足の匂い
七月の終わり、夏休みに入った。
桜智夫にとって初めての凪菜との夏休みだった。学校がなくなっただけでこんなにも生活が変わるのかと驚くほど、二人の距離は近くなった気がした。もっとも、近くなったのは物理的な距離だけで、凪菜の態度は相変わらず素っ気なかったが。
夏休みに入って一週間目の午後、桜智夫はリビングでだらだらとテレビを見ていた。クーラーの効きが悪いのか、部屋はじっとりと暑い。扇風機の風が生ぬるい。アイスでも買ってくればよかったと後悔していたところに、凪菜が二階から降りてきた。
部屋着のショートパンツに、だぼだぼのTシャツ。髪は寝癖なのか、後ろで適当に結んだだけのものが崩れている。目が半分閉じている。どうやら昼寝から起きたところらしい。
「暑い」
凪菜はそれだけ言って桜智夫の隣にどかりと座った。ソファが沈む。距離は拳一つ分ほど。前なら意識してしまったその距離が、今ではもう当たり前になっていた。
凪菜はしばらくぼんやりとテレビを見ていたが、やがて足を組み替えた。その拍子に、裸足の足裏が桜智夫の太ももに触れた。
「あ、悪い」
凪菜は足を引っ込めた。しかし桜智夫の鼻はもう反応していた。ほんの一瞬のことだった。でも確かに嗅いだ。汗と、埃と、それから。
「今、なんか嗅いだ?」
凪菜がじとりとした目でこちらを見た。
「嗅いでない」
「嗅いだよね。鼻が動いた」
「動いてない」
「動いてた。犬みたいだった」
桜智夫はテレビに視線を固定した。心臓がばくばくしている。凪菜はしばらく桜智夫を睨んでいたが、やがてため息をついて足をブラブラさせ始めた。
「あのさ」
「なに」
「あんたって、ほんと匂い好きだよね」
「好きじゃない」
「じゃあなんで嗅ぐの」
「癖で」
「癖で人の足の匂い嗅ぐ奴がいるかよ」
ぐうの音も出なかった。凪菜は自分の足を見下ろした。
「そんなに臭い?」
「臭くない」
「嘘。今、絶対臭いと思ったでしょ」
「思ってない」
「じゃあ嗅いでみなよ」
桜智夫は固まった。凪菜は自分の足を桜智夫の顔の前に突き出した。足の裏がこちらを向いている。指が少し反り返っていて、土踏まずがきれいなカーブを描いていた。
「ほら、嗅いでみ」
「やだよ」
「なんで。いつも嗅いでるくせに」
「いつもは嗅いでない」
「嘘つき」
凪菜は足を引っ込めない。それどころか、つま先で桜智夫の頬を軽くつついた。柔らかい感触。そして匂い。汗の匂いと、その奥にある凪菜自身の匂い。
「ほら、遠慮しないで」
凪菜の声はからかうような試すような響きだった。桜智夫は覚悟を決めて、そっと鼻を近づけた。足の裏の中央あたり。土踏まずのくぼみに鼻先を押し当てる。
「……っ」
思わず息を止めた。酸っぱい。明らかに汗の匂いが強い。でも、あの下着の匂いとは違う種類のものだった。もっとこう、単純に「汗」という感じ。発酵したような、ツンとくるような。決して良い匂いではない。でも。
「どう?」
凪菜が覗き込むようにして聞いてきた。
「臭い」
正直に言った。凪菜は少し目を丸くして、それから声を出して笑った。初めて聞く、大きな笑い声だった。
「正直すぎでしょ」
「正直に言えって言ったのそっちだろ」
「まあね。でもそこまで正直に言われると傷つくわ」
凪菜は足を引っ込めて、今度は体育座りのように膝を抱えた。
「でもさ、あんたの嗅ぎ方なんか変だよね」
「変?」
「うん。嫌そうな顔してるのに、すっごい真剣なの。なに匂いの研究でもしてんの」
桜智夫は答えに詰まった。実際、凪菜の匂いを嗅ぐとき桜智夫はいつも真剣だった。これはどんな匂いなのか、どこから来ているのかなぜ自分はこれを嗅ぎたいと思うのか。そういうことを考えながら嗅いでいる。
「研究ってわけじゃないけど」
「じゃあなに」
「わかんない。でも、凪菜の匂いっていろいろあるんだなと思って」
凪菜は首を傾げた。
「いろいろ?」
「うん。髪の匂いと、首の匂いと、手の匂いと足の匂いと、全部違う」
桜智夫は自分でも何を言っているのかわからなくなってきた。でも口が止まらなかった。
「パンツの匂いも、それぞれ違うし」
「待って。今、パンツの匂いもそれぞれって言った?」
「あ、いや、それは」
「何種類嗅いだの」
「一種類。一種類だけ」
「ほんとに?」
「ほんと」
凪菜は疑わしそうな目を向けていたが、やがて肩の力を抜いた。
「まあいいや。とにかく、あんたのその嗅覚はなんかすごいと思う。犬並み」
「褒めてる?」
「褒めてない」
凪菜はそう言ってまた足を伸ばした。今度は桜智夫の膝の上に足を乗せてくる。さっきよりも長く、しっかりと。
「はい、特別サービス。今日はこれで我慢しなさい」
桜智夫は膝の上の足を見下ろした。爪は短く切られていて、手入れはされていない。足の甲には薄っすらと血管が浮いている。触れれば温かいのだろう。
「我慢って」
「明日からは気をつけるから。脱衣場もそうだけど、足も出さないようにする」
「別に足くらい」
「足くらいって。あんた、自分の言ってることわかってる?」
桜智夫は黙った。凪菜は笑っていた。からかうような、でもどこか優しい笑い方だった。
その夜、桜智夫は自分の部屋で今日のことを思い返していた。膝に残った凪菜の足の重さ。あの酸っぱい匂い。決して良い匂いではなかった。でも、なぜかもう一度嗅ぎたいと思ってしまう。あの匂いの中に、凪菜の一日が詰まっているような気がしたからだ。朝起きて、階段を降りてご飯を食べて、だらだらしてまた階段を上がって。そういう全部が、あの足の裏に凝縮されているような気がした。
桜智夫は自分の嗅覚が少し怖くなった。でも同時に、もっと知りたいとも思った。凪菜の匂いをもっと。いろんな場所の。いろんな時間の。
これは絶対に誰にも言えない。凪菜にも言えない。でも、そう思ってしまっている自分が確かにいた。
翌朝、リビングで凪菜と顔を合わせた。凪菜は桜智夫を見るなり、くすりと笑った。
「おはよう。今日は足、出してないよ」
確かに、今日は靴下を履いていた。それも厚手のやつ。
「夏なのに靴下」
「あんたのためだよ。感謝しなさい」
凪菜はそう言って、冷蔵庫から麦茶を取り出した。その横顔を見ながら、桜智夫は思った。この人は自分が思っているよりもずっと優しいのかもしれない。でもその優しさを素直に受け取ると、また嗅ぎたくなってしまうから困るのだ。




