第21話 散歩
夕食を終えた一華は、今日買ったばかりの真新しい首輪とリードを手に取り、リビングのソファでくつろぐシンを散歩へと誘った。
「シン! 準備万端。変身するよ!」
彼女が決意の表情で窓を開け、夜空を見上げると、シンは静かにその場で見守る。月の光を浴びた一華の体内で魔力が弾け、瞬く間にふっくらとした毛並みの黒猫の仁華へと姿を変えた。
「にゃ、にゃぁ~ん、……(シン、首輪とリード付けてにゃ。)」
シンは小さく頷くと、仁華の首元に慎重に赤い首輪を着けた。だが、リードを手には持ったものの、装着しようとはせず、じっと彼女を見下ろしている。
「リードはいるのか? 今日もパーカーの中に入って散歩だろ。その方が安全だし、夜風にも冷えない。」
「にゃにゃにゃ、にゃぁ、……(せっかくリード買ったんにゃから、歩くんにゃよ! いつまでも甘えてちゃダメにゃ!)」
(今日は抱けないのか……。)
シンは心の中で小さくため息をつく。せっかくの夜のデート(という名の護衛任務)なのだから、パーカーの懐で温もりを独占したいという男の密かな野望は、こうしてあっさり打ち砕かれた。
「にゃにゃ。……(リードの練習も必要にゃよ! 人間界の散歩作法も学ばなきゃいけないんだから!)」
「わかったよ。そこまで言うなら付き合う。」
シンはしぶしぶ、しかし優しくリードをフックに装着する。
「にゃ、にゃにゃぁ~ん、……(シン、さあ行くにゃぁ~!)」
玄関の鍵を閉め、二人は連れ立って夜の街へと踏み出した。
「この前の、大きなすべり台がある公園まで歩いていくぞ。」
「にゃ。……(わかったにゃ)」
仁華はシンの隣をトコトコと、しっぽをピンと上げてゆらゆら揺らしながら前を歩いていく。シンは仁華の小さな歩幅を確かめながら、リードがゆったりとたるむ絶妙な距離感を保ってゆっくりと歩幅を合わせた。
(この距離では、仁華の魔界語の返事を人間界の言葉で返すのは不自然だ。周囲に人がいなくても、独り言をブツブツ呟く変質者と思われるわけにはいかない。会話しながらの散歩は無理だよなぁ……。)と内心で苦笑しながら、静かについていく。
中学生が飛び出してきたあの住宅街を何なく抜け、やがて目的の公園に到着した。夜も遅いため、周囲に人影はなく、街灯がオレンジ色の光をぽつんと投げかけている。
シンは仁華をそっと抱き上げて、ブランコの座面に座らせた。仁華はまるで月に向かってバンザイするかのように、小さなお腹をさらして前足を高く精一杯伸ばす。
「何してるんだ?」
「にゃぁ~ん、……(こうやって月のパワーを全身に注入してるにゃ!)」
シンは面白がり軽口を叩く。
「ふむ、月のパワーを注入したら、今度はどうなるんだろうなぁ。さらに猫化が進行したりして……。」
「みゃ、にゃぁにゃぁ、……(冗談言わないでにゃ! ねぇ、シンみたいに、私もうまいこといろんな魔力が使えるかにゃぁ?)」
たっぷりとパワー注入が済んだのか、仁華はふっと力を抜くと、シンの方に向き直り、その膝の上にちょこんと飛び乗った。シンが自然な手つきで、その柔らかい背中を優しく撫でていると、その時――。
仁華の耳がピクッと鋭く向きを変えた。わずかに聞こえた小さな音の方向を捉えた彼女は、迷うことなくシンの膝の上から飛び降りて、闇の中へと駆け出す。シンは腰を浮かせ、リードに引っ張られるようにして慌ててその後を追った。公園の敷地を出て大通りへと繋がる路地に出ると、道路の中央をトボトボと、足元も危うく歩く誰かの姿が見えてきた。
(魔力ではない。気配は完全にただの人間だ。だが、なぜこんな夜中に、しかも道路の真ん中を?)
顔がはっきりと確認できる距離まで近づくと、それは白髪の高齢のご婦人だった。
「仁華、どうした?」
「にゃんにゃにゃ~ん……(シン、見てにゃ。あの、おばあちゃん、靴はいてにゃい。裸足のまま歩いているにゃ。)」
シンは、言われて初めてその足元に気づいた。周囲にカツカツと靴音が響いていなかったのはそのためだったのだ。
「にゃにゃん。……(この時間でこの様子、きっと徘徊じゃにゃいかと。放っておけないにゃ!)」
「徘徊……?」
シンはその単語を脳内データベースですばやく検索し、深刻さを理解する。
仁華はまっすぐにおばあちゃんに歩み寄り、その足元を心配そうに見上げながら必死に優しい声をかける。
「にゃぁん。にゃ……(おばあちゃん、こんな時間にどうしたにゃ? ここは危ないにゃ! 靴はどうしたにゃ? 冷えちゃうにゃよ……?)」
「あら、ネコちゃん、こんな時間にどうしたの? 迷子なの?」
おばあちゃんは足元の仁華に気づき、心配そうにしゃがみ込もうとしてふらついた。
シンはすかさず前に出て、おばあちゃんの肩を優しく支えながら、仁華の代わりに言葉を継いだ。
「すみません、この子は迷子じゃありません。僕たちが、おばあちゃんを心配して駆け寄ったんです。」
「にゃ~ん。……(そうにゃ、すごく心配だったんだにゃ)」
「あら、そうなの? 帰らなくちゃ。……あら、ここはどこかしら。」
おばあちゃんの瞳に混乱の色が浮かぶ。
「おばあちゃん、おうちの帰り道、わかりますか?」
「帰り道? おうちはどこかしら?……おうちって、どこだっけ。わからないわ……。」
「にゃにゃにゃ~ん……(シン、早く警察に電話してにゃん! 私たちじゃ家に送ってあげられないから、保護してもらおうにゃ!)」
シンはすぐにスマートフォンを取り出し、落ち着いた声で警察へ通報する。現在地と状況を簡潔に告げると、ほどなくして、遠くからサイレンを鳴らさずに静かに滑り込んできた一台のパトカーが、二人の目の前に止まった。
「お巡りさん、こちらです。このおばあちゃん、靴を履いていなくて、帰り道がわからなくなっているようです。僕も最近この街に引っ越してきたもので、ここら辺は詳しくないので、電話しました。」
シンがお巡りさんにおばあちゃんを丁寧に引き渡し、無事に保護してもらう。パトカーの中で安心したような顔をしたおばあちゃんを乗せ、車は静かに夜の街へと消えていった。
遠ざかっていくパトカーの赤いテールランプを見送りながら、シンは軽くリードを引いた。
「もう夜も遅いし、帰ろうか。」
「にゃんにゃ~……(仕方にゃいにゃ、今日もここまでにゃ。)」
仁華は名残惜しそうに、早い帰宅を少し残念がった。
シンはかすかな期待を込めて、少ししゃがみ込みながら尋ねる。
「……じゃあ、帰りは抱くか?」
「にゃぁ……(ううん、最後まで自分の足で歩くにゃ!)」
仁華はしっぽをピンと真上に立て、ゆらゆらと誇らしげに揺らしながら再び歩き出す。
(今日は抱っこ拒否か……)と、シンは内心で小さく項垂れながらも、その小さな黒い背中を温かいまなざしで追って帰路についた。
家までの道のり、シンはふと真面目なトーンで言った。
「仁華、さっきみたいに急に道路へ飛び出したらダメだ。迷子と間違われて連れ去られるぞ。」
仁華はピクッと耳を伏せ、「……」と言葉を呑む。
「飛び出す前に、せめて教えてくれ。」
「にゃん……(わかったにゃん。心配かけてごめんにゃー……)」
シンはその素直な返事に小さく微笑み、再びリードのたるみを絶妙に調整しながら、並んで夜道を歩いた。
◇◆◇
自宅の玄関をくぐり、鍵をガチャリと閉めると、仁華はペンダントの宝石に小さな手をかざし、数回深く息を吸い込んだ。
「すーはぁー……(すぅにゃぁ)」
パッと温かな光がリビングに満ち、一華の元の姿へと戻る。
人間に戻った瞬間、一華は自分の体を両腕でぐっと抱きしめ、その場に膝をつきかけた。
「はぁっ……ん、……やっぱ体が重い……。」
黒猫から一華の肉体に戻った途端、鉛のように重い疲労が一気に全身を襲い、体力が急速に奪われていくのを実感する。シンは一瞬で表情を引き締め、心配の色を浮かべて彼女の元へ駆け寄った。
「大丈夫か、一華! 今回も共感の魔力が勝手に発動したのか? 金色の光の粒子は見えなかったが……。」
一華は荒い息を整えながら、首を横に振る。
「ううん、今回は魔力なんて意識して使ってないのに……どうしてこんなにぐったりするの……。」
シンは即座にこれまでのデータを多角的に分析し、一つの結論を下す。
「なるほど……。魔力が表面的な力として発動しなくても、一華が黒猫の姿で他者の強い感情、たとえばさっきのおばあちゃんの深い不安や混乱に直接触れただけで、『共感の魔力』が無意識のうちに身体に大きな負荷をかけているのかもしれないな。猫の鋭敏な感覚と魔界の体質が、人間の感情をダイレクトに共鳴させてしまうんだ。」
言い終わると、シンはこれ以上の消耗を防ぐため、一言の断りもそこそこに一華をふわりとお姫様抱っこにし、「今日はこのまま無理せず休め……」と静かに廊下を進み始めた。
(ちょっ、近い! お姫様抱っこなんて反則だよ……!)
心穏やかでない一華は、顔を真っ赤に染めながらバタバタと両手を動かして抵抗する。
「だ、大丈夫だよ。自分で戻るよ!」
心とは裏腹に力が入らない一華を横目に、シンは冷静さを装いつつも、内心では心臓の音がうるさいほど高鳴っているのを必死に抑え込んでいた。
(軽い……な。それに、彼女の体温がこんなにも直接伝わってくる……。)
一華の部屋の前にたどり着いたものの、両手が塞がっているためドアノブに手が届かない。やむを得ず、シンは一華をしっかりと抱いたまま、微弱な空間転移の魔力を使って壁をすり抜け、ベッドの横まで移動してそっと彼女を下ろした。
羞恥心と疲労のあまり、一華はベッドのふちに座ったままぐったりとして、もはや声も出ない。
「……」
シンはこれ以上刺激しないよう、静かに背筋を伸ばして部屋を退出した。
(『自分で戻れる』と言われたが、一華の魔力感知が不安定な今、リスクは取れるわけがない。彼女を横抱きにしたのは、護衛として最短かつ最も安全な搬送手段だ。しかし、魔力で壁を通り抜ける必要があったとはいえ、婚約者を横抱きにして寝室に運んだという事実は……!)
廊下で不意に立ち止まったシンは、両手で頭を抱え、耳まで真っ赤に染め上げた。
「うぐっ……! これは任務だ! あくまで護衛としての任務遂行のためだ! だが……次からは、抱く前に必ず本人の許可を得る必要がある……!」
大きく息を吐き出して冷静さを取り戻そうとしながらも、シンの脳裏には先ほどの課題が重くのしかかる。
(しかし、共感の魔力が黒猫の姿である限り、一華の意思とは無関係に消耗を引き起こす。この消耗を、我が家の魔界製のベッドだけで完全に回復しきれるのか……。明日、ハオ様に連絡を取って早急に確認しなければならない――。)




