第41話 猛暑の公園
夏の日差しがアスファルトを容赦なく照りつける昼下がり。
「シン、用意できたよー。」
アイスネックリングのひんやりとした感触と、氷をたっぷり詰めた麦茶の水筒を手に、一華はシンと共に家を出た。
エアコンの効いた室内から一歩外に出た瞬間、むわっとした熱気が全身を包み込む。
高級住宅街を抜ける道すがら、眩しさに細めた目をパチパチさせながら、一華は小さく息を吐いた。
「……暑いね。夜の散歩とは全然雰囲気が違う。」
「あぁ。昼間は車の通りも多い。特に大通り沿いは注意が必要だぞ。」
一華は、つい先日、このすぐ近くの角で発生した強盗未遂事件の現場を思い出し、不安げにその場所を指差した。
「ここら辺、なんだか最近狙われやすいのかな……。」
「立派な住宅ばかりが並んでいるからな。不心得者が目をつけやすい環境ではある。」
シンの落ち着いた、ブレのない歩調に合わせて、一華は一歩一歩ついていく。肌を焦がすような陽射しの中、ふと孤独な恐怖が胸をよぎった。
「怖いね。私一人だったら、どうしていいか分からないよ。」
「絶対に、一華一人にはしない。そのための護衛だ。忘れるな。」
低く、しかし力強いシンの声が、一華に確かな安心感を与える。
「……うん、ありがとう、シン。」
高級住宅街近くの大通りは、さすがに歩道も広く整備されている。車道と歩道の間には大きく育った広葉樹が並び立ち、頭上で夏の葉が太陽の光を遮っていた。歩道側には心地よい木陰が続き、時折吹き抜ける風が割と涼しく感じられる。二人は穏やかな緑のトンネルをくぐるように、目的地である近くの公園へと足を進めていった。
「そういえば、……あの中学生はどうなったかなぁ。確かここら辺だったよね。」
「仁華のおかげで自分の足でしっかりと家庭に戻ることが出来たんだから、もう大丈夫だろ。」
「そっか、そうだよね。ちゃんと立ち直ってくれてるといいな。」
緑豊かな公園が見えてきた。夏休み真っ只中ということもあり、園内には多くの家族連れや、真っ黒に日焼けした小学生たちの活気ある声が満ちている。
二人は木陰のベンチで冷たい麦茶を飲んで一息ついていた。
その平和な日常が切り裂かれたのは、まさにその時。
サッカーボールを蹴って楽しんでいた子供たちから、大きな歓声と共にサッカーボールが勢いよく蹴り出された。見失った軌道を追いかけ、一人の少年が夢中になったまま、周囲を確認せずに猛然と車道へと飛び出した。
その視線の先――目の前には、ブレーキの間に合わない猛スピードの大型トラックが黒い影となって迫っていた。
「あ、危ないっ!!」
一華が叫んだ瞬間、脳裏をよぎったのは、路上に倒れ込む少年の姿だった。
(いやだ、あの子を止めて――!)
恐怖と救いたいという強い衝動が限界を超えた時、世界が物理法則を失った。
けたたましく響いていた蝉の声が、ピタリと途絶える。風が消え去り、目の前の景色は高画質写真のように完全に固定された。少年の髪の毛一本一本、空中に凍りついた埃や叫び声の残響。
「え……? 何これ……誰も動いてないよ……?」
周囲を鋭い視線で冷静に見渡したシンが、低い呟きを落とす。
「……一華。これは、君の魔力が引き起こした現象だ。タイムストップ、いわゆる時間停止だな。」
「私が……? 嘘……。」
「驚いている暇はない。あの少年を安全な場所へ移動させるぞ。」
止まった世界の中を駆け出し、シンが少年を抱きかかえて歩道へ戻す。
転がっていたボールを足元に置いた瞬間――世界が激しい音と共に動き出した。
「――っぶな!!」
トラックがスキール音を響かせて通り過ぎる。少年は自分がなぜ歩道に座っているのか分からず首をかしげている。
「ねぇ、急に車道に飛び出しちゃ危ないよ。気を付けてね。」
一華が少し引きつった笑顔を作りながら、転がってきたボールを手渡すと、青ざめた母親が「ありがとうございます……!」と涙を浮かべて駆け寄ってきた。
少年の手を取り、平謝りしながら公園へと戻っていく背中を見送りながら、少年が「トラックに轢かれそうだったのに、気づいたらここにいたんだよ……。」と不思議そうに母親に話す声が、微かに耳に届いた。
二人は顔を見合わせ、大きくため息をつく。
「やっば」
シンは小さく舌打ちし、「長居すると騒ぎになる。帰るぞ。」と一華を促した。
◇◆◇
帰宅後、冷房の効いたリビングでソファに深く腰掛け、冷えた麦茶を一気に飲み干す。
「「ふ~っ」」
「あれ、やっぱり私の魔力だよね。さっきの……。」
「あぁ。間違いない。新たな覚醒だな。」
「フリーズするなんて……。自分の意志でパッと止めたわけじゃないし……。」
一華は自分の両手を見つめる。人知を超えた神の領域のような現象を引き起こしてしまった事実は、時間が経つほどに不気味な現実味を帯びていた。
「危険回避の防衛本能だな。一華の『あの子供を救いたい。』という強い心配事が、タイムストップという極端な形によってクリアされたわけだ。」
「私の心配事が解決するみたいに、こうやって魔力が次々と覚醒していくのかな……。だとしたら、いざという時にはすごく便利だけど……。」
「いや、呑気に喜んでいる場合ではない。今のは『暴走に近い覚醒』だ。自分の意志で制御できなければ、いつか予期せぬピンチを自分たち自身で招くことになる。」
「ピンチ……。次から次へと……。ちゃんと自分の制御した形で魔力が覚醒してくれればいいのに。」
「……魔界であれば、こういう暴走を起こす前に教育機関の専門的なカリキュラムで安全に魔力を覚醒させるんだがな。」
「魔界には魔力覚醒の教室があるの? シンもそこに通ったの?」
「あぁ。制御できない魔力というのは、本人にとっても周囲にとっても有害でしかないからな。一華は魔界という基盤にいない分、人間界の現実に直面して、無理やり心の扉が開かされている状態だ。……その分、身につけている魔力制御のブレスレットにかかる負荷も大きくなっている。」
シンの重みのある言葉に、一華は小さく頷いた。
◇◆◇
簡単な昼食を済ませたあとも、胸の奥には冷たい泥がいつまでも沈んでいるような、言い知れないざわめきが消えずに残っていた。
モヤモヤとした気分を振り払うため、二人は予定を変更し、リビングの一角で書道による精神統一を始めることにした。
静まり返った室内。だが、筆を動かす一華の脳内は、先ほどの恐怖と戸惑いで満ちていた。そして、それがテレパシーを通じてシンに筒抜けになっていることも知らずに――。
――《……時を止めるなんて、私、魔法使いみたい。あ、もう魔法使いか。でも、あの時の静寂は怖かったな。私一人がこの世界から取り残されたみたいで……もしシンがそばにいなかったら、自分の足で動けなくなっちゃったかも……。》
横に控えるシンが、鋭い声で釘を刺す。
「一華、手が止まっている。脳内でフリーズのことは考えるな。今は余計な雑念を捨て、筆先の一点だけに集中しろ。」
「うぅ……バレてる。だって、あんな非現実的なもの見ちゃったら、気にするなって言われても気になっちゃうよ……。」
「いいか。よく聞け。制御を誤れば、いつか自分自身がその止まった時間に永遠に閉じ込められる可能性だってゼロではない。……それほど魔力とは危ういものだ。」
「っ……!」
シンの厳格な言葉に、一華は筆を止め、大きく目を見開いた。
「……時間に、閉じ込められる……?」
「あぁ。自分の魔力に飲まれればな。」
背筋が凍るような恐怖が走る。――あの時体験した、音も光も風も消え去った絶望的な静止空間。自分がそこから抜け出せなくなると想像しただけで、めまいを覚えた。
だが、その恐怖から目を背けるのではなく、真正面から見つめ直したとき、一華の胸の奥で揺れていた何かがしっかりと定まった。逃げ出したい怯えが、熱を帯びた強い塊に変わっていく。
(……時間に閉じ込められる恐怖……確かに恐ろしい。でも、そこから目を背けてちゃダメだ。この力は、私が誰かを、そして何より大切な自分を守るために手に入れたものだから……!)
一華はぐっと筆を力強く握り締め、決意の満ちた眼差しでまっさらな白紙に向き直った。
恐怖をエネルギーへと昇華させるように、一文字一文字にありったけの意志を叩き込む。紙に染み込む黒々とした線は、どこまでも力強く、淀みを見せない。
「……見てて、シン。私、この力に飲まれたりなんかしないから。」
静まり返った夏の午後、確かな決意を込めた一華の筆先が、白い紙の上を力強く、そして鮮やかに走り始めた。




