第6話 最後の晩餐
荷物の運び込みと、シンによる魔界製家具の転移が滞りなく終わり、新居には最低限の生活の土台が整っていた。
しかし、そこからが本番である。部屋のあちこちにそびえ立つダンボールの山を崩し、日常の空間へと変えていく地道な荷ほどき作業は、想像以上に体力を奪っていた。一華、アズサ、シンの三人は、すでに疲労困憊の極みに達していた。
「さて、お疲れ様。引っ越し完了ね! でも、もう料理する気力も体力も残ってないわ。」
アズサがため息をつきながらソファに崩れ落ちる。一華も同じようにテーブルに突っ伏した。
「うん、クッタクタだよ。食材もないしね。」
「無理に料理する必要はありません。栄養補給を優先すべきです。」
そんな私たちをよそに、クールすぎる護衛――もとい、次期魔王候補のシンは真面目な顔で分析している。
私はここぞとばかりに母に甘えた。
「じゃあ、今日だけは豪勢に! ママ、特上のお寿司頼もうよ!」
「今日が人間界最後の晩餐になるんだものね。いいわ、出し惜しみしないわよ!」
アズサは早速、スマートフォンを取り出すと、馴染みの高級寿司店に出前を注文した。
数十分後。
リビングのローテーブルを囲む私たちの前に並んだ高級寿司の折詰。
木箱の蓋が開いた瞬間、酢飯とネタの芳醇な香りが部屋中に広がり、私たちの食欲を心地よく刺激する。
トロ、ウニ、イクラ、アワビ――。まるで宝石箱のような極上の輝きに、私たちは思わず声を上げた。
「うわーっ! やっぱり高級寿司は違うね! 見てるだけで幸せ!」
「本当にね。このトロの輝き! ママは先にこれ頂いちゃうわね!」
アズサは迷わず大トロを頬張り、「んーっ!」と至福の表情を浮かべる。
一華も大好きな穴子に手を伸ばそうとしたその時、ふと気になってアズサに小声で尋ねた。
「ママ、私の寿司、ちゃんとサビ抜きになってるよね?」
アズサはトロを食べながら答える。
「もちろんよ。一華はワサビ苦手だもんね。シン君のは普通にしておいたわ。」
「あっ、シンはお寿司とか、人間界の食べ物で苦手なものある?」
一華の問いに、シンは寿司折のネタを静かに見つめながら答えた。
「特にない。食べられるものなら基本何でも食べる。身体のための栄養を摂取することが目的だ。」
「まあ、ストイックね。でも、せっかく人間界に来たんだから、楽しんでいいのよ。」
アズサの言葉を聞いたシンは、ワサビ入りのマグロの赤身を迷わず一気に口に放り込んだ。
――一瞬の静寂。
シンの瞳孔がわずかに開き、その顔の血の気がサッと引いていく。
咀嚼がピタリと止まり、彼は全身の魔力をコントロールしようと、かすかに体を震わせた。声すらない。ただ、鼻から細く息を吐き出すのみだった。
「……っ!」
「シン! 大丈夫!? 魔力暴走しそう!?」
一華が慌てて立ち上がると、数秒後、シンはかすかな呼吸を再開し、涙目になりながらも気力でそれを完食した。シンの端正な頬には、一筋の美しい涙が伝っていた。
「……大丈夫だ。魔力経路の暴走ではない。これは……脳と鼻腔への直接的な攻撃だ。魔界の鍛錬で肉体の痛みには慣れているが、これは痛みとは違う!」
「それがワサビだよ! 涙が出るくらい辛いの!」
アズサ様は腹を抱えて大笑いした。
「あらあら! シン君まで泣かされるなんて!」
シンは涙を拭い、あくまで真面目な顔を崩さずに言った。
「極めて危険な物質だと認識しました。これを、なぜ人間は進んで摂取するのでしょうか。」
シンのセリフに、私たちの笑いは止まらない。
「辛いのが好きなんだって! シンも次はサビ抜きにする?」
「いや、人間界で食べられているものに慣れることも鍛錬だ。」
「じゃあ、全部食べられるんだね。私、ウニとイクラ苦手なんだけど、代わりに食べてくれない?」
一華はちゃっかりと苦手なネタをシンに差し出す。
「承知した。」
「サビ抜きだからねぇ」
「あら、いいわねぇ、まるで新婚さんみたいじゃない。」
クスリと笑うアズサの一言に、私は口にエビを放り込みながら、顔を真っ赤にして反論した。
「マ、ママ! 違うよ! 捨てたらもったいないからだよ!」
(ママのそういう発言が、一番の魔力暴走リスクだーっ!)
心の中で盛大にツッコミを入れる一華をよそに、シンは「その通りです。食材のムダを回避したまでです」と真顔で返し、場をさらに和ませるのだった。
「このマグロ、すっごく美味しい! でも、魔界ってどんな食べ物があるの? ママ、パパのところに行ったら、ずっと闇鍋みたいなものばっかり食べるの?」
「闇鍋って! パパは魔王様なんだから、そんなことはないわよ。ただ、魔界の食材は生命力が強すぎるから、調理には特別な魔力が必要なの。パパの城では、専属の調理師が安全に食べられるようにしてくれるわ。」
アズサがイカをつまみながら優しく微笑む。シンも箸を置き、静かに言葉を継いだ。
「魔界では、素材の魔力が強いため、味付けよりも食材のエネルギーバランスが重視されます。このような繊細な人間界の魚の味を理解できる調理師は、魔界には数少ないでしょう。」
「じゃあ、ママはパパに、このお寿司の美味しさを教えてあげなきゃね!」
アズサは目を閉じ、名残惜しそうに最後の一貫を味わった。
「ええ、そうするわ。パパと二人で、人間界の美味しいものを再現してみるのも楽しいかもしれないわね。」
食卓は穏やかな満足感に包まれたが、一華の心には少しずつ寂しさが忍び込んでくる。
「ママの料理を食べたかったけど、仕方ないよね。ママの特製ハンバーグ、しばらく食べられないのか……。」
「もう会えないわけじゃないから、少しの間の我慢よ。」
「ねぇ、ママはいつ魔界に行くの?」
「そうね。もう遅いから、明日もう少し荷解きを手伝って、生活できるようにしてからにしようかしら。」
「そうだよ! 今日は私と一緒に豪華な魔界製ベッドで寝ようよ! 最初で最後の親娘水入らずだよ!」
アズサは優しく目を細めた。
「ふふ、そうね。最後の親娘水入らずね。」
シンはワサビの洗礼に涙を流しながらも、その会話を聞き漏らさず、ただ黙って見守っていた。一華の魔力暴走を抑える護衛として、彼女が今夜熟睡し、翌朝元気に目覚めてくれることが最優先事項なのだから。
夕食後、アズサが一華に月華草茶を差し出した。
「毎日、自分で煎じて飲むのよ。」
「うん……」
一華はどこか寂しげにカップを受け取った。
その夜、一華とアズサは、純白で豪華絢爛な魔界製の特注ベッドで並んで眠りについた。久しぶりの母との添い寝、魔王の娘としての新生活への緊張、そして引っ越しの疲労が重なり、一華はすぐに深い眠りに落ちていった。
◇◆◇
翌朝、シンは早朝から動き出し、アズサと協力して最低限の生活ができるよう荷解きを進めていた。
新しいベッドの寝心地が良すぎたせいか、一華は朝食の時間になってようやく目を覚ました。
テーブルには、アズサが手早く作ったトーストとオムレツが並んでいる。
一華はトーストをかじりながら、驚いたように言った。
「ママ、もうこんなに片付いてる! ありがとう!」
「すぐに生活できるようにしておかないとね。シン君がいてくれて助かったわ。」
朝食を終え、食器を片付けたあと――。
アズサは静かに一華とシンに向き直った。その空気を感じ取り、一華の表情がスッと曇る。
「さて、そろそろパパの元へ行く時間ね。」
「そうだよね……。」
アズサは立ち上がり、一華を強く、そして優しく抱きしめた。
「一華、寂しくなったら、いつでもペンダントに話しかけなさい。魔界に直接繋がるわけじゃないけど、ママはいつでもあなたのことを思ってるわ。」
「うん……。ママ、一人で私を育ててくれてありがとう。魔王のパパと、幸せになってね!」
「ありがとう、一華。」
続いて、アズサはシンに向き合う。
「シン君、一華のこと、よろしくお願いしますね。何かあったら、すぐにハオ様に連絡して。」
「承知いたしました。命に変えても一華をお守りいたします。アズサ様のご多幸をお祈り申し上げます。」
アズサは涙ぐむ代わりに、いつもの明るい笑顔を一華とシンに向けた。
「それじゃあ、私はこれで。」
アズサはリビングを出て、玄関へと向かった。
二人はその後を追う。玄関のドアの前で、アズサは大きく深呼吸をした。
その瞬間――アズサの周囲の空気が、一瞬で桃色に輝いた。
一華が一昨夜黒猫に変身した時の青白い光とは違う。優しく温かな魔力の波動。人間の姿を維持するために抑え込んでいた魔界人の血の力が、今、静かに解放されていく。
一華とシンが見つめる中、アズサの輪郭がゆっくりとぼやけていく。桃色の光が強くなるにつれて、彼女の姿は溶けるように薄れ、数秒後、そこに残されたのは静かな空間だけであった。
アズサの気配が完全に消えた廊下を見つめ、一華はぐっと唇を噛みしめ、小さな声で呟いた。
「……行っちゃった。」
シンは静かに一華の肩に手を置いた。
「安心しろ。アズサ様は魔王様の魔力で守られており、安全に転移された。」
胸を締め付けるような現実を飲み込みながら、私はぐっと大きく息を吸い込んだ。そして、顔を上げる。くよくよしてちゃ、ママに笑われちゃうもんね。
「よし! じゃあ、シン! 私の女子高生ライフ、そして、魔王の娘としての訓練を始めるよ! まずは、この残りのダンボールの山をどうにかしなきゃね!」
「承知した。全ては一華のお心のままに。」
こうして、魔王の娘と次期魔王候補の、奇妙で波乱に満ちた新生活が、静かに、そして力強く幕を開けたのだった。




