第5話 引越作業
引っ越し当日、シンは早起きし手際よく箱に詰めていた。アズサはキッチンで一華の朝食を作りながら、その様子を見ていた。
一華が着替えてリビングに下りてくると、シンは既に最後のダンボールの封を閉じているところだった。
「おはよ! シン、もうこんなに進んでるんだ!」
「おはよう。魔界での移動手段は、このような箱詰めは不要だが、人間界の形式に合わせている。」
シンは、全ての荷物が詰まったダンボール箱が床に綺麗に積み上がっているのを見て、フッと一息ついた。そして、魔力を解放し始めた。
シンの周囲の空気が、かすかに青白い光を帯び始めた。彼は積み上がった全てのダンボール箱に手をかざし、目を閉じる。
シンは小声で言う。
「少々乱暴になるが、時間の節約のため……。」
次の瞬間、シンの全身から一気に魔力が噴き出し、数十個のダンボール箱が宙に浮き上がった。それらは音もなく、フワフワと壁から少し離れた空中に静止している。
「わあ! すごい! これが魔力での引っ越し!?」
一華は興奮して目を輝かせた。しかし、キッチンから見ていたアズサが、すかさず厳しい声を上げる。
「シン君! 何してるの!?」
アズサはフライパンを置き、急いでシンの元へやってきた。
シンは、段ボール箱を浮かせたまま、きょとんとした顔をしている。
「アズサ様。荷物の運搬です。この後、魔力で転移させれば、あっという間に新居へ移動できます。人間界の引っ越し業者を待つ必要はありませんし、肉体的な疲労もありません。」
「ダメよ、そんなことしたら! 一昨日の話、聞いてなかったの?」
困惑するシン。
「一昨日は『大型家具などは魔界の力で処理させてもらう』と 承諾いただきましたが……?」
「大型家具は、人間界の業者では対応できない、魔界仕様のベッドなどの規格外のもののことよ! こういうダンボールや生活用品は、普通の引っ越し業者を使うの!」
アズサは、宙に浮いたダンボールの一つを指差した。
「いい? 私が一昨日言ったでしょ? 『人間界のルールに従う』って。あなたの魔力による移動は、瞬時に空間を歪ませるの。この住宅街で、そんな魔力の痕跡を残したらどうなるのと思うの?」
シンはすぐに魔力を収束させ、ダンボールを静かに床に下ろす。
「……っ。ごもっともです。私の認識が甘かった。魔界での『移動』の習慣に引きずられました。」
シンは、真剣に頭を下げた。一華も、アズサの剣幕に少し驚いて、静かに見守っている。
「いい? 一華を人間界に残すっていうのは、徹底的に『普通』を装うってことなの。突然荷物が消えたら、ご近所さんはどう思う? 監視カメラに不審な光の渦が映ったらどうなる?」
「了解しました。今すぐ人間界の運送業者を手配します。」
シンは、即座にスマートフォンを取り出し、テキパキと業者への連絡を始めた。その手際の良さと切り替えの早さは、さすが次期魔王候補といったところだ。
一華は小声でこっそりとアズサに耳打ちする。
「ママ、さすが! でも、シンがすごい真面目だから、なんか叱られてるみたいで可哀想になっちゃった。」
アズサは思わず、一華の額を軽く叩く。
「甘いこと言わないの! 一華のためなんだからね。シン君には人間界の常識を徹底的に学んでもらわないと困るわ。」
シンは電話を終えると、再びアズサに向き直った。
「アズサ様。お昼過ぎには業者が到着します。ご迷惑をおかけしました。」
「いいのよ。初めてのことなんだから。じゃあ、それまでの間に、シン君は人間界の運搬方法を学ぶこと。荷物は、二階から階段を使って、人力で運び出しなさい。それが今日の学習よ。」
シンは少し困ったような、しかし真摯な表情で答える。
「……承知しました。力の加減には細心の注意を払います。」
「引っ越し業者見つかって良かったね。」
一華はシンを慰めるように寄り添った。
「あぁ、すぐ来てくれるなんてラッキーだったよ。」
シンは一華の声掛けにホッと胸をなでおろした。
こうして、魔力で一瞬にして引っ越しを済ませようとしたシンの計画は、人間界の母であるアズサの厳しい指導により、あっけなく阻止されたのだった。
◇◆◇
シンが手配した引っ越し業者は、予定通り昼過ぎに到着した。一華の家は住宅街にあり、ごく普通の戸建てだ。
「お世話になります!」という元気な声とともに、作業着姿の屈強な男性作業員2人が玄関に入ってきた。
作業員Aが挨拶する。
「お客様、積み込みを始めさせていただきます!」
作業員が手際よく梱包されたダンボールを運び出そうとするのを見て、シンはすぐに作業に加わった。アズサに「人間界の運搬方法を学ぶ」よう命じられていたからだ。
「私も手伝います。」
シンは、さきほど魔力で宙に浮かせていたダンボールに手を伸ばす。彼は魔力を一切使わず、純粋な肉体の力だけでダンボールを持ち上げた。
シンを見て驚く一華。
「うわっ、シン、すごい力! あれ重いよ!」
アズサは苦笑いしながら小声で言う。
「さすが魔界の血筋ね。力だけは人間離れしてるわ。」
シンが持ち上げたのは、一華の重い教科書や辞書が詰まった箱だ。普通の高校生ならヒーヒー言う重さだが、シンは表情一つ変えずに、軽々と玄関を出て、トラックまで運び入れた。
業者Bはシンの背中を見ながら、業者Aに小声で
「息子さんかなぁ? 力持ちだねぇ。高校生には見えないゴツさだ。」
「さあ? 助かるけどね。」業者Aは苦笑いしている。
シンは、作業員が運ぶよりも早く荷物を運び出し、作業員たちを驚かせた。
アズサは時折、「シン君、無理しないでね。」「それは業者さんの仕事よ。」と声をかけるが、シンは真面目に「学習です。」と答え、休憩も取らずに作業を続けた。
1時間ほどで、全ての荷物の積み込みが完了した。
業者Aは作業終了と移動を告げた。
「お疲れ様です! これで全て積み込み完了です! それでは、新しいご住所に向かいます!」
3人はアズサが運転する車で新居のマンションへと移動する。
◇◆◇
一華とシンの新居は、高校からも駅からも適度に近い、セキュリティのしっかりしたマンションの5階だった。
車が到着すると、シンはすぐに飛び降りて玄関に向かい、作業員たちを待った。
一華はマンションを見上げた。
「ここから始まるんだね、私の新しい女子高生ライフ!……って、魔王の娘だけど。」
「まったくね。シン君、鍵は私が持ってるから開けてくるわ。一華とトラックを待ってあげてね。」
アズサは部屋の鍵を開けに部屋まで上がる。
引っ越し業者のトラックを待っている間、一華はシンに尋ねた。
「シン、さっき魔力で荷物を転移させれば一瞬だって言ってたけど、どういう仕組みなの? 」
「空間魔術の応用だ。前の家と新居の空間座標を一時的に接続し、物体を移動させる。人間界の物理法則を無視した動きのため、微細な魔力の痕跡が残る。」
「ふーん。じゃあ、大型家具は今から魔力でやるの?」
「あぁ、業者が帰ったら魔界から転移させる。ただし、一華は絶対に部屋から出ないように。魔力感知を妨げる結界を張る。」
「えぇー、見たーい。」
トラックが到着、降りてきた作業員と一緒に部屋まで上がる一華とシン。
室内とエレベーターの動線に保護材等を設置し、荷物の運搬作業が始まる。
作業員たちがエレベーターを降りてくるのが見えた。
「運び込みが始まるわよ! シン君、エレベーター係をお願い!」
アズサは指示を出す。
新居に着いた荷物は、作業員とシンの迅速な動きで次々と運び込まれていった。
一華とアズサは、部屋の中で指示役を務める。
一華はダンボールの文字を指さして
「この『書籍』って書いてある箱は、あっちの部屋! 私の勉強部屋ね。」
「承知しました!」業者Bは、シンに目で合図する。
シンは一華の部屋に運び入れながら小声で説明する。
一華の部屋はいわゆる夫婦の寝室ぐらいで子供部屋としては広い大きさだ。
「一華、この部屋は『勉強部屋』という設定だが、 非常時の結界維持室でもある。この部屋の窓は、パパが特別に魔力感知を遮断する加工を施してある。」
「パパ、いつの間に……。」
「シン君、こっちのキッチン用品はキッチンカウンターの上に置いてちょうだい。一華、あなたはちゃんとキッチンとリビングに片づけた物の位置覚えておくのよ。明日から2人で生活するんだから。」
「分かってるってば!」
一華はキッチンを見ながら「料理、頑張って覚えないとな……。」と呟く。
全てのダンボールが運び込まれ、業者が帰り支度を始めた。
「お客様、これで全て搬入完了です! 重い荷物運びを手伝っていただいたおかげで、大変スムーズでした! ありがとうございました!」
業者Aの挨拶と同時に業者Bも一礼した。
シンも一礼してお礼を言った。
「こちらこそ、急な依頼にありがとうございました。」
引っ越し当日の連絡で引き受けてもらえたことに深く感謝した。
引っ越し業者がトラックとともに去り、マンションの廊下が静寂を取り戻した。
◇◆◇
残りは、シンが魔力で運び込むと宣言した、一華とシンの魔界製の家具だけだ。シンはまず、一華とアズサをリビングのソファに座らせた。
「一華、アズサ様。今から転移を行います。転移中は周囲の結界を最大に強化します。決してリビングから出ないでください。」
シンはそう言い残すと、一華の部屋全体を結界で包み込んだ。空気が一瞬重くなるような感覚が、一華の肌をピリッと刺激する。
シンの意識は遙か遠くの魔界へと繋がった。
シンは両手を窓に向けて伸ばし、低く、しかし力強い声で呪文を唱え始めた。
「**************」
呪文を唱えた瞬間、窓全体が、まるで水面のようにゆらゆらと揺らぎ始め、徐々に漆黒の渦へと変化していく。渦の中心は光を完全に吸収し、まるでブラックホールのように見える。
「ガタン……!」
突然、漆黒の渦の中から、キングサイズの豪華なベッドが、音もなく滑り出てきた。
そのベッドは、純白で艶のある木材でできた、いわゆるお姫様ベッドで、わずかに紫がかった光沢を放っている。
ヘッドボードには、月の満ち欠けを表すような複雑な銀の装飾が施され、中央には一華が持つペンダントと同じ深い青色の魔宝石が埋め込まれていた。
続いて、魔界の資料室と連動している転移式本棚が空間から姿を現した。
転移が完了した後、シンは結界を収束させ、リビングに戻った。
「転移完了しました。これで、一華の生活空間は整いました。一華のベッドは、叔父上が一華への愛情を込めて特別に作ったものです。また、本棚は魔界の資料室と連動しています。」
その顔には、極度の魔力集中によるわずかな疲労の色が見て取れたが、すぐに引き締まった表情に戻った。
一華は、リビングから飛び出し、自分の勉強部屋へ駆け込んだ。壁一面を埋め尽くす本棚の圧倒感と、部屋の中心に鎮座する豪華絢爛なベッドに、言葉を失う。
ベッドに飛び乗る一華。
「わぁ! ふかふか!これなら黒猫になっても、プリンセス気分でいられるかも!」
一華の豪華なベッドが運び込まれ、その興奮が冷めないうちに、今度はシンが使用する部屋の家具の転移が始まった。
シンの部屋は、一華の部屋とは廊下を挟んで反対側に位置する、一般的な大きさの洋室だ。一華とアズサは、シンに促されて再びリビングで待機していた
シンの部屋全体を結界で包み込んだ後、空気が一瞬重くなるような感覚が、一華の肌をピリッと刺激する。
シンの意識は遙か遠くの魔界へと繋がった。
先ほどと同じく、両手を窓に向け、低く、しかし力強い声で呪文を唱え始めた。
「**************」
呪文を唱えた瞬間、窓全体が、まるで水面のようにゆらゆらと揺らぎ始め、徐々に漆黒の渦へと変化していく。渦の中心は光を完全に吸収し、まるでブラックホールのように見える。
「ガタン……!」
その渦から最初に現れたのは、一華の純白の豪奢なベッドとは対照的な、漆黒のベッドだった。
セミダブルサイズ程度の艶消しの漆黒の木製で、無駄を削ぎ落としたシンプルなデザインで、機能性を重視していることが一目でわかる。
さらに続けて、一枚板の勉強机と、シンプルな引き出しが出現した。
厚く重い黒曜石のような素材で、表面には文字通り何もない。集中して学習・執務に専念するためのデザインだ。
転移した瞬間、机の表面にはごく微細な魔力の波紋が広がり、すぐに消えた。これは、シンの魔力による自己結界機能が組み込まれていることを示していた。
家具は、音もなく、自室の指定された位置に整然と配置されていった。まるで、最初からそこに置かれていたかのように自然だ。
一華は、リビングのドア越しに耳を澄ませている。
「あれ? さっきより静かだね。シンのベッドって、結構シンプルなんだ。」
「そうね。彼は護衛であり、次期魔王として自己鍛錬が最優先。絢爛豪華なものは必要ないのね。」
シンは自室から戻ってくると、リビングの結界を解いた。
「転移完了しました。私の部屋の家具は、人間界での生活に支障のないよう、すべて自己修復と魔力遮断の術式が組み込まれています。」
「お疲れ様。シンの部屋も見に行っていい?」
「どうぞ。ただし、触れても何も起こらない。学習のための環境だ。」
静かに言うシン。
一華がシンの部屋に入ると、そこには飾り気のない、しかし最高品質であることがわかる家具が、完璧に配置されていた。
一華の部屋が「プリンセスの城」だとすれば、シンの部屋は「王位継承者の鍛錬場」といった趣だ。
一華はシンの机にそっと触れてみたが、冷たい石のような感触があるだけで、何も特別なことは起こらなかった。
「本当にシンプルだね。でも、なんかシンっぽい。」
こうして、二人の魔界仕様の家具は無事転移され、人間界での奇妙な同居生活の舞台が整ったのだった。




