第34話 バックムーン(男鹿月)
リビングのソファでカモミールティーの香りを楽しみながら、一華はふと次の満月が近いことに思い至り、カップをソーサーに置いて口を開いた。
「ねぇ、シン。もし次の満月でまた新しい魔力が覚醒するなら、私、何がいいかな?」
突然の問いかけに、シンは淹れたての珈琲の入ったカップを口に運ぶ手を止める。
(もうすぐ満月の夜が近いのか……?)
「テレパシーとか、テレポート、透明人間、予知……色々あるよね。シンは何ができるの?」
「俺は、覚醒したものは全て使える。予測はできるが、予知はできない。」
シンの声は静かで、どこか冷徹な響きを帯びていた。
「予知した時点で、その世界線から外れようと動いたり、逆に近づこうとしたことで未来は変化する。定まった形などないんだ。」
「シンにもまだ覚醒していない魔力があるんだ。ちょっと意外。」
一華は真剣な表情に切り替わり、左手首のブレスレットにそっと指先を滑らせた。
「今の私に一番欲しいのは……テレパシーかな。」
「テレパシー、か?」
「うん。この前『黒猫と話す少年』の噂が広まったのって、きっと仁華とシンが人間のように会話しているのが、周りから見ておかしいって認識されたからだと思うんだよね。」
「その通りだ。通常なら、人間が一方的に話して、猫がタイミングよく鳴く程度だろう。」
「だから、もし私にテレパシーが覚醒したら……話さなくても、仁華の姿のままでもシンと意思疎通ができるの。傍から見たら、ただ少年が黒猫を抱き上げているだけにしか見えない。全然おかしくないでしょ?」
深く納得したように、シンはわずかに目を見開いた。
「あぁ……そういうことか。それは、人間界での生活において、最高の保険になるな。」
「でしょ! いつでも、どこでも、どんな話でも、誰にも聞かれずにできるんだよ。すごくない?」
「すごいな。一華が仁華になってもテレパシーが使えるようになれば、俺も安心だ。」
一華の瞳は期待に満ち溢れ、満月の夜が待ち遠しいという高揚感が全身から滲み出ていた。
◇◆◇
それから数日後。待ちに待った7月の満月の夜が訪れた。
『バックムーン』と呼ばれる月が、空に皓々と輝いている。最近は集中豪雨が多かったが、幸いにも雲一つない月夜となった。
一華はスマホの検索画面をシンの前に差し出す。
「バックムーンだよ! 和名では男鹿月とも言うらしく、『再生』や『成長』を象徴しているんだって。私にぴったり! おまけに仕事運・金運アップにいい月らしいよ!」
「雨じゃなくて良かったよー! 魔力パワー注入して、テレパシー覚醒だぁー!」
満面の笑顔で喜ぶ一華を見てシンは微笑み返したものの、その内心は不安で押しつぶされそうだった。これまでの満月の夜、一華が受けた衝撃は、魔界人である彼にとっても見ていられないほどのものだったからだ。
「一華、魔力が覚醒するのはいいが、満月の光を浴びた時の衝撃は……本当に大丈夫なのか?」
少し首を傾げ、一華は小首をかしげる。
「……うーん、意識が飛んじゃってるから、正直あまり覚えてないんだよね。」
シンは言葉を詰まらせ、沈黙した。脳裏に、前回、意識を失って崩れ落ちた一華の姿が生々しく蘇る。
「……。」
対照的に、一華はどこまでもあっけらかんとしていた。
「まぁ、多少体力は奪われるようだけど……眠ればなんとかなるんじゃない?」
「……。」
「自分の体に眠ってる魔力がすべて覚醒するまでは、こうして満月光を浴び続ける方が、外での魔力暴走も回避できるだろうし。」
「そうか……一華が大丈夫だと言うなら、いいが。わかった。」
一華の強い決意と理論的な判断を受け入れ、シンは静かにうなずいた。
「満月光を浴びてもいいかな?」
「あぁ。今日もベランダでだ。衝撃の後はすぐに抱きかかえて室内に入れるぞ。」
「うん!」
一華はブレスレットを外し、テーブルの上に大切に置いた。
シンは先にベランダへと出ると、東南の空に位置する満月の光がしっかりと差し込んでいるのを確認し、周囲に結界を張った。
「東南あたりに、いい角度で位置している。」
一華もベランダに出て夜空の満月を見上げ、胸の中で強く唱えた。
(仁華に変身!)
一華の姿が一瞬で黒猫の仁華へと変わり、シンはいつ何時でも衝撃を受け止められるよう、すぐ背後に身構えた。
「さぁ、パワー注入だ。」
仁華はバンザイをするように前足を月へと真っ直ぐ伸ばし、降り注ぐ満月の光を全身で受け止めた。その小さな瞳には、テレパシー覚醒への切実な願いが強く灯っている。
(バックムーン様。テレパシーの魔力を覚醒させて、私を再生・成長させてください! お願いします!)
シンもまた、後ろから真剣に一華の無事と覚醒を祈った。
(一華に――仁華にテレパシーの魔力を授けてくれ。どうか、彼女を導いてやってほしい!)
次の瞬間、月光を浴びた仁華の全身を、巨大な電流に一気に貫かれたような凄まじい衝撃が襲った。
意識が白く弾け飛び、全身の毛が逆立つほどの激しい痙攣に見舞われる。
シンは自身も衝撃に耐えながら、素早く仁華を抱き上げると、一目散にリビングへと戻って窓を閉め、結界を解除した。
腕の中でぐったりとする仁華を抱きしめたまま、シンは激しく動揺の色を隠せない。
「一華、一華っ! おい、一華、しっかりしろ……!」
弱々しく、かすれた声が返ってくる。
「にゃにゃ…… (大丈夫にゃ)」
シンは仁華を胸にしっかり抱き寄せたまま、必死に確認した。
「本当か? 何か……変わったことはあるか?」
「にゃにゃ~ん、にゃ……(今のところ、目に見えては変わったところはにゃいよ、ね……?)」
シンは一旦胸をなで下ろし、ソファへと歩み寄ると、仁華をそっとクッションの上に下ろした。
「一華に戻るか?」
「にゃ~ん……(一華に戻るにゃ)」
仁華は眩い閃光を放つこともなく、静かに元の少女の姿へと戻った。
急激な変化の名残に気づきつつも、シンはまず彼女の体調を最優先する。
「体はどうだ? 疲労感は残っているか?」
「うん……衝撃を受けた影響はまだあるみたい。他には、特に何も感じてないかな。」
一華は、願い事を唱えた直後にあの強烈な衝撃が走ったことで、(もしかしたら、今回も願いが聞き入れられたんじゃないかな)という密かな期待を抱いていた。
激しい消耗で揺らぐ体を休めるため、シンがすぐに淹れてくれた温かいカモミールティーを、彼女は両手で包み込むようにしてゆっくりと口に含んだ。
その夜は、体力の消耗以外にテレパシーのような新たな魔力の兆しを感じることもないまま、一華は静かに、深い眠りへと落ちていった。




