第12話 魔力制御訓練とカレーライス
連休最終日の朝、朝食と後片付けを済ませた一華とシンは、リビングで向かい合って座っていた。
昨日は遊園地での『月の視覚情報』がなければ『強い感情の揺れ』が起きても魔力暴走の引き金にならないことを確認した日だ。
シンはこのまま、本格的な魔力制御訓練を始めることを決意していた。
「一華。君は今、自分の魔力をどういうものだと認識している? 黒猫に変身するとき、体の中で何が起こっていると感じる?」
少し考えてから、一華は答えた。
「えーっと……お腹の辺りが急に熱くなって、その熱が身体中にブワッと広がる感じ。で、頭が真っ白になって、気づいたら黒猫になってるの。」
「その通りだ。その『熱』こそが、一華の体内で制御しきれなくなった『魔力の奔流』だ。魔力は君の生命力と一体化しており、血液と同じように常に体内を循環している。」
シンは人差し指で、一華の胸の中心、心臓の少し下あたりを指し示した。
「我々魔界人の魔力はこの『核』で生成され、全身の経路を通って手足や結界に送られる。君の変身は、感情の大きな波がその『核』を一気に加熱し、流れるべき経路を無視して外部へ魔力を噴出させてしまう現象なのだ。」
「うわぁ、なんか大変なことになってるんだね、私のお腹の中……。」
「制御とは、その『奔流』を意図的に経路へ誘導し、堰き止めることだ。」
シンは紙とペンを取り、簡単な図を描きながら説明を続けた。
「イメージが重要だ。一華の体内の魔力経路を、巨大なダムと水路だと想像しろ。」
「『核』は、ダム。魔力を溜める場所で、感情が高ぶると水位が一気に上昇する。」
「『結界』は、水門。皮膚の表面に張る膜で、魔力の漏出を防ぐ。」
「『制御』は、水門の操作。ここが最も重要かつ難しい。」
「一華。感情の高ぶりを感じたら、まずダムの水門を小さく絞ることを意識しろ。そして、その絞られた魔力を手のひらや足の裏といった『排出しても安全な末端の経路』に、ゆっくりと流し込むんだ。」
「へえ……ダムか。水路に流すって、具体的にどうすればいいの?」
「意識だ。熱が広がるのを許容するな。その熱を『水』に変え、手のひらへ流し込む。試しに、今力を込めてみてくれ。」
一華は目を閉じ、黒猫になった時の熱い感覚を必死に思い出した。
しばらくして、「うーん……なんか、手にジンジンする感じがする。これかな?」
シンは一華の手にそっと触れ、わずかな魔力の揺らぎを捉えた。
「それだ。それは、漏れるはずだった魔力を末端の経路に導いた証拠だ。その感覚をしっかり記憶しろ。」
「毎日寝る前の15分間、そして学校の休み時間など、感情が安定している静かな時間を利用してこの訓練を行う。感情の振れ幅が小さいうちに魔力を流し切ることで、大きな奔流を防ぐんだ。」
「毎日かー。大変そうだけど、黒猫になるよりはマシだよね。これで、明日から体育で興奮しても大丈夫かな?」
「大丈夫だ。一華の訓練と、私の護衛。二重の安全策で乗り切る。さあ、もう一度その感覚を覚えるまで繰り返すぞ。」
シンの熱心な指導のもと、一華は再び目を閉じ、魔力の『流れ』を意識する訓練に没頭していった。
◇◆◇
「よし、今日の午前中はここまでだ」
シンの声を聞いた瞬間、一華は全身の力を一気に抜いてフローリングの床にぺたりと座り込んだ。
「はぁ……疲れたぁ……。足の裏がジンジンするよ……」
「よく頑張った。末端まで魔力を巡らせた証拠だな。……っと、その前に」
「ぐうー」とまるで合図でもするかのように、一華のお腹から盛大な音が響いた。
「あ、やだ!」
訓練の厳粛な空気を破られたシンは、思わず吹き出した。
「はは。魔力感知を一時中断。昼食にしよう。」
昼食後は明日の時間割を確認したり、テレビを見ながら軽くおしゃべりしたりして過ごし、夕方には夕食の準備に取り掛かった。一華は、比較的簡単だというカレーライスに挑戦することにした。
「レシピ通り作ればいいから簡単だよ! 私、ママの味を再現してみせる!」
「牛肉、じゃがいも、人参、玉ねぎ、カレーのルーか。昨日買っておいたな。」
「そうそう、簡単、簡単、まかせてよ!」
シンは皮むき器を使ってじゃがいもと人参の皮を黙々とむいていく。さすがの正確さだった。一方の一華は玉ねぎの皮を剥き、包丁でくし切りにし始めたが、数切れ切ったところで急にぐずぐずと鼻をすすり出した。
異変に気づいたシンは、びっくりして顔を上げる。
「一華、どうした!? 何か魔力的な干渉を受けたのか!?」
すでに涙目になっていた一華は、大げさに声を上げた。
「目が痛いよ~! うぇ~ん!」
シンは慌ててティッシュを持って駆け寄る。
「なぜだ……怪我か?」
「玉ねぎには、目にしみる成分があって、切ると涙が出てくるの……うぅ、ママ、いつもどうしてたんだろう……いたいよー。」
シンは好奇心から、玉ねぎの切り口に顔を近づけ、その『目に見えない成分』を分析しようとした。
「おっと……来たな。わずかに粘膜に刺激がある。痛いな、これは。」
涙を流しながらもシンを見上げて、一華は言った。
「なに、涙流しながら喜んでんのよ~!」
シンは目から涙を流しつつも、どこか楽しそうだ。
「いや、これは人間界特有の予測不能な化学反応だ。護衛任務以外でここまで五感を刺激されたのはワサビ以来だな。」
こうして二人は、涙目になりながらも分量を量り、初めての料理を協力して作り上げていった。
◇◆◇
無事カレーライスができあがり、食卓に向き合う。
「「いただきま~す!」」
一口食べた一華は、表情を曇らせた。
「う~ん……ママの味と違う! 食べれるけど、全然美味しくない!」
「そうか?」
シンは一口食べ、真面目な顔で
「美味しいけどな。栄養素は完璧に満たしている。」と、どんどん食べ進めていく。
「何が違うんだろう。レシピ通りに作ったのに……ママに教えてもらえば良かった!」
「連絡をとってみるか?」とシンが提案する。
「えっ、ママと連絡とれるの!?」
「アズサ様の私的な魔力経路なら、短時間だが繋げられる。片付けた後に連絡してみよう。」
夕食の片付けを済ませた後、リビングのソファに腰掛けたシンは、静かに魔力を集中し、魔界のアズサに向けて魔力通信の経路を開いた。
一瞬、リビングの空気が桃色に揺らぎ、ホログラムが空間に浮かび上がり、アズサの明るい声が響いた。
「あらあら、どうしたの? 一華?」
「マッマー!」と、一華は思わず声を弾ませた。
「ちょっとどうしたの? ホームシックじゃないわね。寂しくなったの?」
「ううん! カレーライス作ったんだけど、ママの味にならなかったの! なんで!?」
楽しそうに笑うアズサの声が返ってくる。
「あら、可愛いこと言うのね。そうね、教えてなかったわね。カレーにはね、隠し味があるのよ。」
「隠し味? 何それ! レシピには載ってなかったよ!」
「レシピに載ってないから隠し味っていうのよ! レシピ通り作ったあとに、最後に少しだけ醤油を入れるの。コクが出て、和風になるわ。」
「それだけでいいの?」
「そうよ、試してみて。他にもソースやコーヒー、チョコレート、サバの味噌煮缶なんかもいいわね。自分の味を探してみるのも面白いわよ。」
ホログラム越しの母親を見て、一華は目を輝かせた。
「ママ、今すごく綺麗! 毎日ヒラヒラのドレス着てるの?」
「そうよ。妃として、常にパパの隣に立っているためにはね。」
「ママの方がプリンセスみたい。綺麗だよ。」
シンは魔力経路の維持に集中しつつ、通信の限界を感じてそっと告げた。
「一華、そろそろ時間が……。あまり魔力を使い続けるのは、アズサ様にも負担がかかる。」
「もっとおしゃべりしたいけど、また今度ね! 今度はパパも一緒に!」
「うん、じゃあね!」
「アズサ様。それでは失礼いたします。」
通信が途絶え、リビングは再び静寂に包まれた。
「隠し味もいろいろあったな。今日残った分で、明日試してみようか。」
「そうだね! 今度はきっと美味しくなる!」
それぞれお風呂に入り、ベッドに潜り込んだ一華は今日の出来事を反芻した。
(シンと一緒に作ったカレーは美味しくなかったけど、玉ねぎで泣いたのは楽しかったな……。ママが言ってた隠し味、明日さっそく試してみよう。)
魔力制御訓練の疲労と心の安定から、一華は心地よい眠気の中に落ちていった。
同じ頃、シンも自室のベッドの上で静かに魔力制御訓練を繰り返していた。ダムの水門を絞り、魔力を手のひらへ流す。
(魔力の浪費はなかった。玉ねぎの刺激成分、人間の防御反応による涙。すべて予測外のデータだ。しかし……最も予測不能だったのは、アズサ様と話す一華の無邪気な喜びだ。)
一華が玉ねぎで涙を流しながらも笑った顔を思い出し、シンは密かに思考を巡らせる。
(俺の役割は、君を護衛し、守ること。だが、君を『楽しませること』もまた、この人間界での任務に含まれるのかもしれない。)
シンの脳裏には、明日のカレーに醤油を加える一華の姿が浮かんでいた。彼は明日こそ一華が納得できる味を再現するため、『醤油の成分が魔力に及ぼす影響』についての真面目な分析を、静かに頭の中で開始するのだった。




