第39話 一学期終業式
セミの鳴き声が、校庭に響き始めた一学期の終業式。教室では成績表が手渡されている。
シンの結果は、もはや見るまでもない。三者面談でも担任が言っていた通り、全ての項目において「5」が並ぶ、美しすぎるほどの成績だ。一方の一華は、手渡されたばかりの成績表をそっと開いた。
「……よかった……!」
小さく息を吐き出す。
『地獄の家庭教師』と恐れ(そして時には感謝し)たシンの猛特訓のおかげで、並んだ数字は『中の上』。決して自慢できるほどではないけれど、今の自分にとっては十分すぎる努力の結晶だ。何より、恐怖の夏期補習を綺麗に回避できたという事実だけで、胸のつかえがスルスルと降りていくようだった。
「またね!」
友人たちと約束をかわして校門をくぐる。照りつける太陽の光は眩しいけれど、一華の足取りはどこまでも軽かった。待ちに待った、本当の自由な夏休みが始まったのだ。
◇◆◇
帰宅して冷たい昼食を済ませたリビングには、穏やかな時間が流れていた。ソファに並んで腰掛け、二人はゆったりとハーブティーの香りに包まれている。
「明日から夏休みだね。一か月以上あるけど、シンはどうしたい?」
カップルにしては少し事務的、けれどどこか穏やかな響きを含んだ一華の問いに、シンはコーヒーの入ったマグカップをテーブルに置いた。コンと静かな音が響く。
「通常、人間界の高校生は何をするんだ?」
「そうだなぁ。夏祭り、花火大会、プール……。あ、でも私は受験しないし、卒業さえできればいいしね。思いっきり遊び倒したいなって思ってるんだけど。」
悪戯っぽく笑う一華を、シンはまっすぐに見つめ返した。その瞳の奥に、ふと深い思案の色が浮かぶ。
「……一華。君はもし、魔力が覚醒しなかったら、将来は何を目指していたんだ?」
「えっ? いきなり真面目だな……。うーん、なんだろう。なんとなく適当な大学に行って、就職して、いつか結婚して……そんな風に、普通の人生を送るんだろうなって、ぼんやり思ってただけだよ。」
少し気恥ずかしそうに視線を逸らす一華に、シンは短く息を吐いた。
「……。」
「これからは、魔界でやれることを探していくのがいいのかなぁ……。」
「人間界でしか行けない場所に行き、今から探せばいい。」
「え? 水族館に動物園、それに植物園や博物館……、ものづくり体験とか?」
「いろんなものを見て、体験すれば、目指すものが見えてくるだろう。」
「うん、そうだね!」
一華の顔にパッと明るい笑みが戻る。しかし、シンはそこで言葉を切らなかった。低い、けれど逃げ場のない真摯な声が、リビングの空気を引き締める。
「だが。何を目指すにしても、今の『勉強』は必要だ。大学受験を考えていなくても、できる限りの知識は身につけておいた方が、絶対に損はしない。」
瞬間、一華の顔がみるみるうちにひきつった。
「……そ、それって……夏休み中も、『地獄の勉強』をしろってこと……?」
「外せないだろう。」
あまりにも平然と言い放つシンの言葉に、一華は両手で頭を抱えた。
「あぁっ……シンは鬼なの!? それとも悪魔なの!?」
「鬼でも悪魔でもないが……目指すべきものがあれば勉強するだろ。」
「魔界に行くのに、目指すものなんて考えられないよ。」
「一華は高校を卒業したら、素直に魔界へ行けるのか?」
「えっ? 三者面談でも言った通り、高校卒業するまでのはずじゃ???」
「卒業して、魔界で何をするんだ?」
「結婚するんじゃ……?」
「魔界に行くからといって、今の時間が無駄になるわけじゃない。結婚して終わりではつまらないだろう? 向こうにはまだ友達もいない。一華自身が楽しめる何かを見つけた方がいい。」
シンは、目の前にあるブレスレットや、テーブルの上のハーブティーに視線を落とした。
「例えば、そのブレスレットに興味があるなら宝石の知識が必要だ。ハーブティーだって、土台には植物や化学の知識がある。勉強は、一華が何にでもなれるための『土台』なんだ。」
シンの言葉は正論だった。正論すぎて、反論の余地すらない。自分が心のどこかで抱えていた甘えや、見ないふりをしていた未来への不安を、鋭く突かれた気がした。
「……っ」
一華の瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。突然の涙に、シンは慌てて身体をこわばらせる。
「……一華?」
言葉にならず、一華はティッシュペーパーで必死に涙を拭った。この三年間は、一華にとって『魔界に行くまでの待ち時間』でしかなかったのだ。いつかすべてを手放して、別の場所へ行くための仮初めの時間。それを、シンに根底から覆されたショックが、胸を締め付けた。
「……俺はやはり、鬼か悪魔だったか……。」
自嘲気味に呟くと、シンは一華をそっと引き寄せ、その小さな肩を優しく抱きしめた。体温が、心地よく伝わってくる。
「言い過ぎた……悪かった。」
シンの胸に顔をうずめたまま、一華は小さく首を横に振った。
「……ううん。シンの言う通りだよ。……私は、人間界で何かを目指しても……途中で投げ出すことになるって……どこかで諦めてた。……だから、ただ過ごすことだけが目的になってた……。」
「……高校の勉強が……私の人生の『土台』になるなんて、思ってなかったの……。」
シンは何も言わず、一華の涙が静まるまで、ただしっかりと抱きしめ続けた。
◇◆◇
どれくらい時間が経っただろうか。
ようやく涙を拭い終えた一華は、シンの胸から離れて小さく鼻をすすった。赤くなった目をこすりながら、無理にでも笑ってみせるのが一華の悪い癖であり、可愛いところだ。
「……魔界に行ったら、心置きなく仁華の姿で、シンの横に居るつもりだったんだけどなぁ。」
少しだけ柔らかい笑みを浮かべ、シンは一華の頭にそっと手を置いた。
「俺は、一華が仁華の姿で隣にいてくれるだけでも十分だが……。」
「でも、そのうちシンみたいに『勉強の魔力』が覚醒するかもしれないしね!」
「立ち直りが早いな。一華は本当に楽観的だ。」
あきれ顔を見せつつも、シンの瞳には深い愛おしさが滲んでいた。一華は両手の指を絡ませ、神様に祈るように小さく両手を組む。
「満月様、私に天才のパワーを注入してくださいな!」
「ははは、それは一華の努力次第だろ。」
「ふふっ。じゃあ、まずは明日! 水族館に行こう! 暑いから、涼しいところが絶対にいい!」
「水族館か。いいだろう。室内なら月も見ないし、安心だな。」
一華はさっそくテーブルに置いていたスマートフォンを取り、近場の水族館のページを勢いよくスクロールし始めた。先ほどまでの涙が嘘のように、その横顔には新しい『土台』を作ろうとする前向きな輝きが満ちている。
(俺が鬼になっても悪魔になっても――一華の前では、ただの「シン」という一人間に戻してもらえるな。)
シンは穏やかに微笑みながら、一華の覗く小さな画面を一緒に見つめた。窓の外では、夏の青空がどこまでも高く広がっていた。




