第22話 魔力の代償
シンは一華をベッドに休ませると、すぐに自室へと戻り、魔王ハオへの魔力通信を試みた。夜も更けてはいたが、一華の安全に関わる一大事だ。躊躇している暇はなかった。
胸に手を当てて集中し、声を潜めて呟く。
「叔父上。緊急の報告と質問がございます。」
数秒後、魔王城の玉座の間から、ハオの姿がシンの目の前にホログラムとして浮かび上がった。静かな威厳を湛えた声が響く。
「シンか。何か緊急事態が発生したのか? 一華の身に危険が?」
シンは居住まいを正した。
「物理的な危険はありません。しかし、一華の魔力と精神状態に関わる重大な発見が……。先日と今日、彼女は黒猫仁華の姿で、夜道で泣いていた人間と、徘徊していた高齢者を助けました。」
ハオは興味深そうに眉を上げる。
「助けた? 詳細を。」
「その際、一華は無意識に『共感の魔力』を発動させていたと推測します。特に金色の光は見えなかった二度目のケースでも、人間に戻った直後、極度の疲労と、心が重いという訴えがありました。」
その報告を聞き、ハオの表情がにわかに厳しくなった。
「共感の魔力……やはりか。一華は『月の賢者』の血を強く引いている証拠だな。」
「お尋ねしたいのは、この精神的消耗についてです。現状、一華は魔界製のベッドで休んでいますが、この『共感による心の消耗』は、通常の疲労と同じように完全に回復しきれるのでしょうか?」
ハオは深く息を吸い込み、告げた。
「答えはノーだ。」
シンの表情が一気に凍りつく。
「何と……!?」
「よく聞け、『共感の魔力』は他者の感情を自分の魂に引き込む。特に悲しみや苦痛は、純粋な精神を内側から蝕むのだ。魔界製のベッドは体力と魔力の修復には万能だが、魂レベルで受けた傷、つまり『心の消耗』を完全に癒すことはできない。」
「では、放置すれば……?」
「一華の精神は不安定になり、魔力制御を失う。最悪の場合、心そのものが破壊される。一華の『優しさ』が、彼女自身の最大の弱点になるのだ。」
危機感を募らせたシンが、矢継ぎ早に尋ねる。
「回復させるための方法が、他に必ずあるはずです!」
「方法は一つ。『魔王族の血』にしかできない。」
「私の魔力で、一華の精神を回復できると?」
「そうだ。ただし、一華に意識がある状態では無理だ。魂と魔力回路が最も無防備な状態、つまり『深い眠り』にあるときを見計らえ。ベッドサイドで一華の額に手を当て、君の『癒しの魔力』を注入するのだ。シンの魔力は一華のそれと非常に親和性が高い。外部の感情によって傷ついた部分を、深層から浄化できる。」
任務の重大さに、シンは身を引き締めた。
「どれほどの時間、魔力を注入すればよろしいでしょうか。」
「一華の呼吸と魔力の波長が、シンのそれと完全に同調するまでだ。それは非常に繊細な作業であり、精神的な交流を伴う。」
ハオは静かに言葉を続けた。
「これは単なる治療ではない。シンと一華の魂を深く結びつける、魔王族としての最も親密な儀式だ。君たちの結びつきが強固になればなるほど、一華は魔力の制御を深め、シンは真の護衛者となるだろう。」
「承知いたしました。直ちに実行します。ご指示、感謝いたします。」
ハオのホログラムが消えた後、シンは深く息を吐き出した。
(魂の浄化……そして、親密な儀式。俺の護衛任務の中で、最も繊細で、最も重要なステップだ。)
覚悟を決めたシンは、再び一華の部屋へと向かった。
◇◆◇
シンは静かに一華の部屋のドアをすり抜ける。
部屋は静まり返り、一華は魔界製のベッドで深く眠っていた。その顔はまだどこか緊張を帯び、眉間にわずかなシワが寄っている。共感の魔力に蝕まれた証拠だった。
(叔父上は、これを『親密な儀式』と呼んだ。俺の魔力で、一華の魂を浄化する……)
シンはベッドサイドに静かに腰を下ろすと、一華の呼吸を乱さぬよう自身の魔力の流れを極限まで抑制した。そしてゆっくりと右手を持ち上げ、彼女の額にそっと触れる。
次の瞬間、シンの指先から清浄で穏やかな青白い光が放たれ、一華の額へと流れ込んだ。体内には、他者の悲しみや混乱が残した濁った残留魔力が澱のように溜まり、魂のコアを取り囲んでいた。
シンは慎重に『癒しの魔力』を送り込み、その濁りを包み込んでゆっくりと分解・浄化していく。
プロセスが進むにつれ、シンの精神にも大きな負担がかかった。一華の魂の深層に触れたことで、シン自身の意識にも、中学生の悲痛な叫びや、徘徊する高齢者の深い不安がエコーのように響き始める。
(これが、共感の代償……。一華は、これほどの感情の波を、自分の小さな魂で受け止めていたのか……。)
だが、シンは動じない。魔王族としての強靭な理性で感情の波を押し返し、ただ『癒し』という純粋な意思の光を送り続けた。
やがて、体内の残留魔力は青白い光に溶かされ、透明なエネルギーへと昇華されていく。
一華の呼吸は深く、規則的になり、眉間のシワが消えていく。
そして――シンの魔力の波長が一華のそれと完全に同調した瞬間、二人の間に微かな金色の粒子が一瞬だけ輝いた。一華の持つ『月の賢者』の魔力が、シンの魔王族の魔力によって活性化し、浄化された証だった。
シンは静かに額から手を離す。
(完全に同調した。心の消耗は、これで完全に浄化されたはずだ。)
安らかに眠る横顔を見つめ、小さな声で呟く。
「ゆっくり休め、一華。」
彼女の寝顔は、まるで初めて魔界製のベッドに横たわった日のように、無垢で穏やかだった。
自らの額に触れると、魂を深く接続したことによる心地よい疲労があった。二人の間に生まれた強い結びつきを実感しながら、シンは再びドアをすり抜けて、自室へと戻っていった。
◇◆◇
翌朝。一華は目覚まし時計が鳴るよりも早く、自然に目を覚ました。
体を起こし、大きく伸びをする。
「ふぅ……っ!」
一華は、驚くほどの清々しさが体を満たしていた。昨夜感じた『体が重い』『心が消耗した』という感覚は微塵もない。まるで一晩で体の奥底から悪いものが綺麗に洗い流されたような、完璧な回復ぶりだった。
(すごい! あの魔界製のベッド、本当に魔法みたいだ! 心の疲れまで全部取れてる! おばあちゃんの悲しさも、もう全然残ってないや。)
魔力感知も非常に安定し、精神的なバリアが強固になっているのを実感しながら、一華はベッドから飛び降りた。
その頃、キッチンではシンが朝食の準備に取り掛かっていた。昨夜の同調による魔力消耗など、魔王族の強靭な体力の前にはすでに過去のものだった。
元気よく廊下を歩いてくる足音が近づいてくる。
「シン! おはよう! 今日の私、最高に調子がいいよ!」
シンは振り返り、一華の安定した魔力の波長を確認して安堵の息をついた。
「おはよう、一華。そのようだな。君の魔力の流れが、非常に滑らかで澄んでいる。」
「やっぱり! 本当にあのベッドすごいね! 心配して損しちゃった!」
(全てベッドの功績としておいてくれた方が、俺の夜の行動を詮索されずに済むな。)
内心でそう思いながら、シンは頷いた。
「あぁ。魔界製の技術力は人間界の比ではない。」
顔色や目元に疲労の影がないことを確認し、完全に浄化が成功したと確信したシンは、エプロンをする一華に目を向けた。
「今日は私も手伝うよ! 何作ってるの?」
昨日、一華が心の中で食べたがっていたメニューが、自然と頭に浮かんでいた。
「スクランブルエッグと、味噌汁だ。」
「え、味噌汁!? シンって、味噌汁作るの上手になったね! ……って、あれ? 今日の気分、まさにそれが食べたかったんだ! シン、ありがとう!」
(俺が食べたかったのではない。一華が食べたいと思ったものを、無意識に選択していた……。魂の同調の影響か?)
シンは、昨日よりも一華の感情や欲求が、まるで自分の体の一部のように近くにあることを感じていた。それは、護衛者としての完璧な同調の証であり、ハオの言った『強い結びつき』の結実だった。
少し戸惑いつつも、シンは穏やかに微笑む。
「一華が食べたいものが、無意識に伝わったのかもしれないな。さあ、手を洗って。今日は勉強を始める前に、しっかり朝食をとるぞ。」




