匂いの記憶
その日を境に、桜智夫の中で何かが変わった。
変わったと言っても、生活の大部分はこれまでと何一つ違わなかった。朝は七時に起きて、凪菜と顔を合わせないように洗面所を使い、適当に朝食を済ませて学校へ行く。授業は眠く、部活はなく放課後はまっすぐ帰る。家では凪菜と最低限の会話を交わし、夕食を食べ風呂に入り、自分の部屋でだらだらして寝る。
ただ一つだけ決定的に変わったことがある。桜智夫の嗅覚が、異常なまでに凪菜の存在を拾うようになったのだ。
最初に気づいたのはリビングのソファだった。凪菜が座っていた場所に、そっと腰を下ろしたときのこと。鼻をかすめたのは、微かな甘い香りだった。シャンプーともボディソープとも違う、もっと皮膚に近いところから出ているような匂い。桜智夫は思わず座面に顔を近づけそうになって、慌ててやめた。誰かに見られたら終わりだ。
次は廊下だった。凪菜とすれ違った瞬間、ふわりと空気が揺れた。風呂上がりだったのだろう。湿った髪の匂いと、温まった肌の匂いが混ざって桜智夫の足が一瞬止まった。凪菜は何も気づかずに階段を上がっていく。桜智夫はその場に立ち尽くして、残り香を吸い込んだ。まるで意味もなく。
そして一番やばかったのは、洗濯物だった。
梅雨が明けてから凪菜は洗濯物を外に干すようになった。ベランダにTシャツやタオルと一緒に揺れているあの布切れを、桜智夫は否応なく目にする。風に揺れるたび、洗剤の匂いがほんのりと漂ってくる。もちろん洗濯済みだから、あの夜嗅いだような生々しい匂いはしない。だが、洗剤の匂いの奥にほんのわずかに残っているのだ。凪菜の体温の記憶のようなものが。
ある日の午後、桜智夫はついに一線を越えた。
この日は凪菜が友達と遊んでくると言っていたので、家には桜智夫一人のはずだった。ところが玄関を開けると、脱衣場の灯りがついていた。誰かいる。凪菜か。いや、凪菜は遊んでくると言っていた。詩織さんは仕事だ。つまり誰もいないはずなのに。
恐る恐る脱衣場を覗くと誰もいなかった。ただ、洗濯かごの上に見覚えのあるものが置かれていた。白い綿のパンツ。明らかに穿き替え用に用意されていたものだ。おそらく凪菜が朝、風呂に入った後に置き忘れたのだろう。
桜智夫は三秒迷った。いや、迷ったふりをした。本当は最初から答えは決まっていた。
手に取ると、布はひんやりとしていた。まだ湿り気が残っている。朝穿いていたものだ。鼻に近づける。洗剤の匂いの下から、あの独特のおしっこと酸味がかすかに立ち上ってきた。前よりは弱い。だが、確かにそこにある。桜智夫は目を閉じて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
「……っ」
心臓が痛いくらいに脈打っている。これはいけないことだと頭ではわかっている。でも嗅ぐのをやめられなかった。もう一度、もう一度と、深呼吸を繰り返す。そのたびに、凪菜の輪郭が頭の中ではっきりと像を結んでいく。不機嫌そうな顔。冷たい目。でも時々見せる、あの皮肉な笑み。
「何してんの」
声がして、桜智夫は飛び上がった。
振り返ると、凪菜が脱衣場の入口に立っていた。手にはコンビニの袋。友達と遊ぶと言っていたのに、どうやら早く帰ってきたらしい。
「え、あ、違う、これは」
「また嗅いでる」
凪菜の声は呆れていた。怒っているわけではなかった。それが余計に恥ずかしかった。
「違うんだ、落ちてたから拾おうとして」
「その言い訳二回目。芸がないね」
凪菜はコンビニ袋を床に置くと、桜智夫の手からパンツを取り上げた。そして何の躊躇もなく自分のバッグにしまう。
「あんたさ、ほんと匂いフェチだよね」
「ち、違う」
「違わないでしょ。この前だってソファに顔埋めてたの見たし」
見られていたのか。桜智夫は顔から火が出る思いだった。
「あれは、その、ほこりが」
「ほこりを顔で吸う奴がいるかよ」
凪菜はため息をついて、脱衣場の鏡の前に立った。髪を適当に直している。桜智夫は逃げ出したかったが、狭い脱衣場で凪菜が入口を塞いでいるせいで動けなかった。
「ねえ」
凪菜が鏡越しに桜智夫を見た。
「なに」
「なんで嗅ぐの」
「なんでって」
「臭いんでしょ。前に臭いって言ってたじゃん」
桜智夫は言葉に詰まった。そうだ。確かに臭いのだ。あの生々しい匂いは、決して心地よいものではない。花の香りでもなければ、甘いバニラの香りでもない。汗と皮脂と、もっと別の何かが混ざった生きている人間の匂いだ。
「臭いけど」
「臭いけど?」
「臭いけど、なんか、気になる」
凪菜は振り返って、じっと桜智夫を見た。その目はいつもの冷たい目ではなく、少しだけ困惑しているように見えた。
「意味わかんない」
「俺もわかんない」
しばらく沈黙が流れた。凪菜は何かを考えているようだった。やがてバッグからさっきのパンツを取り出すと、桜智夫の顔の前に突き出した。
「じゃあ、これあげる」
「は?」
「洗ってないやつ。さっき穿いてたやつ。あげるから、もう私の嗅ぐのやめて」
桜智夫はその場に固まった。目の前に差し出された白い布。洗濯どころか、まだ彼女の体温が残っていそうなそれ。
「いや、そんなの」
「いらないの?」
「いらないって言うか、持ってたらもっとやばいだろ」
「あ、そっか。バレたら変態じゃん」
「今も十分変態だと思われてるよ」
「だね」
凪菜はあっさり認めて、パンツをバッグに戻した。
「じゃあ、今度からは気をつける。脱衣場に放置しないようにする」
「うん、そうしてくれると助かる」
「その代わり」
凪菜は桜智夫に近づいた。一歩分の距離。近い。シャンプーの匂いがはっきりとわかる。
「あんたも、私の物を勝手に嗅ぐのは禁止。わかった?」
「わかった」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「嘘ついたら、その辺の草の匂い嗅がせてあげるから」
「草って」
「草。草の匂いを嗅いでる変態として学校中に広めてあげる」
それは絶対に嫌だった。桜智夫は全力で頷いた。
凪菜は満足そうに頷き返すと脱衣場を出ていった。桜智夫はその場にへたり込んだ。心臓がまだうるさい。顔も熱い。でも、さっきの凪菜の言葉が頭の中で繰り返されていた。
「これあげる」
あれは、どういう意味だったのだろう。からかっていただけなのか。それとも。
考えても答えは出なかった。ただ一つ言えることは、桜智夫はあのとき本当に一瞬だけ「欲しい」と思ってしまったということだ。臭くて、汚れていてちっとも可愛くも柔らかくもない、生々しい現実の匂い。でもそれが凪菜の匂いで。自分だけが知っている、誰も知らない匂いで。
その夜、桜智夫は自分の部屋で寝転がりながら、天井を見つめていた。妄想の中の女の子はもういない。そこにいるのは、不機嫌そうな顔をした口の悪い、脱衣場に下着を放置するおならもする義理の妹。でも、その子の匂いを嗅いだときにだけ、桜智夫の心臓は意味不明なほど高鳴るのだ。
これが恋なのかどうか桜智夫にはまだわからなかった。ただ、少なくともこの匂いを忘れることは一生ないだろうと思った。




