第23話 フラワームーン
朝の柔らかな日差しが、ゴールデンウィーク中の部屋を包み込んでいた。
厚切りのトーストをかじりながら、一華はきらきらと目を輝かせる。
「ねぇ、今日の満月は『フラワームーン』って呼ばれるんだって!」
「フラワームーン?」
シンの脳裏をかすめたのは、魔界の暦にはない奇妙な響きだった。
「うん、五月の満月は花が咲き誇る季節にちなんで名付けられたらしいよ。今日も散歩したい! 晴れるかな?」
ウキウキと弾む一華の姿に、シンはふと眉をひそめる。
「大丈夫か? この前は、散歩のあとに心身ともにひどく疲れ切っていただろう。」
「うん、でも、あの日の翌朝はすっかり回復してたよ!」
(そうだ。俺がその都度、魂を浄化したからな。だが、そのプロセスは絶対に秘匿しなければならない。)
「……あぁ、そうか。魔界製のベッドの効能が優れているということだろう。」
シンが真面目な顔で頷くのを、一華は全面的に肯定されたと受け取った。
「ねぇ、今日の満月の光を浴びたら、また別の魔力が覚醒したりしないかなぁ?」
「別の魔力?」
「そう、魔力覚醒、再び、みたいな! この前の散歩で月のパワーを注入してたでしょ? 月の、それも満月のパワーをたっぷり取り込んだら、次の段階へ進めそうな気がするんだよね!」
シンの内心は穏やかではなかった。満月の夜は仁華への変身リスクが跳ね上がる。できれば大人しく自宅で過ごしてほしいのが本音だったが、あまりの期待ように一華を止めることはできなかった。
「……できれば、今日は誰にも会わない遅い時間帯にするなら、許可しよう。」
「そうだね。誰にも会わない方が、気疲れもしないかもね!」
「あまり遅くなりすぎても明日に響く。二十二時ぐらいはどうだ?」
「わかった! それまでしっかり体力温存だね。ふふっ、今日は何しようかな。」
悪びれもない笑みを浮かべる一華に、シンは容赦なく言い放った。
「一華はテスト勉強だ。」
「うぇ〜。今日の満月パワーで、勉強できる魔力が覚醒したりしないかな?」
「(真顔で)甘いな。下手をすれば、今よりさらに成績が落ちるかもな。」
「あはは、どんな魔力だよ!」
「だな。それは魔力じゃないな。」
シンは(ただの怠惰だ)と内心で補足する。
軽口を叩き合いながらも、朝食を終えた二人はテキパキと片付けを済ませ、つかの間のゴールデンウィークの勉強計画へと取り組んでいった。
◇◆◇
その日の夜、二十二時の少し前。
「シン、準備OK~?」
「あぁ、もうそろそろだな。首輪とリードの準備は万全だ。いつでもいいぞ。」
「じゃ、窓を開けるね。」
一華が勢いよく窓を開け放ったが、空には期待の月影すらなかった。
「……あれ。変身しない。」
「雲に隠れているな……。だが、もうすぐ顔を出すはずだ。」
「完全に隠れちゃってるね。十分くらい待ってもいい?」
「そうだな……あまり遅くまでは待てないが。」
「あ〜ぁ。じゃあ、それまで月華草茶でも飲んでおこうかな。」
「……今日は、それを飲んでおいた方がいいな。」
シンは慎重を期すように、静かにうなずいた。
一華が煎じた月華草茶をのんびりと口に含んだその時、夜空の雲が切れ、眩い満月が姿を現した。
「出てきたぞ。行くか?」
「うん!」
一華が窓辺へ近づき、その身に月の光を浴びた瞬間――。
前回のような、全身を貫く凄まじい衝撃も、意識が白く弾け飛ぶような混乱も起こらなかった。ただ、静かに、光の粒子が彼女を包み込む。
「にゃ~ん……(やったにゃぁ)」
シンは、目の前に現れた黒猫の首輪とリードを手際よく装着しながら、低く呟いた。
「今日は遅い時間だし、何かあればすぐに避難したい。抱いていくぞ。」
「……にゃ。……(しかたにゃいにゃ)」
仁華はすぐに諦めて丸くなった。
シンは仁華をしっかりと抱き上げ、急ぎ足で玄関を飛び出した。人気の消えた住宅街を抜け、誰にも出会うことなく公園にたどり着くと、彼はホッと小さく息を吐いた。ブランコに腰を下ろし、仁華をそっと膝の上におろす。
仁華は夜空の満月にまっすぐ前足を伸ばし、前回同様にパワーの吸収を始めた。
(魔力暴走に繋がらないよう、最大級の警戒を……!)
シンは、一瞬の異変にも対応できるよう、自らの魔力回路を限界まで研ぎ澄ませた。
次の瞬間、月光を一身に浴びた仁華の全身が、巨大な電流に撃ち抜かれたような凄まじい衝撃に包まれた。再び、意識が白く弾け飛ぶ。
「一華、一華! おい、一華、大丈夫か!?」
押し寄せる魔力の奔流に動揺したシンは、思わず仁華を強く抱きしめ、『仁華』と呼ぶことを忘れ本名で叫んでいた。
「にゃにゃ……(大丈夫にゃ……)」
仁華はシンの胸に小さな前足を押し付け、苦しげに身をよじった。
「本当か? 何か、身体に変わったところは……!」
シンは 仁華を抱きしめたまま、その小さな体を入念に探るように見つめる。
「にゃにゃ~ん、にゃ……(今のところ、目に見えて変わったところはにゃいよ、ね?)」
「……身体の構造は仁華のままだな。もう帰るか。」
「にゃん……(帰るにゃ)」
「このまま抱いて帰るからな。」
「にゃ……(わかったにゃ)」
仁華は突っ張っていた前足の力をふっと緩め、重みをすべてシンの腕へと預けた。
家に戻るなり、仁華はシンの腕から飛び降りてリビングのソファへ駆け上がり、前足を前に投げ出してぐっと伸びをした。シンは静かに首輪とリードを外してやる。
「……一華に戻らないのか?」
「にゃにゃ~ん……(一華に戻ると疲れちゃうから、ちょっとこのままでいたいにゃ……。)」
シンは仁華の隣に腰掛け、優しくその背中を撫でた。
「にゃにゃにゃにゃにゃ……(あの衝撃は、いったいにゃにだったんだろうにゃ?)」
「仁華の状態で、何か自覚症状はないのか?」
「にゃにゃん……(今は、特ににゃにもにゃいにゃ。)」
シンは腕を組み、深刻な面持ちで思考をめぐらせた。
(もし、このまま人間の姿に戻った拍子に魔力暴走が起きたら終わりだ。これからの護衛体制をどうすべきか……)
シンのただならぬ気配を察したのか、仁華は(外で暴走したら大変だ、早く戻らなきゃ……)と、一華の姿に戻ることを強く意識した。
「にゃ~ん……(一華に戻るにゃ)」
その声の直後、閃光を放つこともなく、光のヴェールに包まれるようにして、仁華の姿は一瞬で一華へと戻っていった。
「えッ!? 思っただけで一華に戻ってる!」
一華は自分の手や体を見下ろし、驚愕に目を見開く。
「ペンダントの魔力を使わなくても、自分の意思だけで戻れた……! これが満月のパワーなの!?」
隣で背中を撫でていたシンも、その手の動きを止め、信じられないものを見る目で目を見張った。
「思うだけで元に戻れるなんて、すごく簡単になったよ! やったぁ!」
「……魔力が、確実に次の段階へ進んだということだな。」
「うん、でもこれだけかなぁ。ペンダントなしで戻れるのも便利だけど、別の魔力とかが欲しかったな。」
少しだけ不満そうに頬を膨らませる一華をよそに、シンは冷徹に分析を始めた。
「一華。急にいくつもの魔力が覚醒すれば、身体への負荷が大きすぎる。徐々に満月のパワーを浴びることで、一つずつ解放されているのではないか?」
「そっかぁ、段階を踏むんだね! 次の満月でさらにどんな魔力が目覚めるか、今からすごく楽しみ〜!」
無邪気に笑う一華を見て、シンは深い懸念を隠しきれなかった。
「……身体のほうは本当に大丈夫か? 今回は人間と遭遇しなかったから事なきを得たが?」
「そういえば、前の日のようなぐったりする疲労感は全然ないかも!」
「やはり、仁華の姿でいる間は、人間と接触しないことが絶対条件だな。」
シンは胸をなでおおろすと同時に、即座に新たなルールを頭に刻み込んだ。
「そっか。それじゃあ、前に言ってた『仁華としての役目』は果たせないままになっちゃうね。」
「今はまず、一華の身体の安全が最優先だ。」
シンは魂の浄化の負担を負いたくないという意思を隠しつつ、強く主張する。
魂の浄化という隠された負担をこれ以上負いたくない本音を隠し、シンは強い口調で言った。一華も素直に頷き、「じゃあ、今日はもう寝よっか」と、二度目の満月がもたらした驚くべき変化への興奮を胸に、それぞれの自室へと引き揚げていった。
自室のベッドに飛び込んだ一華は、胸の鼓動が高鳴ったまま天井を見上げる。
(やったぁ……思うだけで仁華から一華に戻れるなんて。こんなに簡単になるなんて思ってもみなかったな。)
(今までは、仁華の姿でいる間にいつ魔力暴走が起きるか、いつ戻れなくなるかビクビクしていたけど、これなら安心だ。もし学校の最中にうっかり変身しちゃっても、すぐに一華に戻れるんだから!)
安堵と興奮に包まれながら、一華は心地よい眠気へと落ちていった。
一方、自室に戻ったシンはベッドに腰掛け、誰にも見せない真剣な表情で全身の魔力回路へと意識を集中させた。
(自らの意思、思考のみで変身を完璧に制御した。……これは、一華の魔力が俺の予測を遥かに超えるスピードで加速的進化を遂げている証拠だ。喜ばしい反面、さらなる未知の脅威が近づいていると言わざるを得ない。)
静まり返った夜気の中で、シンの瞳だけが冷たく、鋭く光っていた。




