第40話 水族館デート
夏休み初日。連日の猛暑から逃れるように、一華とシンが足を向けたのは、街の喧騒を忘れさせる巨大な水族館だった。
ひんやりと冷房の効いたエントランスを抜けると、そこには現実の夏を忘れるような、どこまでも青い『蒼の世界』が広がっていた。館内を彩る照明が、まるで海底にいるかのような穏やかな明滅を繰り返している。
「わあ……きれい。まるで海の中に潜ったみたいだね。」
サマードレスの裾を軽やかに揺らしながら、一華が感嘆の声を漏らす。ブレスレットの金属音が、静かな水音に溶けていく。
「あぁ。深海にも似た静寂だな。……一華、はぐれるなよ。」
シンはさりげなく一華の手を取った。二人は巨大なトンネル水槽へと足を踏み入れ、頭上の青空を切り取るように悠然と泳ぎ去るエイやサメを見上げる。その幻想的な光景の中で、一華はこれまでにない不思議な『感覚』に包まれていた。
深海魚のコーナーに差し掛かった時、脳内に微かなノイズが響く。それは慣れ親しんだ、シンのものとは少し違う波長だった。
――《……シン、シン聞こえる?》
――《あぁ。どうした、急にテレパシーを使って。》
――《なんだか……あの大水槽の奥から、すごく『困ってる』感じが伝わってくるの。》
一華が指差した先は、館内で最も大きな『サンゴ礁の海』を再現した水槽だった。色鮮やかな熱帯魚たちが群れ泳ぐ中、一匹の大きなウミガメが、岩陰の狭い隙間に執拗に頭を突っ込んで、もがくように体を揺らしている。
――《……確かに、あの個体の魔力……いや、生命活動の波長が乱れているな。》
――《ちょっと待って。思考を集中させてみる……。》
一華は自分の意識を『内側』ではなく、ガラスの向こうのウミガメへとまっすぐに飛ばした。
途端、脳裏に、言葉ではない生々しい断片が流れ込んでくる。
――『キラキラ……イタイ……トレナイ……。』
――《シン! カメさんの鼻のあたりに、何か尖ったものが挟まってるみたい。あれ、人間が落としたプラスチックの破片かな……。》
――《……飼育員を呼ぶか? だが、あの位置では潜水作業が必要になる。時間がかかるな。》
――《でも、すごく痛がってるよ……。お願い、シン、なんとかできない?》
シンは周囲に人がいないことを確かめると、一華の肩を引き寄せ、自身の魔力を彼女の波長に同調させた。
――《承知した。……一華、カメと『対話』を続けろ。俺が魔力で破片を弾き飛ばす。誘導は一華がやるんだ。》
――《うん!……カメさん、動かないで。今、助けるからね。》
一華が強く念を送ると、暴れていたウミガメはピタリと動きを止め、じっとこちらを見つめ返した。その瞬間、シンが水槽のガラス越しに、極めて微細な衝撃波――魔力の矢を放った。水流がわずかに渦を巻き、ウミガメの鼻先に食い込んでいた小さな鋭い破片が、スッと外れて砂底へと落ちていく。
カメは一瞬驚いたように瞬きをした後、身軽になったことを悟ったのか、ガラスの壁すぐ手前まで優雅に泳いできた。
――《よかった……。もう痛くないよ。》
――『……ニンゲン……アリガトウ……。』
カメがゆっくりとヒレを振り、深みへと消えていくその後姿を見送りながら、一華の胸に温かな実感が広がっていく。
――《……通じた。本当に、声じゃない言葉で、助け合えたね。》
――《あぁ。一華のテレパシーは、単なる情報の伝達ではなく、『共感』の力なんだな。》
シンは、誇らしげに輝く一華の瞳を見つめ、彼女がまた一歩、自分自身の新しい側面を受け入れたことを確信した。
◇◆◇
ウミガメを救った直後、水族館の空気がわずかに変わった気がした。一華が放った『共感の波』はガラスの壁を越え、水槽の中にいる他の知的で感受性の強い生き物たちにも届いていたらしい。
次に訪れたのは、メインイベントであるイルカショーのドルフィンプールだった。開演前で観客はまだまばらだったが、水面を悠然と泳いでいた数頭のイルカたちが、二人の姿を認めた途端、一斉に顔を出し、一華をじっと見つめ始めた。
一華は息を呑む。
――《……ねぇ、シン。この子たち、さっきのカメさんのこと、知ってるみたい。》
――《イルカは非常に高い知性と、魔力に近い波長を感知する能力を持っているからな。一華のテレパシーの残響に反応しているんだろう。》
すると、ショーの開始の合図すらないのに、イルカたちが自発的にパフォーマンスを始めた。
一頭のイルカが水面を割って高く跳ね上がり、尾びれで器用に水面を叩く。舞い上がった無数の水飛沫が、午後の陽光を浴びてキラキラと小さな虹のカーテンを描いた。
「わぁ……綺麗!」
――《ありがとう!》
イルカたちが「(ピィーッ! キュウ、キュウ!)」と嬉しそうに鳴き交わす。
脳内に響くのは言葉ではないが、それは紛れもなく『喜び』と『歓迎』の歌のようだった。彼らは円を描いて泳ぎ、美しい渦を作っては、一華に向けて何度も優雅にジャンプを繰り返す。
周囲を警戒しつつも、シンはどこか感心したように呟いた。
――《……本来、彼らは訓練なしにここまでの動きは見せない。一華、君の魔力が彼らの本能と共振しているんだな。》
シンは、心から楽しそうに笑う一華の横顔を見て、少しだけ『魔力』を添えることにした。指先を微かに動かすと、イルカたちが跳ね上げた水滴が空中で一瞬だけ静止し、まるで無数のダイヤモンドが宙に浮いているかのような幻想的な空間が生まれる。
「……これ、シンが?」
「今日くらいは、教科書にない『奇跡』を体験してもいいだろう。夏休み初日のプレゼントだ。」
観客席から「すごい!」「魔法みたい!」と驚きの声が上がる。けれどそれは、一華のためだけに用意された、世界で一番贅沢なプライベート・パフォーマンスだった。
◇◆◇
夕暮れ時、水族館のショップに立ち寄った二人の手には、ウミガメやイルカを模した小さなガラス細工のストラップが握られていた。
「今まで、水族館って『見に行く場所』だと思ってたけど、今日は『話しに行った』みたいだった。海の中にも、あんなにたくさん心が詰まってるんだね。」
「そうだな。一華が感じたその『共感』は、海洋生物学や、環境保護といった分野の土台になる。魔界に戻っても、海の魔物との交渉役になれるかもしれないな。」
「交渉役かぁ……。人間界の生き物の気持ちが分かる魔界人……それって、私にしかできないことかも。」
一華は左手首のブレスレットをそっと撫でた。その決意に呼応するように、魔導具は微かに、しかし力強く拍動した。
◇◆◇
水族館を一歩出ると、熱気を含んだ湿った潮風が二人を包み込む。
「次は動物園かな? それとも博物館?……あ! でも明日は勉強の日だったよね。」
「ふっ、覚悟はできているようだな。明日の午前中は数学と化学の応用だ。午後は……今日出会った生き物たちの生態について、レポートを書いてもいいぞ。」
「レポート!? 夏休み早々、ハードだなぁ……。でも、今日のカメさんのためなら、ちょっと頑張れるかも。」
「その意気だ。さあ、帰りにレストランでも寄って夕食としよう。一華の好きなところでいいぞ。」
「やった! シン、大好き!」
一華はシンの腕に嬉しそうにしがみつき、二人はオレンジ色に染まり始めた街路を、足取り軽く歩いていった。




