第6話 最後の晩餐
引っ越し業者による荷物の運び込みと、シンによる魔界製家具の転移が完了し、新居での生活の土台が整った。
残るは、ダンボールの山を崩して生活できるようにする、地道な荷ほどきだけだ。
一華、アズサ、シンの3人は、疲労困憊していた。
「さて、お疲れ様。引っ越し完了ね! でも、もう料理する気力も体力も残ってないわ。」
アズサも一華も料理をする体力も気力も残っていない。
「うん、私もクッタクタだよ。食材もないしね。」
シンは部屋の隅に積まれたダンボールを眺めながら
「無理に料理する必要はありません。栄養補給を優先すべきです。」
「じゃあ、今日だけは豪勢に! ママ、特上のお寿司頼もうよ!」
一華はここぞとばかりに出前を強請る。
「今日が人間界最後の晩餐になるんだものね。いいわ、出し惜しみしないわよ!」
アズサは早速、スマートフォンで高級寿司店に出前を注文した。
引っ越し作業の疲労から解放された3人は、リビングのローテーブルを囲んでいた。
しばらくして、注文していた高級寿司店の豪華な折詰が到着した。
木箱の蓋が開けられると、酢飯やネタの芳醇な香りが部屋に広がり、疲れ果てた一華とアズサの食欲を刺激した。
折詰には、トロ、ウニ、イクラ、アワビといった高級なネタが宝石のように並べられていた。一華とアズサは箸を手に取り、興奮気味に声を上げた。
「うわーっ! やっぱり高級寿司は違うね! 見てるだけで幸せ!」
「本当にね。このトロの輝き! ママは先にこれ頂いちゃうわね!」
アズサは迷わず大トロを頬張り、「んーっ!」と満足そうな声を上げた。
一華も好きな穴子に手を伸ばそうとした、その時、小声でアズサに尋ねる。
「ママ、私の寿司、ちゃんとサビ抜きになってるよね?」
アズサはトロを食べながら答える。
「もちろんよ。一華はワサビ苦手だもんね。シン君のは普通にしておいたわ。」
「あっ、シンは寿司とか、人間界の食べ物で苦手なものある?」
シンは、寿司折のネタを静かに見つめながら答える。
「特にないな。食べれるものなら基本何でも食べる。身体のための栄養を摂取することが目的だ。」
「まあ、ストイックね。でも、せっかく人間界に来たんだから、楽しんでいいのよ。」
シンは、ワサビ入りのマグロの赤身を、一気に口に入れた。
一瞬の静寂の後、シンの瞳孔がわずかに開き、顔の血の気がサッと引いた。彼は咀嚼を止め、全身の魔力をコントロールしようと、かすかに震える。
シンは声にならず、鼻から細く息を吐き出す。
「……っ!」
シンの異変に気づき、慌てる一華。
「シン! 大丈夫!? 魔力暴走しそう!?」
数秒後、ようやく呼吸を再開し、涙目になりながらも完食する。シンの頬には一筋の涙が流れた。
「大丈夫だ。魔力経路の暴走ではない。これは……脳と鼻腔への直接的な攻撃だ。魔界の鍛錬で、肉体の痛みには慣れているが、これは、痛みとは違う!」
「それがワサビだよ! 涙が出るくらい辛いの! 私、あれが苦手だからサビ抜きにしてもらったんだ。」
アズサは手を叩いて大笑いする。
「あらあら! シン君まで泣かされるなんて!」
シンは涙を拭いながら、真面目な顔で
「極めて危険な物質だと認識しました。これを、なぜ人は進んで摂取するのでしょうか。」
一華は笑いながら
「辛いのが好きなんだって! シンもサビ抜きにする?」
「いや、人間界で食べられているものに慣れることも鍛錬だ。」
「じゃあ、全部食べられるんだね。私、ウニとイクラ苦手なの、代わりに食べてくれない?」
一華は苦手な寿司をシンに食べてもらうことにした。
「了解した。」
一華は「サビ抜きだからねぇ」とウニとイクラをシンのお皿に移した。
「あら、いいわねぇ、まるで新婚さんみたいじゃない。」
一華は、口にエビを放り込み、少し顔を赤くしながら反論する。
「マ、ママ! 違うよ! 捨てたらもったいないからだよ!」
(ママのそういう発言が一番の魔力暴走リスクだー!)焦る一華。
「その通りです。食材のムダを回避したまでです。」
シンの真面目すぎる返答に、アズサは笑い、一華は更に赤面した。
「このマグロ、すっごく美味しい! でも、魔界ってどんな食べ物があるの? ママ、パパのところに行ったら、ずっと闇鍋みたいなものばっかり食べるの?」
アズサはイカを食べながら答える。
「闇鍋って! パパは魔王様なんだから、そんなことはないわよ。ただ、魔界の食材は生命力が強すぎるから、調理には特別な魔力が必要なの。パパの城では、専属の調理師が安全に食べられるようにしてくれるわ。」
「魔界では、素材の魔力が強いため、味付けよりも食材のエネルギーバランスが重視されます。このような繊細な人間界の魚の味を理解できる調理師は、魔界には数少ないでしょう。」
「じゃあ、ママはパパに、この寿司の美味しさを教えてあげなきゃね!」
アズサは目を閉じ、名残惜しそうに寿司を味わった。
「ええ、そうするわ。パパと二人で、人間界の美味しいものを再現してみるのも楽しいかもしれないわね。」
食卓は穏やかな満足感に包まれたが……
「ママの料理を食べたかったけど、仕方ないよね。ママの特製ハンバーグ、しばらく食べられないのか……。」
「もう会えないわけじゃないから、少しの間の我慢よ。」
「ねぇ、ママはいつ魔界に行くの?」
「そうね。もう遅いから、明日もう少し荷解きを手伝って、生活できるようにしてからにしようかしら。」
「そうだよ! 今日は私と一緒に豪華な魔界製ベッドで寝ようよ! 最初で最後の親娘水入らずだよ!」
アズサは目を細めて
「ふふ、そうね。最後の親娘水入らずね。」
シンは、ワサビに涙しながら寿司を食べ、その会話を聞いていたが、何も口を挟まなかった。
一華の魔力暴走を抑える護衛としては、一華が熟睡し、翌朝元気に過ごしてくれることが最優先だからだ。
アズサは一華に月華草茶を差し出した。
「毎日、自分で煎じて飲むのよ。」
「うん……」と寂し気に返事をした。
一華はアズサと二人、純白で豪華絢爛な魔界製の特注ベッドで深い眠りについた。久しぶりの母との添い寝と、魔王の娘としての新生活への興奮、そして引っ越しの疲労が合わさり、一華はすぐに深い眠りについた。
◇◆◇
翌朝、シンは早朝から動き、アズサと協力して最低限の生活ができるよう荷解きを続けた。
一華は、新しいベッドの寝心地の良さもあってか、朝食の時間になってようやく起きてきた。
テーブルには、アズサが手早く作った朝食(トーストとオムレツ)が並べられていた。
一華はトーストをかじりながら感謝する。
「ママ、もうこんなに片付いてる! ありがとう!」
「すぐに生活できるようにしておかないとね。シン君がいてくれて助かったわ。」
朝食を終え、食器を片付けた後、アズサは静かに一華とシンに向き直った。
「さて、そろそろパパの元へ行く時間ね。」
少し寂しそうな一華。
「そうだよね……。」
アズサは、一華を抱きしめた。
「一華、寂しくなったら、いつでもペンダントに話しかけなさい。魔界に繋がるわけじゃないけど、ママはいつでもあなたのことを思ってるわ。」
「うん……。ママ、一人で私を育ててくれてありがとう。魔王のパパと、幸せになってね!」
「ありがとう。」
アズサはシンの方へ向いて
「シン君、一華のこと、よろしくお願いしますね。何かあったら、すぐにハオ様に連絡して。」
「承知いたしました。命に変えても一華をお守りします。アズサ様のご多幸をお祈り申し上げます。」
アズサは、涙ぐむ代わりに、いつものように明るい笑顔を見せた。
「それじゃあ、私はこれで。」
アズサは、一華とシンが待つリビングを出て、玄関に向かった。
玄関ドアの前で、アズサは深呼吸をした。そして、彼女の周囲の空気が一瞬桃色に輝いた。それは、一華が一昨夜黒猫に変身した時の青白い光とは違う、優しく、温かい魔力の波動だった。アズサが人間の姿を維持するために抑えていた魔界人の血の力が、今、解放されようとしていた。一華とシンが見つめる中、アズサは徐々に姿が消えていった。桃色の光が強くなるにつれて、彼女の輪郭はぼやけ、数秒後には、彼女が立っていた場所には何も残らなかった。
アズサが完全に姿を消した後、一華は玄関の閉じたドアを見つめたまま、小さな声で言った。
「……行っちゃった。」
シンは静かに
「安心しろ。アズサ様は魔王様の魔力で守られており、安全に転移された。」
一華は、急に現実が押し寄せてきたように、ぐっと唇を噛んだ。しかし、すぐに前を向いた。
「よし! じゃあ、シン! 私の女子高生ライフ、そして、魔王の娘としての訓練を始めるよ! まずは、このダンボールの山をどうにかしなきゃね!」
「承知した。全ては一華のお心のままに。」
こうして、魔王の娘と次期魔王候補の、奇妙で波乱に満ちた新生活が、静かに幕を開けたのだった。




