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偽りの兄妹(旧タイトル:いちにの華)  作者: ゆず華
覚醒編

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第28話 ストロベリームーン

六月の夜、空にはぽっかりと円を描くような満月が浮かんでいた。いわゆる『ストロベリームーン』と呼ばれる夜である。


夕食の卓を囲みながら、一華はスプーンを置くと、どこか嬉しそうに切り出した。


「ねえ、今日の満月って『ストロベリームーン』って言うんだって。昇りたては、なんだか赤っぽい色に見えるらしいよ。」


向かいに座るシンは、静かにスープを口に運んでから首をかしげた。


「今までの満月では、色は確認できなかったな。」


「うん。でも、今日のは見えるらしいよ。昇りたてって、まさに今くらいの早い時間だよね。」


「それなら、わざわざ散歩に出かける必要もないな。ベランダで、たっぷりとパワーを注入するとしよう。」


シンの即座の提案に、一華はパッと顔を輝かせた。


「やったぁ! ベランダなら、ご近所の人間に会う心配もないしね!」



◇◆◇



夕食の片付けを終えると、二人はリビングの窓を開けて湿気を含んだ夜気漂うベランダに出た。シンは周囲の視線と予期せぬ魔力の漏出を防ぐため、ベランダの外側に向けて重厚な結界を張り巡らせた。


「あぁ……東の空に見えるな。」


一華が空を見上げると、そこには確かに、地平線近くで淡い琥珀色を帯びた大きな月が浮かんでいた。


(――仁華に変身!)


心の中でそう唱えた瞬間、一華の小さな体は一瞬の光に包まれ、見慣れた黒猫の姿へと変わった。

以前のような、全身を貫かれるような凄まじい衝撃も、意識が白く弾け飛ぶような感覚もない。月光はただ優しく、しかし確かな温もりを持って毛並みを包み込んでいた。


「にゃにゃ~ん……(少し赤っぽく見えるにゃ!)」


「そうだな。さあ、パワー注入の時間だ。」


黒猫の姿の仁華は、月に向かってまっすぐ前足を伸ばし、『ストロベリームーン』の光を全身で受け止めた。


心の中で、強く、切実に願いを紡ぐ。


(ストロベリームーン様。どうか、自己回復の魔力を覚醒させてください……お願いします!)


シンもまた、仁華の安全を祈りながら、真剣な眼差しで月を見上げていた。


(一華に――いや、仁華に自己回復の魔力を。できれば、共感の魔力を正しくコントロールできる、清らかな浄化の魔力を授けてやってほしい!)


その願いに応えるかのように、月光を浴びた仁華の全身を、今度は巨大な電流のような凄まじい衝撃が駆け抜けた。一瞬にして、意識が真っ白に弾け飛ぶ。


「一華!」


シンは瞬時に衝撃を耐え抜き、意識を失いかけた仁華を抱き上げると、そのままリビングへと飛び込んだ。窓を閉め、結界を解除する。その手はかすかに震えており、動揺の色を隠せなかった。


「一華、おい、しっかりしろ! 大丈夫か!?」


「にゃにゃ……(平気、にゃ……)」


シンは仁華を胸に抱きしめたまま、何度も状態を確認する。


「本当か? どこか変わったところはないか……?」


「にゃにゃ~ん、にゃ……(今のところ、目に見えて変わったところは……にゃい、よ……ね?)


ひとまず安堵のため息をついたシンは、仁華をそっとソファへと下ろした。


「元に戻るか?」


「にゃ~ん……(うん、一華に戻るにゃ)」


閃光を発することもなく、仁華はふわりと元の少女の姿に戻った。


「体調はどうだ? 疲労感は残っていないか?」


「ううん……ただ、衝撃を受けた余韻みたいなものはあるかも。他には、特に何も……。」


一華は、願い事を唱えた直後にあの激しい衝撃が起きたことを思い出し、(もしかしたら、私の願いは聞き届けられたんじゃないか)という淡い期待を抱いた。とりあえず、波打つような体の倦怠感を散らすため、シンに頼んで月華草茶を煎じてもらい、ゆっくりと飲み干した。



◇◆◇



それから数時間後の深い深夜。

眠りについていたシンの鋭い感覚が、一華の放つ魔力の微かな揺らぎを捉えた。彼はすぐに目を覚まし、一華の部屋のドアの前に立って静かにノックをした。


「一華、どうした?」


低く落ち着いた声の向こうから、苦しげなうめき声が返ってくる。


「…うぅ……シン……入ってきて……」


「わかった。」


鍵のかかったドアをすり抜けるようにして、シンは音もなく室内へと足を踏み入れた。


「一華、どうしたんだ? 顔色がひどく悪いぞ。頭痛がするのか?」


一華は両手で頭を抱え、荒い息をしながら言葉をしぼり出した。


「……頭の中に、誰かの悲痛な声が……入り込んでくるの……。」


シンは絶句し、瞳を大きく見開いた。


「誰かの声だと?」


「わからない。知らない人……。『誰か、助けて……』って、そんな声が聞こえたような気がして……。」


仁華の姿をとっている時ならいざ知らず、人間の『一華』の状態で外部の感情や思念を直接受信してしまったことに、シンは激しい戦慄を覚えた。


「仁華の時だけでなく、一華の状態でまで外部の思念を拾うとは……! これが、今回の魔力覚醒の代償か……。」


「そうかもね……。でも、なんだかじっとしていられなくて。とりあえず、その声のする方へ行ってみたいんだけど……。」


「今からか?」


「うん。こんな遅い時間だし、仁華に変身していきたいんだけど……。」


シンは迷った末、引き締まった表情で決断を下した。


「一華のままでいるより、仁華の姿の方が安全だろう。俺も行く。飼い主として、夜道についていかなくてはな。……その声がどこから聞こえるか、方角はわかるのか?」


「……住宅街の方から……この窓の向こうから聞こえる。」


シンは身支度のため、今度はきちんと鍵を開けて一度自室に戻り、すぐに戻ってきた。部屋の中では、すでに一華が可愛らしい黒猫仁華の姿になって待っていた。

シンは仁華を優しく抱き上げ、静まり返った夜の住宅街へと急いだ。



◇◆◇



住宅街の一角に足を踏み入れると、仁華はぴくりと耳を動かし、声のする場所を正確に指し示すように小さく鳴いた。


「にゃにゃ……(ここの角を右折)……にゃん……(ここだにゃん)」


一軒の静まり返った家の前で、仁華はピタリと足を止めた。家はどの部屋も電気を消し、深い眠りについているように見える。しかし、仁華の確信に満ちた瞳は揺るぎなかった。


「にゃにゃにゃにゃ……(ここの、二階から聞こえるにゃ……。)」


その時、一瞬だけ微かな光の反射や、押し殺したような物音が闇夜に紛れて届いた。シンは眉をひそめ、仁華を抱いたまま闇に身を潜めた。魔力を鋭く研ぎ澄まし、家の内部の気配を伺う。


(――間違いなく、助けを求める声がある。そして、侵入者がいるな。おそらく……強盗か?)


シンは無用な危険を避けるため、仁華を連れて素早く家から離れ、大通りまで戻ると、すぐに警察へ通報した。侵入者がいることを告げ、犯人に気づかれないよう、サイレンを鳴らさずに急行してほしいと静かに指示を出す。


間もなくして、赤色灯を消したパトカーが静かに到着した。シンは、「夜の散歩の途中で不審な物音を聞き、様子を伺ったら家の中に人影らしきものが見えた。」と自然に説明し、お巡りさんを連れて現場の家まで案内した。


数人のお巡りさんが素早く家の中に踏み込み、間もなく犯人は現行犯で取り押さえられた。幸いにも住人は軽傷で済み、金品の被害もなかったようだった。


事件が一段落した後、シンと仁華は簡単な事情聴取を受けるため、パトカーの後部座席に乗せられた。先ほど説明した通りの受け答えで聴取自体はすぐに終わったが、担当の警察官から少しばかり厳しいお叱りを受けることになった。


「こんな深夜に、未成年がうろつくものじゃないよ。危ないから、家までパトカーで送ってあげるからね。」


シンは内心で(未成年でもないし、この程度の危険なら自力でいくらでも回避できるのだが……)と思いつつも、職務中の警察官に無用な波風を立てるべきではないと判断し、大人しく従うことにした。


パトカーはマンションの真下で静かに停まった。警察官が「部屋まで送って両親に引き合わせる。」と言い出したため、シンは「両親は海外赴任中で、俺と妹の二人暮らしなんです。」と穏やかに告げ、エントランスの前で丁寧に頭を下げて別れた。


部屋の扉が閉まると、仁華はすぐに元の少女の姿に戻った。

シンは心配そうに彼女の顔を覗き込む。


「一華、大丈夫か?」


「うん……もう、頭の中の声は聞こえないよ。」


「疲労感はどうだ? 今日は、いつもの散歩よりもはるかに体に負担がかかったはずだが?」


「うん、身体的にはけっこうきついかも……。これだけ眠かったら、布団に入ればすぐに眠れそう……」


一華の足元はフラフラとしており、相当な倦怠感に襲われているようだった。

シンは何も言わずにスッと歩み寄り、一華をひょいと軽々と横抱きにしたそのまま、ベッドルームへと歩き出した。


「あまり時間はないが、とにかく眠るといい。」


ベッドに優しく横たえられた一華に、シンは「おやすみ」とだけ短く告げ、言い知れぬ心配と複雑な感情を胸に秘めたまま、そっと部屋を去った。


布団の温もりに包まれた一華は、先ほどシンに抱き上げられた恥ずかしさをわずかに思い出しながらも、心地よい疲労感に導かれるように、そのまま深い眠りへと落ちていった。

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