撃されれば、我々の任務は即座に失敗だ。」


すぐにシンを見る一華の顔は、恥ずかしさによる赤みから、冷や汗による青ざめた青みへと劇的に変化していた。

羞恥心は一瞬にして『明日の学校生活が詰む』という絶望的な生存本能にかき消されていく。


「えぇ~、やだよぅ! そんなの困る……。ねえ、図書室や本屋さんって、天文関係の本とか、表紙に月が描かれている本なんていくらでもあるよね? もう、本のある場所にはどこにも行けないよ……! 私の高校生活が不審者レベルで終わっちゃう!」


シンは腕を組み、険しい表情で深く考え込んだ。


「一華の魔力は、月齢そのものというより、『月の視覚情報』を直接のトリガーにしている可能性が高い。もちろん、満月の夜は魔力が一段と高まるようだが……。テレビや映像は自宅以外で見ないようにするとして、静止画である『本』の表紙や挿絵でも反応するかどうか、一度確認しておく必要があるな。」


「……うっ。……物理の教科書に、月の写真が載ってたはず。持ってくるね。」


さっきまでのシンの裸体に対する羞恥心は完全にどこかへ飛び去り、一華はパジャマの裾を揺らしながら自分の部屋へとダッシュし、物理の教科書を抱えて戻ってきた。


そのままソファに腰掛け、ページの端をめくっていく。そこに現れたのは、無数のクレーターが克明に写し出された、大きな月のカラー写真だった。


一華がその視覚情報に触れた瞬間――先ほどと同じ、全身を撃ち抜くような衝撃が走る。

次の瞬間、彼女が座っていたはずの場所には、またしても一匹の黒猫仁華がちょこんと座り込んでいた。


黒猫仁華は、ソファのクッションにぺたりと前足を投げ出し、力なく「にゃ……」と小さくうめいた。


やっぱり教科書の写真ごときでこうなってしまうなら、この先どうすればいいのか。笑うしかない絶望感が、その丸まった背中からひしひしと伝わってくる。


シンは深く、大きなため息をついた。


「……前途多難だな。」


「にゃ、にゃにゃっ……!」


黒猫の姿に戻った仁華は、目の前が真っ暗になったと言わんばかりに、ソファのクッションにバタリと前足を投げ出した。さらに、これからの絶望的な高校生活を訴えるように、小さなしっぽをパタパタとソファに叩きつけて激しく抗議する。


(図書室も本屋もダメなんて、私の青春の半分が奪われるようなものじゃない! 一生引きこもり生活になっちゃうよ……!)


そんな黒猫の全身を使った必死の抗議を、シンは腕を組み、ふーむと真剣な表情で見下ろしている。


「この特異な変身能力は、裏を返せば、あえて黒猫になりたいときに写真を見ることで『変身のコントロール』を鍛えるトレーニングに利用できる側面もある。だが、今は学校生活の安全が最優先だ。」


淡々と告げるシンの足元で、黒猫仁華は「にゃ……」と小さな鳴き声を漏らし、力なくうなだれた。


「俺が気づかれない程度の、極微細な結界を常に君の周りに張っておく。だが、過信は禁物だ。決して、図書室や本屋には一人で行かないこと。」


「にゃにゃ……(うん、わかったにゃー。)」


「そして、最も重要なことだが――一華の体内の魔力が、テレビや写真ごときにこれほど強く反応するということは、現在の君の魔力が想像以上に不安定だということだ。毎晩、寝る前に魔力の制御訓練をルーティンに組み込む必要がある。」


「にゃにゃにゃ~んにゃ……(えー、毎晩訓練にゃ?! でも、黒猫ににゃっちゃうのを防ぐためだもんにゃ……。分かったにゃ、頑張るにゃよ!)」


シンは小さくうなずくと、ソファから立ち上がり、黒猫仁華の頭にそっと手を置いた。その温もりに、仁華の身体がピクンと小さく跳ねる。


「まずは一華を元の姿に戻すぞ。君自身で、体内の魔力を内側から制御する感覚を掴むんだ。――それと、今後は絶対に、俺が許可するまで月に関わる視覚情報には近づくな。たとえそれが、お菓子のパッケージに描かれた小さなイラストであってもだ。」


「にゃ……(うん、絶対に約束するにゃ!)」


黒猫仁華は気合を込めて小さく鳴くと、再びペンダントに前足を当て、シンの教えた通りの手順で深呼吸を繰り返した。数回の呼吸ののち、黒猫のシルエットが光に溶け込み、再び真っ赤な顔をした一華の姿がソファに戻ってきた。


「よし。今日のところはこれで終わりだ。寝る前にもう一度、心の中で結界のイメージを強化しておけ。」


一華は、これから始まるであろう学園生活の新たな困難さと、シンの隙のない徹底した護衛体制の完璧さに圧倒されながらも、小さく息を吐き出すのだった。

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