第3話 仁華誕生
高校入学を控えたある夜、満月を見上げていたら、いつの間にか黒猫に変身してしまっていた一華。
魔界人のパパと人間のママのハーフ(?)らしい。
人間として女子高生ライフを満喫するため、魔界から送り込まれたイケメン護衛はまさかの婚約者。
一緒に高校生活を送ることとなったが……一華は無事に高校を卒業することができるのか……。
白煙と香ばしい肉の匂いが立ち込める焼肉店。春休みの夕食時とあって、店内は家族連れや学生たちの活気で満ちあふれていた。
案内されたのは、他の客の視線から少し奥まったボックス席。
網を挟んで向かい合い、まずは飲み物だけを注文してから、『食べ放題』のコースへと舵を切る。
シンはふとテーブルの端に置かれたおしぼりに視線を落とし、どう使うべきか一瞬だけ迷うように眉をひそめた。
魔界には、布や紙を温めて手拭きにする文化などないのだ。
しかし、すぐに向かいに座るアズサの動きを目撃して学習すると、何食わぬ顔で自身の指先を拭う。
「やった! やっぱり肉は最高だよね! ママもシンも、遠慮しないでどんどん焼いてね!」
トングを握りしめてはしゃぐ一華に、アズサはクスクスと笑いながらツッコミを入れた。
「はいはい。そこは『どんどん食べてね』でしょ。一華は食べるのが早いんだから、焼く専門はシン君にお願いしましょ。」
「承知いたしました。一華、どれから食べたい?」
「えーっと、まずは牛タン! それと、このカルビ、美味しそう!」
シンの手つきは無駄がなく、リクエスト通りに次々と肉がベストな焼き加減で仕上げられていく。
一華が夢中で肉を頬張っているのを見計らい、アズサがふと疑問を口にした。
「シン君、人間界の焼肉はお口に合うかしら? 魔界にも、こういうお肉を食べる習慣はあるの?」
「ええ、とても美味しいです。魔界にも肉はありますが、種類も概念も異なります。人間界のものは魔力の波動が微弱な分、純粋に肉の味がクリアに感じられますね。」
箸をぴたりと止めて、一華が首をかしげる。
「ちょっと待って。波動って何? お肉にも魔力があるの?」
「ある。人間界の生物や食べ物は、魔界のものに比べれば圧倒的に微弱だが、確かな生命活動のエネルギーを持っている。」
「へぇ……。じゃあ、この焼肉を食べたら、私の魔力が急にどうにかなっちゃったりする?」
「心配いらない。むしろ、人間界の食べ物を取り入れることで、君の溢れ出る魔力が程よく中和されている。魔界の濃厚な肉をそのまま食べていたら、今の君では力が暴走していたかもしれない。」
シンは真摯な瞳で一華を見据え、それから少しトーンを落とした。
「それと、一華。もうすぐ新しい生活が始まるが、登校する際は必ず、魔力を完全に遮断する結界を常に張っていてくれ。今の君は、力の制御がまだ未熟だ。」
「結界!? そんなの、どうやるの……?」
「心の中で、自分を薄い膜で覆うようにイメージするだけでいい。今からその基礎を教える。……集中して。」
店内の喧噪をよそに、シンは一華の目をじっと見据え、魔力の流れを制御する手順を静かに説き始めた。一華も真剣な面持ちでそれに聞き入る。
その傍らで、アズサは穏やかな笑みを浮かべながら、シンの手元にある皿へと焼き上がった肉をそっと取り分けてやった。
数分後、深く息を吐き出した一華が、両手で自身の肩を抱くようにして呟いた。
「なんか……全身が、すごく薄い膜に包まれているような感じ。……これで合ってる??」
シンは小さく、しかし深く頷いた。
「あぁ、それで十分だ。学校にいる間はその状態を維持することに慣れてくれ。人間界では、あくまで普通の女子高生で通してもらわねば困る。」
「そうよ、一華は普通の女子高生。で、シン君は頼れる『お兄さん』ね。」
アズサが、これからの戸籍上の設定を念押しするように微笑む。一華はその言葉をきっかけに、先ほどから温めていたアイデアを思い出したように口にした。
「あ、ねえ。ちょっと提案があるんだけど。私、黒猫に変身した時は、『仁華』って名乗るのはどうかな?」
「仁華?」
アズサが小首を傾げる。
「うん。一華の姿から急に猫になって、そのままで『一華』って呼ばれるの、なんか変じゃない? だから、変身中の名前もあったほうが自然かなって。」
「それはいいな。黒猫の仁華、か。」
「人間の『いち』に対して、黒猫の『に』ね。あら、なかなか洒落ているじゃない。」
アズサとシンが顔を見合わせて楽しげに笑う。その空気に釣られたように、一華も「でしょ?」と得意げに笑った。
だが、一華の思考回路は次から次へと別の話題へと跳んでいく。
「あ、それから、シンがお兄ちゃんでいいんだよね?」
「そうだ。」
「しかも、同級生っていう設定だったっけ?」
「あぁ。同級生であり、戸籍上は一つ年上の兄という設定だ。人間界では同じ学年に籍を置く。」
シンが淡々と説明するのを横目に、アズサがふき出した。
「魔界人が、ここまで綿密に人間界の設定を詰めているのって、なんだかシュールで面白いわね。」
「公爵家の後継者が、王族の直系である一華様を護衛するのです。設定にわずかな綻びがあっては困る。特に一華の通う高校は、人間界でも有数の名門だと聞いている。」
「公爵家!? ママ、私ってそんなに偉いの?」
「一華自身の偉さはさておき、パパは魔王よ。その血族なら当然、公爵位に相当するわ。シンは公爵家の次代を担う後継者で、あなたは正真正銘のプリンセスなのよ。」
「プリンセスが焼き肉食べ放題の席で、一心不乱に肉の焼き上がりを待ってるなんて、誰も信じないよねぇ!」
自虐的なツッコミを入れつつも、一華の箸は止まらない。
ふと、アズサは気になっていたことを尋ねた。
「ねえ、シン君。新しく借りたお部屋は、一華が選んだけど、立地場所とかはどう? 気に入った?」
「はい。セキュリティも申し分ありませんし、駅や高校へのアクセスも良好です。生活の基盤としては完璧と言っていいです。ただ……。」
「ただ?」
口いっぱいに肉を頬張りながら、一華が聞き返す。
「同室ではないのだな、と。」
「――っぶ!」
一華は危うく肉を吹き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
「はぁ!? 何言ってるの! いくら婚約者だからって、いきなり同室で寝るわけないでしょ!」
「魔界では、婚約が決まれば絆を深めるために同室で過ごすのが基本だ。それに、万が一の事態で一華の結界が解けた場合、すぐに俺の魔力で保護しなければ危険だ。」
「う、うー……理屈は分かるけど、さすがにプライバシーっていうものがね!? 少なくとも鍵はかけたい!」
アズサが面白がるように口を挟む。
「あら、鍵をかけたところで、魔界人のシン君ならすり抜けられそうだけど?」
シンは真面目な顔のまま、首を横に振った。
「そんな真似をすれば一華を過度に怯えさせることになります。ゆえに、人間界のルールと一華の意思は尊重します。安心してください。ルールは必ず守ります。」
その誠実な返答に、一華はほっと胸を撫で下ろした。
「よし、じゃあ、絶対に勝手に部屋に入らないって約束ね!」
「承知した。その代わり、一華。黒猫の姿に戻った時は、遠慮せずに俺を呼んでくれ。どんな状況であれ、すぐに駆けつける。」
「……うん。ありがとう。」
一華は少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
その後も会話は途切れることなく続き、一華が追加した肉の皿は瞬く間に空になっていった。
◇◆◇
焼き肉店の賑わいを背に、三人は夜風の心地よい通りへと出た。
駐車場へ向かう途中、一華は昨夜の記憶が脳裏をかすめ、無意識に夜空へ向かう視線をパッと逸らす。
「ママ……私、夜空を見ないように足元だけ見て歩くね。」
小さな声で呟く一華の手を、アズサが優しく握り締める。
一華は舗装されたアスファルトだけを見つめながら歩いた。シンの気配は常に右斜め後ろ、いつでも手を伸ばせば届く絶妙な距離感を保っている。
「一華。先ほど教えた結界は、まだ綺麗に維持できているか?」
「うん、意識してる。全身が薄い膜に包まれている感覚……これなら大丈夫よね?」
シンは一瞬だけ一華の横顔に視線を走らせ、微細な魔力の漏れすらないことを確認すると、すぐに前方の警戒へと視線を戻した。
「魔力の漏洩はない。だが、その結界はあくまで外部の干渉を防ぎ、体内の魔力をせき止めるための補助にすぎない。君自身の感情の大きな揺れ――特に強い驚きや興奮は、結界を破るトリガーになり得る。」
「驚きや興奮かぁ……。たしかに昨日は、お月様を見て『おーっ!』って叫んだ瞬間にポンって変わっちゃったもんね。」
アズサが苦笑しながらシンに注文をつける。
「じゃあ、シン君の役割は重要ね。一華が余計なことで驚いたり興奮したりしないよう、常に冷静で平穏な空間をキープしてあげてちょうだい。」
「……努力します。」
やがて目的地である駐車場に到着し、三人は車に乗り込んだ。
エンジンが静かに唸りを上げ、車が夜の道路へと滑り出す。
シンはふと思い出したように口を開いた。
「一華。万が一、俺が物理的に間に合わない事態に備えて、黒猫の形態でも行使できる緊急用の魔術を一つ授けておく。」
「えっ、猫の姿でも魔術なんて使えるの?」
「肉体の形状は変わっても、魔力を巡る回路は君の魂に刻まれている。深く呼吸を繰り返すように体内の魔力を循環させ、そのペンダントに意識を集中させるんだ。」
シンが指し示したのは、一華の胸元で揺れるペンダントだった。一華は言われるがままにそれを手で包み込み、呼吸を整えて集中する。
「その状態で強く意志を込めれば、ごく微弱な魔力の波長が俺の感知網に届く。ただし、この信号は黒猫の形態でしか機能しない。人間界での不用意な魔力発動を避けるための安全装置だ。」
「ふーん……。お守り兼、非常用の発信機ってわけだね。」
アズサが前方を注視したまま、ふと気になることを口にした。
「そういえばシン君、明後日の引っ越し作業だけど……まさか、魔力を使って荷物を一瞬で運び出したりしないでしょうね?」
「ご心配なく。人間界の生活ルールには従います。ただし、大型家具や重量のある荷物の搬出入に関しては、人間の業者では構造上対応しきれない部分があるため、そこだけは魔界の力で処理させてもらいます。」
「えーっ! なんかすごそう! 見てみたいな、魔法の引っ越し!」
シンは一華のその好奇心を即座に、かつ厳格に遮った。
「ダメだ。作業中、一華は必ず自室のなかで結界を張ったまま待機していてくれ。」
「ちぇー……。」
露骨に頬を膨らませて拗ねる一華を、シンは揺るがない眼差しで受け流した。
やがて車は、見慣れた自宅前の静かな通りへと入り込む。
一華はスマートフォンをバッグにしまい、自身の内側を流れる魔力の結界がしっかりと維持されているか、もう一度だけ念入りに確かめた。
「着いたね。……よし、今日も無事に人間の姿のままだよ!」
ハンドルを握りながらアズサが柔らかく微笑む。
「そうね。さあ、明日も朝から準備で忙しくなるんだし、今日は早く休みましょ。」
玄関で靴を脱ぎながら、一華はシンのほうを振り返った。
「シン、今日は一日ありがとう。いろいろ大変だったけど……明日からもよろしくね。」
「こちらこそ。明日は朝から慌ただしくなる。疲労の蓄積はそのまま魔力の制御の乱れに直結するからな。一華、今夜は余計な思考を巡らせず、深く眠るように。」
簡潔でありながらも気遣いに満ちたアドバイスを残し、シンは静かに自身の寝室へと歩き出した。
一華も小さく頷き、自室のドアを開ける。
明後日からは、シンと二人きりの、少し刺激的で奇妙な同居生活が幕を開けるのだ。
ベッドにもぐり込むと、夜の静寂が耳に心地よく響く。窓の外からは、遠くを走る車のエンジン音がかすかに通り過ぎていく。
一つ屋根の下にシンがいるという事実だけで、胸の奥がキュッと締め付けられるような、気恥ずかしさと高鳴りが同時に押し寄せた。
(「仁華」って自分で決めたけど……明日もまた、あの黒猫の姿に戻っちゃったりするのかな……)
薄暗い天井の闇を見つめながら、シンの手の温もりや、夜風に残る香ばしい肉の匂いをふと思い出す。微かな不安と、それを遥かに上回る甘い期待を抱きながら、一華の意識はゆっくりと深い眠りの底へと落ちていった。




