第30話 学校の噂
ベッドにシンの魔力を注入してもらった翌朝。
一華はすっきりと目覚め、リビングへと階段を駆け下りて大きく背伸びをした。
「おはよう、シン!」
「おはよう。体調はどうだ。」
活力に満ちた声で、一華は満面の笑みを浮かべる。
「きちんと眠れた! 体力も完全復活だー!」
シンはふっと安堵の笑みをこぼした。
「良かったな。これで学校に行ける。」
「……てことは、休日返上の補習勉強は回避できるよね?」
シンはわざとらしく咳払いを一つ。
「うっ……あぁ、それは回避する。」
こうして二人は朝食とお弁当の準備をテキパキとこなし、元気いっぱいに学校へと向かったのだった。
道中、昨夜の魔力注入の効果か、一華の足取りはどこまでも軽やかだ。シンと並んで穏やかな朝の通学路を歩きながら、一華は(これなら今日も完璧に乗り切れる!)と胸を弾ませていた。
◇◆◇
そんな軽快な気分のまま学校に到着し、自分の席に荷物を置いた直後――。
早くもクラスメイトの理那と真由が、心配そうな顔でバタバタと駆け寄ってきた。
「一華、もう大丈夫なの? めっちゃ心配したよ!」
「うん、丸一日眠ったら完全復活!」
「ねぇ、風邪だったの?」
「ううん、過労みたいなものかな。」
理那は目を丸くして驚いた。
「過労って、高校生なのに!?」
「慣れない環境での生活が、一華の体に知らず知らずのうちに負担をかけていたようだ。もう問題ない。」
すかさずシンが冷静にフォローを入れる。
「そうなんだ。無理しないでね。昨日の授業のノート、写す?」
一華は理那からノートを借りて手際よくスマホで撮影し、「ありがとう!」と真由に返却した。
◇◆◇
お昼休み。机を寄せ合ってお弁当を広げていると、理那が意味深な表情で身を乗り出してきた。
「一華とシン君は休みだったから知らないと思うけどさ……。」
理那は声を潜め、周囲を窺うように言った。
「一昨日の夜、この近くの住宅街で強盗未遂があったんだって! 通報したのが、黒猫を抱いた少年だったって噂になってるの!」
その瞬間、一華の箸がピタリと止まる。
(えっ……!?)
対するシンは、平静を装って何食わぬ顔で箸を動かし続けた。
「俺も知らなかったな……。ニュースになってたのか?」
真由が首を横に振る。
「ううん、あくまで噂。ただ、住宅街の公園で黒猫に話しかける少年の目撃情報もあって、同一人物じゃないかって言われてるの。」
(しまった……! まさか公園の散歩まで見られていたなんて!)
(通報が夜遅かったから、警察への事情聴取の内容が漏れたか……。黒猫と少年、あまりにも特徴的すぎる。)
冷や汗を隠しつつ、シンが探るように聞いた。
「いつ頃の話なんだ?」
「月が出てる、かなり遅い夜だったみたい。でも、二回以上見た人はいないらしいよ。」
「じゃあ、同一人物かは分からないんだな。」
「うん。ただ、共通してるのは『黒猫と少年』ってことだけ。」
一華は慌ててごまかすように笑った。
「い、犬や猫を飼ってる人って、ペットにも人間と同じように話しかけたりするもんじゃないかな?」
さらにシンが、論理的な口調で説得力を肉付けする。
「日中、家にいない人間なら、夜遅くに散歩することもあるだろう。猫好きなら猫に話しかけても不自然ではない。」
しかし、理那はまだ納得がいかない様子で首を傾げた。
「でもさ、シン君。深夜に通報って、ちょっと違和感ない? 寝静まった夜中に出歩いてる少年って……どう思う?」
焦った一華が「し、深夜まで猛勉強していて、その息抜きとか!」と食い下がる。
シンも表情を微動だにさせず追従した。
「勉強に疲れて、息抜きに猫と散歩していただけではないのか? むしろ、不審者を通報して事件を未然に防いだのなら、褒めるべきだ。」
ここで、話を聞いていた浩輔が口を挟んできた。
「そうかぁ? 犯人探しならぬ、その『少年探し』でもしようかと思ってたんだけど……なぁ。」
直哉も「あぁ、でも勉強中の息抜きなら、邪魔しない方がいいよなぁ。」と、早くも乗り気ではないトーンだ。
一華はここぞとばかりに畳みかけた。
「そうだよ! ここの受験生かもしれないし、絶対に邪魔しちゃダメ!」
シンも大きく頷き、どこか冷ややかな威圧感を纏わせて畳みかける。
「俺も一華に賛成だ。デリケートな時期の受験生を面白半分で嗅ぎ回ったりして、万が一にも精神的に追い詰めてしまったら……あとでどんな逆恨みやトラブルに発展するか分かったものじゃない。」
その現実的かつ少し生々しいリスクの指摘に、野次馬気分だったクラスメイトたちの空気が少し引き締まる。理那はハッとしたように息を呑み、真由も気まずそうに肩をすくめた。
「うっ、確かに……そこまで考えてなかったかも。もし私たちのせいで受験に響いたら怖すぎるし……。」
「だよね。善意の通報者だったかもしれないのに、私たちが犯人扱いするのも変だしさ。」
二人が納得したのを見て、一華はすかさず笑顔でトドメを刺す。
「じゃあ、この話はこれでおしまい! みんなも変に巻き込まれない方がいいよ!」
「そ、そうだな……。そこまで言われたら、下手に首突っ込めないか……。」
浩輔と直哉も、これ以上の追及は面倒だとばかりに、すっかり気圧されて少年への興味を引っ込めるしかなかった。
クラスメイトたちの詮索の矛先を逸らすことに成功し、一華とシンは心の中で大きく胸をなで下ろしたのだった。
◇◆◇
学校から帰宅し、夕食の準備を始める二人。
しかし、明るかった昼とは打って変わって、リビングには重い空気が漂っていた。
一華は包丁で野菜を切りながら、お昼の噂を思い出して青ざめる。
「……もう、夜の散歩はできないね。」
シンクで手を洗いながら、シンも深刻な表情で頷いた。
「たとえ月に数回程度だとしても、『黒猫と少年』の目撃情報が重なれば、いつか正体がバレる。」
「この先ずっと黒猫と少年のセットで目撃されたら、『一華と本物の黒猫』の組み合わせも用意しなきゃいけなくなっちゃうよ。」
「あぁ。だが、仁華の本当の姿を見せるわけにはいかないから無理だ。」
一華はトントンと包丁を止めて、真剣な顔で提案した。
「ねぇ……いっそ、本物の黒猫、飼う?」
シンは驚いて振り返った。
「……!? 仁華の代わりにか?」
「そう! 日中は私と本物の黒猫の組み合わせを見せられるでしょ? 夜は、シンと仁華が散歩している間に、家の中に本物の黒猫がいればアリバイになる。それに、シンと一華と本物の黒猫の三人で散歩することだってできるよ!」
しかし、シンは腕を組み、冷徹な目で一華の妄想を切り捨てた。
「論理的に破綻しているぞ、一華。まず、俺たちが散歩に出ている間、家に残された本物の黒猫が留守番中に寂しがって鳴いたらどうする? ご近所に猫の鳴き声を聞かれたら、密かに飼っていることが一発でバレる。」
「うっ……た、確かに……」
「それに、我が家の『仁華』はただの猫ではない。あの大きさ、あの艶やかな毛並み、そして何より知的すぎる佇まいと完全に一致する猫など、野良にもペットショップにも存在しない。もし体格が違う猫を連れて歩けば、かえって『偽物だ』と怪しまれる原因になる。」
「うっ……たしかに、そんな都合の良い影武者猫、簡単には見つからないよね……。」
一華は肩を落とし、包丁を持つ手に力がこもらなくなった。
「そうだな。とりあえず、公園までの夜間散歩はしばらくお預けだ。」
一華は力なく、大きなため息をついた。
「別の安全なルートを開拓できるまで、夜の散歩は我慢するしかないか……。」
シンは歩み寄り、一華の頭を優しくポンポンと撫でた。
「それまでは、今まで通りベランダで魔力のパワー注入だ。少し我慢しろ。」
「……仕方ないね。」
一華は小さく頷くと、ふっと前を向いた。その瞳には、先ほどまでの落胆ではなく、確かな闘志が宿っている。
(次の満月までに、共鳴の魔力コントロールを完璧に自分のものにしないと……!)
夜の自由な散歩という密かな楽しみは奪われたものの、二人は新たな試練へ立ち向かうべく、静かに決意を固めるのだった。




