第4話 黒猫再来
引っ越し前日、朝から続いた箱詰め作業は、夕食の時間にはなんとか目処がついていた。
昨日、月を見なかったことで『黒猫化』は回避されたが、一華の中には、自分の魔力を試し、コントロールしたいという強い衝動が渦巻いていた。
夕食のテーブル、お皿のハンバーグを見つめながら、一華は思い切って口を開いた。
「ママ、シン。昨日は黒猫に変身しなかったけど……結界をしたまま月を見て、私の力を試してみたい。今のままじゃ、引っ越し先でもずっと窓の外が気になっちゃうよー。」
真剣な響きを帯びた一華の決意に、シンは箸を止め、キリッとした表情になる。
「……そうだな。いつまでも月を避けて生きるわけにはいかないし、何より、新しい街で制御できないままだともっと危険だ。」
「そうね……。家の中でこそ、今のうちに試しておくべきだわよね。」
アズサは不安をぐっと飲み込み、愛娘の安全を最優先に頷いた。
食後の片付けを終えると、一華はリビングの大きな窓の前に立った。シンとアズサが、息を呑んで見守っている。
(落ち着け、私。結界、結界……っ!)
体内の魔力を一点に集中させながら、一華は目を閉じた。窓のすぐそばに立ったシンが、緊張に満ちた声をかける。
「準備はいいか? 窓、開けるぞ。」
目を閉じたまま答える一華。
「うん……開けて。」
シンが鍵を開け、窓を大きく押し開けた瞬間――。
花冷えの夜の冷気がリビングのカーテンを激しく揺らし、一斉に流れ込んできた。それに乗じるように、夜空に皓々と輝く、まだ十分に丸みを帯びた月の冷たい光が室内に鋭く差し込む。
一華はゆっくりと目を開け、夜空に浮かぶ月を直視した。
(――いける! まだ大丈夫……っ!)
だが。
月の光を浴びた瞬間、全身を猛烈な電流が走り抜け、視界が急激に低くなっていく。
ぽふっ、と小さな気配が床に落ちた。小さな黒猫仁華が誕生した。
シンはすぐさま窓を閉めた。
完全な満月ではなかったため意識は保たれていたが、視線の先にあるのはフローリングの木目だけ。世界は異質な色と匂いに満ちあふれていた。
「にゃにゃ~ん……(は〜、まだ駄目だったにゃん。)」
自分の意思とは裏腹に、勝手に口から零れ出る猫なで声。それ以上に厄介だったのは、過敏すぎる五感だった。
わずかな室温の変化でヒゲがピクリと震え、足の裏からダイレクトに伝わる床の冷たさと固さ。平衡感覚が定まらず、四つんばいの体勢のまま、仁華はふらふらと足元をよろめかせた。
アズサが慌ててしゃがみ込み、その背中を優しく撫でる。
「ペンダントに手をかざすと、人間に戻るかしら。」
「すぅー、にゃー、……(すぅー、はぁー……)」
仁華はペンダントに前足を乗せ、必死に呼吸を繰り返す。だが、一昨日浴びた満月の強大な呪縛は、今の彼女の小さな魔力などあざ笑うかのように、体内の奥底でドクドクと黒い熱を渦巻かせ続けていた。
(嘘……! どうして戻れないの? このまま猫の姿のままだったら、新しい学校生活はどうなるの……っ!)
焦燥感と無力感が一気に押し寄せ、仁華はパタパタと苛立ちまぎれに尻尾を床に叩きつけた。
「にゃにゃっ……(ペンダントの力すら撥ね返すなんて、満月の魔力はどんだけ恐ろしいにゃんっ!)」
アズサが、隣に立つシンに素早く目配せをする。
「シン君、月華草のお茶を煎じてくるわ!」
「アズサ様、お待ちください。月華草はそのままでは微弱ですが、人間界の月光、特に魔界の月と同じ波動を持つ満月の光を浴びたときに、魔力が最大になりますが、完全な満月の光ではなくとも私の魔力同調で波動を増幅させます。」
シンは再び窓を開け、小さな月華草の木箱の蓋を開けた。吹き込む冷たい夜風の中、彼は夜空に向けて木箱を高くかざし、ゆっくりと深く息を吸い込んで目を閉じる。
――その瞬間。
シンの背中から、青白い光のオーラがカッと力強く広がった。ハオの冷徹な魔力とは異なり、肌を優しく包み込むような、どこか暖かく、じんわりと心を満たす優しい光。
「ダー・ポテンティアム・ヘルバエ・ルーナエ」
低く響く魔界語の呪文とともに、シンが茶葉の上にそっと手をかざす。
数秒前まで乾ききっていたはずの月華草は、シンの魔力同調によってまるで今まさに摘み取られたかのような圧倒的な生命力を取り戻し、鮮やかな銀色の輝きを放ち始めた。
「すごい……! これが、シン君の魔力なのね……!」
アズサは、初めて目の当たりにする魔王族の圧倒的な力に、思わず息を呑んだ。
黒猫の姿でちょこんと座っていた仁華も、パチパチと目を丸くして小さな尻尾を揺らす。
「にゃ~(綺麗な光……っ!)」
額にうっすらと汗を浮かべたシンは、静かに呼吸を整えると、活性化した月華草の木箱をアズサへと手渡した。
アズサがキッチンで手際よくお茶を煎じ、ほどよく冷ましたそれを小さなお皿に入れて仁華の前に差し出す。
仁華は猫として初めて、お皿から液体を舌で舐め取るという不慣れな動作に戸惑いつつも、早く人間に戻りたい一心で、ぺろぺろと必死に飲み干した。
喉を通った瞬間、苦みの奥から広がる清涼感が、体内で暴れていた冷たい澱のような魔力をスーッと氷解させていく。
飲み終えてから、ペンダントに前足を乗せて再び深呼吸する。
「すぅー、にゃー、……(すぅー、はぁー……)」
ふわふわとした優しい光に包まれ、ようやく元の女子高生の姿に戻った一華は、その場にぐったりと崩れ落ちた。フローリングの冷たさが、汗ばんだ体に心地よい。
「はぁ……っ、はぁ……。自力じゃ、全然駄目だった……。」
「ふふ、黒猫仁華になると、語尾が猫語になっちゃうんだもの。可愛いわねぇ。」
アズサは微笑みながら、娘の予想外の変身姿への安堵を口にする。シンもつられて優しく目を細めたが、当の本人は恥ずかしさのあまり、顔を真っ赤にして床に突っ伏した。
「もっと月華草茶を飲んで、魔力が蓄積していけば、いつか自力でもコントロールできるようになるさ。」
(明日には引っ越しを控えているというのに、自分の力すらコントロールできないままでは、一華がいつまた危険な目に遭うか分からない……)
だが、ここで折れるわけにはいかない。一華はぐっと顔を上げた。その瞳には、恐怖を乗り越えようとする強い意志が宿っていた。
「ねえ、シン。さっき、私の魔力の補助はしてなかったよね?」
「あぁ。一華の魔力だけで、今の実力を試す必要があったからな。」
一華の瞳が、キリリと輝きを増す。
「じゃあ……シンが魔力の補助をしてくれたら、どれだけ強い結界が張れるか試せるんじゃないかな? 最強の魔王族であるシンが守ってくれれば、完璧なはず!」
一華のまっすぐな提案に、シンは少しだけ目を丸くしたが、すぐに頼もしい笑みを浮かべて頷いた。
「そうだな。昨日は月を見てないから大丈夫だったが。月を見た時の力は、二人での結界の強度を試してみないとダメだな。」
「ママ、もう一回窓開けて!」
一華は再び魔力の結界を意識し、精神を研ぎ澄ます。
それと同時にシンは、一華が展開した結界の外側――わずか十センチの距離に、圧倒的で強大な魔力をもって、二重の重層結界をピタリと重ね合わせた。
アズサが、大きく息を吸い込んで窓の取っ手に手をかける。
「いい……? 開けるわよっ!」
窓が全開になり、再び月の光がリビングへと差し込む。
一華は目を開けて空を見上げ、皓々と輝く月を直視した。
体内に熱がふつふつと湧き上がるのを感じるが、外側にあるシンの鉄壁の結界が、その猛威を完全に押しとどめ、一歩も通さない。
「……っ、大丈夫みたい! 全然平気!」
興奮と安堵に満ちた一華の声が弾む。
「閉めるわよ!」
アズサがすぐに窓をバタンと閉め、鍵をかけた。
シンは重層結界をスッと解除し、肩の力を抜いて深く息を吐き出す。
「ふー……」
一華の暴走を完璧に抑え込んだという確かな手応えに、胸のつかえが少し降りた。
「シンのおかげで完璧だった! ありがとう、シン!」
嬉しさのあまり、一華はシンの両手を掴むと、勢いよく上下にブンブンと振った。
突然のスキンシップにシンは顔をトマトのように真っ赤にしつつも、年上としてカッコいいところを見せようと、必死にポーカーフェイスを維持する。
「お、おう……。これで最悪の事態は回避できるな。」
「ふふ、二人で初めての共同作業ねぇ。シン君、もういっそ結婚して、一華の隣にずっと居てもらわないとね!」
「マッマーッ!? ちょっと何言ってるのっ、まだそんなのわかんないでしょ!」
「あら、婚約者なんだから、いずれは結婚するでしょう?」
アズサは楽しそうに、いともあっさりとトドメの一言を放つ。一華は耳まで真っ赤に染め上げ、パタパタと手を振って大慌てで否定した。
その隣で――シンもまた、耳の先まで赤く染め上げながら、どこか嬉しそうに目を細めていた。
その温かい横顔を見た瞬間、一華の胸に、波打っていた不安がスッと消えていくのが分かった。
(――この人の隣なら、きっと、どこへ行っても大丈夫だ。)
さっきまで背筋を凍らせていた月の光も、シンの大きな背中が作り出す影に守られていると思えば、不思議と頼もしい温かさにさえ思えてくる。
(一緒にいることができれば――今度こそ、一華をずっと守り続けよう。)
慌てふためく一華の横で、シンもまた、これからの日々で彼女の盾となり続けることを、静かに、しかし力強く心に誓ったのだった。




