第35話 テレパシー覚醒
バックムーンの月光パワーを受けた翌朝、一華の体には、回復モードの魔力が満ちていた。気だるさはすっかり消え失せ、目覚めからすこぶる爽快だ。
キッチンから漂う香ばしい匂いに誘われて顔を出すと、シンが手際よく朝食の準備をしているところだった。一華はいつも通り、その隣にスッと入って弁当の準備を手伝い始める。
「おはよう。」
「おはよう。体は回復したか?」
「うん、完全回復!」
朝食の準備を終えた二人は、テーブルを挟んで向き合った。シンはお碗に口をつけたまま、ふと鋭い視線を向けてくる。
「で、テレパシーの魔力は覚醒したのか? 何か感じるか?」
一華は首をかしげ、小首を傾げた。
「どうだろ。今はなんとも感じないよ。」
「そうか……。そのうち覚醒するのか、それとも違う魔力が覚醒したのか、様子を見るしかないな。」
「今日はこのまま、学校行っても大丈夫だよね?」
「あぁ。ブレスレットがあるから、魔力暴走の心配は無用だ。」
安堵の息を漏らしながらも、一華の胸中にはかすかな落胆が広がっていた。
(前回は数時間後に覚醒したのに、今回はいまだに変化がないなんて……私の願い、届かなかったのかなぁ。)
シンは箸を止め、一華の顔をじっと見つめる。
「俺は変化には気づいたが、魔力はまだ感知してないな。」
「え? 変化があったの?」
「あぁ、多少魔力の揺らぎを感知した。ただ、魔力そのものが外に出ている感じはない。」
「そっかぁ。じゃあ、あとのお楽しみだね!」
一瞬で表情を輝かせ、嬉々としだす一華。
朝食をすませた二人は身支度を整えて家を出たが、学校に着くまで特に変わったことは起こらなかった。
◇◆◇
朝のホームルーム。
教壇に立った担任が、冷酷な宣告の如く、来週から始まる期末テストの日程表を黒板に貼り出した。
――《あぁ、またテスト勉強の時期かぁ。ママに怒られても、シンが代わりに受けてくれないかなぁ。》
ふと、そんな怠惰な本音が頭をよぎった瞬間だった。
隣の席に座るシンが、ピクリと肩を震わせて一華の方を振り返った。
「ん? 何か言ったか?」
一華は目を丸くする。
「何も喋ってないよ?」
――《そんなことないだろ…… あぁ、またテスト勉強の時期かぁ。ママに怒られてもシンが受けてくれないかなぁ…と言っただろ。》
顔を真っ青に硬直させ、一華は慌てて声を潜めた。
「えっ!? なんでそれを知ってるの!?」
「あぁ……そういうことか。」
シンは、すべてを悟ったようにニヤリと笑った。その瞳には、鮮やかな確信の光が宿っている。
――《覚醒したな。今はテレパシーで会話してるぞ。聞こえるか?》
シンを凝視したまま、一華は小さく頷いた。
――《シンの声が頭の中で聞こえるよ!》
一華は机の下でそっと小さくガッツポーズをした。願いが届いたという事実と、初めての奇跡への興奮で、胸の鼓動が高鳴って止まらない。その後の授業など一華の耳に入るはずもなく、ただ上の空で、シンをチラチラと見つめてはそわそわと落ち着きを失っていた。
――《落ち着け、一華。授業を聞け。》
シンの冷たい警告が頭に響く。しかし一華は、シンの整った横顔に見とれるばかりで、思考の注意散漫さは一向に直らない。シンはこっそりと頭を抱えた。この調子では、期末テストどころか今日の授業すら危うい。
放課後、帰りのホームルームが終わると、二人は足早に家路を急いだ。
◇◆◇
夕食の準備中、一華の興奮はピークに達していた。
「やっぱり願いは届いてたんだね! 本当にテレパシーができるようになるなんて! 満月様すごぉーい!」
しかし、シンは包丁を動かしながら、皮肉っぽく釘を刺す。
「喜ぶのは早いな。今日の一華は授業に全く身が入ってなかったぞ。」
一華はバツが悪そうに、しゅんと肩をすぼめた。
「うっ……嬉しすぎて気持ちがコントロールできなかったんだもん。」
「わかるが、このままではダメだ。夕食後は精神統一の訓練をするぞ。」
「訓練もだけど、期末テストは来週だよ? 勉強は?」
「このままでは、テストどころか、今日の授業の内容も思い出せないだろ。」
正論を突かれ、一華は何も言い返せずに沈黙した。
――《確かにそうだ……。》
「決まりだな。とりあえず、今日は精神統一が優先だ。」
夕食と入浴を済ませ、二人はリビングのソファに腰を下ろした。シンが引っ張り出してきたのは、ずっしりと重い書道セットだった。
「精神統一と言えば、書道だ。」
一華は墨をすりながら、不思議そうに小首をかしげた。
「どんな字を書くの?」
「自分の名前を、ただひたすら紙いっぱいに書け。」
一華が真剣な面持ちで筆を握り、半紙に自分の名前を書き始めた、その瞬間だった。シンの声が、直接脳内に流れ込んでくる。
――《一華、聞こえるか? テレパシーで返せ。》
ピタリと手が止まり、一華は不満げにシンを睨み上げた。
――《聞こえてるけど……これじゃ精神統一できないよ!》
シンは冷徹に言い放つ。
――《これが訓練だ。テレパシーは自分でシャットアウトできないだろ。聞こえても、手は止めるな。》
やむなく、一華は再び筆を走らせ始めた。
――《一華の頭で思ったことはすべて、俺にストレートに入ってくる。》
――《うん。》
――《だから、俺に話しかけているのか、ただの思考なのか、俺も判断に困る。ルールを決めるぞ。》
――《うん。どうすればいいの?》
――《そうだな。まず「シン」と二回呼びかけて確認する必要はある。そうすれば俺は会話と認識する。》
――《わかった。『シン、シン聞こえる?』って言う感じかな?》
――《そうだ。今日は何故、心ここにあらずだったんだ?》
――《うん……。テレパシーで会話できるのはいいんだけど。頭の中で考えていることが全て、シンにバレるわけじゃない?》
――《あぁ、この人が好きとか嫌いとか、みたいな?》
――《うん。冗談だとしても口に出していないことは、自分の中で楽しんでるというか。出さないから楽しめるのに、心を無にしなくちゃいけなくなるのが、なんか嫌なの……。》
――《俺が一華の頭の中を盗み読みしてるみたいに感じたのか?》
――《うん。悪口言ってるわけじゃないけど、隠したい心もあるのよ。誰にも。特に乙女はね。》
シンの表情が、わずかに和らぎ、深い反省の色を帯びた。
――《あぁ。そうだな。それは一華だけじゃない。俺もコントロールしていた。》
――《コントロール?……。私にもできるかな?》
――《まずは、精神を統一させて、話しかけるものと、自分だけの思考とに分けることだ。会話するときは、脳の外に向けて念を送る感じで。思考する時は、内に向ける。》
――《そうか、口に出すときと同じように、相手がいること前提かぁ。》
――《この状態で、一華は俺に話しかけず、書道しながら思考してみろ。》
――《思考……。》
一華は筆を進めながら、心の中で自分の名前を呪文のように唱え始めた。
――《……一華、一華、一華……》
「くくっ」
堪えきれなくなったように、シンが小さく吹き出した。一華は筆を止め、ジト目でシンを睨みつける。
「何?」
「聞こえてるぞ。『一華、一華、一華』って。」
「……もう!」
一華は顔を真っ赤にして頬を膨らませた。
シンは小さく息を吐き、優しく諭すように言葉を紡ぐ。
「会話の時は脳の外に向けて、思考の時は、自分のここに向ける感じと言えばわかるか?」
シンは自分の左胸、心臓のあたりを軽く指さした。一華も真似をして、自分の心臓に指を当てる。
「ここに向けて……。」
一華は再び目を閉じ、意識を心臓の奥へと沈めた。
――《一華、あんたはえらい。》
――《シン、シン聞こえる?》
――《あぁ、聞こえてる。》
――《さっきの思考、わかった?》
――《……聞こえなかったぞ。思考していたのか?》
――《そうだよ。》
――《なんて言ったんだ? 聞いてもいいやつか?》
――《うん、大丈夫……『一華、あんたはえらい』って自分を褒めたの。》
「ははは。あぁ、一華はえらいな。完全に習得したな。」
シンはふっと柔らかい笑みを浮かべ、一華の頭を優しく撫でた。その温もりに触れ、一華はパッと表情を輝かせ、自信に満ちた笑顔を取り戻す。
「ね。明日から、もう大丈夫だよ!」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑い合った。テレパシーという強力すぎる魔法は、一華にとって新たな武器となり、同時にシンとの絆を誰にも知られない深みへと繋ぐ、秘密の架け橋となったのだった。
「明日からは、心おきなくテスト勉強に集中できるな。」
不意に、シンが悪魔のような艶やかな笑みを浮かべ、一華を現実の地獄へと突き落とす。
「これで、シンが頭の中で回答を読み上げてくれれば、勉強する必要もなくなったわけだよね。」
負けず劣らず、一華も悪魔的な笑みを浮かべ、強気な思考を投げ返した。
「……おっ おまえは……なんて恐ろしいことを考えるんだ。もしかして、テレパシーを願ったのは最初からこのためか?」
シンは心底動揺した様子で絶句する。
「ふふふっ……そんなこと、どうかなぁ……?」
一華は小悪魔的な笑みを浮かべ、しらばっくれた。
テレパシー覚醒をうっかり一緒に願ってしまったことを、この瞬間、シンは深く後悔した。だが、その想いはぐっと胸の奥にしまい込むしかない。
書道セットを片づけ、一華は嬉々として、シンはわずかな落胆を背負いながら、二人はそれぞれのベッドへと滑り込んだ。




