第29話 自己回復の魔力
強盗未遂事件の翌朝、太陽がまだ完全に昇りきらない、深い静寂に包まれた時間帯だった。
シンは、正確な体内時計と、わずかな魔力の揺らぎを敏感に感知する特異な感覚によって、いつもより少し早い時間に目を覚ました。
「……っ」
すぐに起き上がろうとしたが、昨晩の張り詰めた緊張と深夜の行動による疲労が、一瞬、シンの完璧な動作を鈍らせた。
窓から差し込む早朝の柔らかな光が、シンの目元にうっすらとできたクマを映し出している。それは、夜通し一華の魔力の覚醒と安全を案じていた動かぬ証拠だった。どんな時も涼しげで揺るがないシンの表情に、これほどの疲労の痕があるのは極めて珍しいことだ。
パジャマ姿のまま、シンはまず一華の部屋へと向かった。ドアノブに手をかけることすらせず、研ぎ澄ました魔力だけでドアの向こう側の一華の状態を探る。
(昨夜の悲痛な声は……完全に止んでいるな。)
胸を撫で下ろす一方で、シンは魔力覚醒後特有の『魔力の不安定さ』を懸念していた。その微細な波の乱れを感知したからこそ、彼は本能的に目を覚ましたのだ。
シンは静かにノックを二回。
「一華。……起きているか?」
部屋の中では、一華が深い眠りの淵に沈んでいた。ベッドに横たわる彼女の顔色は、いつもの健康的な桜色を失い、透けるように白い。昨夜、シンに運ばれてきた時の激しい疲労感が、そのまま彼女の身体に張り付いているかのようだった。
しかし、その内側では微かに、極めて穏やかな魔力の渦が脈打ち始めていた。昨夜願った『自己回復の魔力』が時間をかけてゆっくりと全身の細胞に働きかけ、外部の刺激から身を守るために、身体が本能的な回復モードへと移行した兆しだった。
シンの声と気配に促され、一華は重い瞼をゆっくりと持ち上げる。
「……ん……シン?」
か細い声だった。鉛のように重い身体、とりわけ魔力的な衝撃を受けた箇所は激しい倦怠感に包まれていた。まるで限界まで走り抜いた後のような、筋肉の奥から押し寄せる疲労感だ。
シンはすぐに部屋に入り、ベッドサイドに腰を下ろすと、その冷たい手を一華の額にそっと当てた。
「熱はないな。体調はどうだ? まだ頭の中に声が聞こえるか?」
シンのひんやりとした手が心地よくて、一華は小さく首を振る。
「声は……もう聞こえない。頭痛も消えたみたい。でもね、シン。体がすごく重いの。起き上がれないかも……。」
「無理をするな。まだ魔力覚醒の余波が残っているんだろう。」
シンは注意深く彼女の生体反応と魔力を観察した。荒れていた揺らぎは収まり、代わりにごく微弱ながらも修復へと向かう流れが確かに感じられる。
シンはかすかに微笑み、安心させるように言った。
「昨夜、一華はよくやった。その疲労は、一華の覚醒した魔力を使った代償だ。今はただ休め。」
その優しさに、一華は少しだけ肩の力を抜く。
「シンこそ、ちゃんと眠れた? いつもより少し目が赤いよ。」
シンは軽く首を振って見せた。
「大丈夫だ、俺は平気だ。すぐに朝食の準備をする。一華はまだ寝ていていい。」
心配させまいと、一華は努めて明るい声を絞り出す。
「うん。じゃあ……月華草茶をお願いね。早くこの身体の重さを何とかしないと、『満点のシン君』の隣にいるのに、寝坊助って目立っちゃうから。」
クスッと笑う一華の頭を、シンは愛おしそうに優しく撫でた。
「その心配は無用だ。さあ、もう一度眠れ。」
部屋を退出する直前、シンは窓の外と廊下の結界を改めて厳重に強化した。彼の心は依然として、昨夜の事件と、一華が覚醒させた『共鳴の耳』という予期せぬ――しかしあまりに強力な力のコントロール方法について深く考え巡らせていた。
一眠りした後、朝食のために起きてきた一華だったが、顔色は依然として青白く、体力が完全に回復しきっていないのは一目瞭然だった。体内では自己回復の魔力が懸命に働いているものの、昨夜の急激な共鳴と事件対応で消耗したエネルギーを補うには、まだ時間が必要だとシンは判断した。
「学校には連絡してある。今日は体調不良で休みだ。」
「えっ? いいの?」
「あぁ。満月パワーで回復モードの魔力は覚醒しているようだが、昨夜のことがある。魔力は不安定だし、体力が追いついていない。今日は休むべきだ。」
一華は安堵と同時に、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。
「じゃあ、魔力は本当に覚醒していたんだ! お願いして本当に良かった!」
「あぁ。今回は共鳴と回復モード、二つの魔力が同時に覚醒した。さすがに一華の身体には堪えるな。」
「回復モードだけで良かったんだけどね……。」
「共鳴に対しては対策を講じねばならない。毎日こんな状態では、一華の心が持たない。」
「仁華じゃなく、一華のままで共鳴しちゃったら、もう普通に高校になんて行けないよね。」
「ペンダントを装着したまま眠るのは危険だしな。就寝中の代わりの手立てを考えよう。」
簡単な朝食を済ませた後、一華はシンの指示に従い、再びベッドへと戻った。 皿を片付けながら、シンは思考を巡らせる。
(ベッド上でペンダントの代わりとなるもの……魔力を注入して安定させる媒体……そうだ、ベッド自体はどうだ?)
ヘッドボードの木材に、ペンダントと同じ青い魔宝石が埋め込まれていたことを思い出した。一華が目を覚ましたら、試してみる価値はある。
シンもまた、一華の回復を見届けるため、自室へと戻り短い休息をとった。
◇◆◇
お昼前、再び起きてきたシンは、冷蔵庫を覗いてハッとした。今の衰弱した一華の胃に優しく、すぐに食べられるような食材がほとんどない。一華を起こさないよう、シンはそっと自宅を出て近くのコンビニへと走った。
商品の棚の前で、小さな声で呟きながら品定めをする。
「体に負担の少ない、消化のよいもの……。」
そうめんが目に入り、シンは迷わずカゴに二つ放り込んだ。続いてスイーツの棚に移動したものの、一華の好みが正確に分からず、少しだけ立ち往生する。
(甘いものは回復のエネルギーになるが、胃に優しいのはどれだ……)
結局、食感が優しそうな、タイプの異なるプリンを二個選んで会計を済ませた。
◇◆◇
帰宅後、静かにノックをして一華の部屋を覗くと、先ほどよりも声に力が戻っていた。
「起きてこられるか。昼食にしよう。」
「うん……大丈夫。着替えてから行くね。」
身支度を整えてテーブルについた一華の視線の先には、そうめんが用意されていた。一華の顔にぱっと笑みが広がる。
「そうめんだ! いただきます!」
シンは魔力感知を広げ、一華の体力が着実に満ちてきているのを確認して安堵した。
「いただきます。体調はどうだ? 少しは軽くなったか?」
「さっきよりずっと体が軽いよ! このまま寝てばかりいたら、今度は夜眠れなくなっちゃう。」
「そうか。食事が済んだら、リビングでゆったりしよう。」
「シン、目が赤いの治ってる。よかった……。」
二人は喉越しの良いそうめんをあっという間に平らげた。
後片付けを終えたシンは、ソファでくつろぐ一華の隣に静かに腰を下ろした。
「昼間はペンダントが守ってくれるが、夜は外して眠るだろう? だから昨夜は、覚醒した無防備な魔力を直に受けてしまった。」
「まさか、普通の『一華』の状態で魔力が勝手に覚醒するなんて思ってもみなかったしね。」
「そこでだ。一華のベッドの青い魔宝石に、このペンダントと同じ俺の結界魔力を定着させようと思う。」
「それ、すごくいい! 寝ている間ずっと、ベッド全体が結界で守られるってことだよね。うん、やってみよう!。」
二人は一華の部屋へ移動し、ベッドのヘッドボードの前に立った。シンは深く精神を統一し、回復させた全神経の魔力をその小さな宝石へと一気に集中させる。
ヘッドボードに埋め込まれた青い魔宝石が、一瞬、眩く光り輝いた。やがてその色はただの青から、シンの魔力の波動を色濃く宿した、深く吸い込まれそうな瑠璃色へと変化する。
「……魔力注入は完了した。ペンダントを外し、ベッドに横になってみろ。」
一華は首からペンダントを外し、少しの緊張を胸に抱きながらベッドに身を委ねた。
「どうだ。共鳴の兆しはあるか?」
目を閉じて感覚を研ぎ澄ます一華が、やがてパッと目を開けた。
「今のところ……シンの声しか聞こえない。頭の中のざわめきは完璧に消えてる。……大丈夫みたい!」
その報告を聞き、シンの胸の奥に深い安堵が広がった。
「そうか。とりあえず今日はこのベッドで眠り、明日まで何事もなければ、明日は学校に行けるな。」
一華は見開いた目をさらに丸くする。
「それまで学校に行けないの!?」
「あの体力と不安定な魔力状態で学校など論外だ。休む理由は俺が適当につけておく。」
焦りを隠せない一華をよそに、シンは表情一つ変えずに、ある意味で容赦のない『悪魔の提案』を口にした。
「明日は、何が何でも学校に行かないと、授業についていけなくなっちゃうよ!」
「その時は、休日返上で勉強をすればいい。」
一華は顔を引きつらせ、「なんて恐ろしいことを平然と言うの……!」とシンの顔を見つめた。
(……まただ。この人、普段はあんなに完璧で優しいのに、勉強のことになると容赦なく鬼教官になるんだから……)
その瞬間、一華の目には、目の前の完璧な婚約者がひとたび『悪魔』のように映った気がした。
(……こんな顔をさせるつもりはなかったが、しかし、その反応はあまりにかわいすぎる。)
シンは、一華が自分を恐怖の対象を見るような目で固まっているのを見て、内心で激しく動揺していた。護衛として、そして一人の男として、一華に嫌われることだけは絶対に避けねばならない。
慌てて言葉を修正しようと、シンは用意していた『切り札』をそっと差し出した。
「……すまない。冗談だ。……デザート、食べるか?」
その一言を聞いた瞬間、一華の表情は『悪魔』を見る目から『救世主』を崇めるような光へと一変した。
「デザート!?」
パッと再び花が咲いたような笑顔になる。現金なものだと思いつつも、シンはその表情に心の底から救われる思いだった。
「さっき、コンビニで買ってきたんだ。」
二人はリビングに戻り、ソファに並んで腰掛けた。シンが冷蔵庫から大切に冷やしておいた二種類のプリンを取り出す。
「プリンだ。どちらにする?」
差し出されたのは、ふわふわのチーズスフレが贅沢に乗った『スフレプリン』と、なめらかなカスタードの上にこれでもかとホイップクリームが絞られた『クリームたっぷりプリン』の二つだった。
一華は身を乗り出し、目をキラキラと輝かせる。
「わぁ、どっちもすごく美味しそう! 迷うなぁ……あ、そうだ、今日も半分こにしようよ!」
「半分こ……。あぁ、そうだったな。」
「じゃあ、まずはスフレプリンをいただくね。後で絶対交換してよ!」
「あぁ、わかった。」
一華はスプーンを手に取ると、ふんわりとしたスフレの層を大切そうに掬い上げ、「おいしーっ!」と幸せそうに頬を緩ませた。
シンは、その無邪気に美味しいと笑う一華の横顔をじっと見つめながら、先ほどの自分の意地悪を深く、深く反省していた。
(……やってしまった。こんなにかわいい顔で笑う一華を、あんな無慈悲な言葉で追い詰めるなんて。俺はどうかしていた……。)
しかし、反省する一方で、シンの胸の奥には魔王族特有の少し歪んだ独占欲と愛情が静かに頭をもたげていた。
(……いや、だが。困り果てて引きつったあの顔も、それはそれで……。一華を少しだけ困らせて、その後にこうして甘いもので甘やかす。そのすべての反応が愛おしくてたまらないのだから、もう仕方ないな。)
結局のところ、それは『可愛さ余って』生じてしまった悪戯心に他ならなかった。
一華はスフレプリンをもう一口食べ、うっとりと目を細める。
「んん、美味しい! シン、こっちのスフレ、本当にふわふわだよ!」
そうやって無防備に甘いプリンを頬張る一華の姿は、シンの胸の奥をどこまでも温かく満たしていく。 シンの熱い視線に気づかないまま、一華は自分のスプーンを彼に差し出した。
「シン? ほら、約束の交換だよ!」
ハッと我に返り、シンは柔らかく微笑みながらうなずいた。
「あぁ。……いただくよ。」
一華から手渡されたスプーンの甘さを噛み締めながら、シンは明日からの学校生活、そして何よりこの穏やかな笑顔を、自分の命に代えても守り抜くという決意を、改めてその胸に深く刻み込んだのだった。




