帰り道
梅雨が明けたのは七月の半ばだった。じめじめした空気が一気に晴れて、セミの声がうるさいくらいに響き始めた。桜智夫さちおは朝から憂鬱だった。理由は単純で、期末テストの結果が返ってくる日だったからだ。特に数学が壊滅的だった自覚がある。
案の定、返ってきた答案用紙には赤点ギリギリの点数が並んでいた。数学は四十二点。平均点を軽く下回っている。追試は免れたものの、通知表が思いやられる。
放課後、桜智夫は一人で下駄箱を開けた。上履きを脱いで革靴に履き替えていると、隣に誰かが立った。顔を上げると凪菜なずなだった。
「帰るの」
凪菜はそう言って自分の下駄箱からローファーを取り出した。桜智夫は一瞬固まった。凪菜と同じ学校だということは知っていた。学年も同じだ。しかしクラスが違うせいで、学校で言葉を交わしたことは一度もなかった。それが今、下駄箱の前で並んで靴を履き替えている。
「あ、うん。帰る」
「傘、持ってきた?」
凪菜は折りたたみ傘を鞄から出して見せた。
「朝、天気予報見たら夕方から雨って言ってたよ」
桜智夫は窓の外を見た。確かにさっきまで晴れていた空に、灰色の雲が広がり始めている。傘なんて持っていなかった。天気予報をチェックする習慣がなかった。
「忘れた」
「だろうね」
凪菜はそれだけ言って靴を履き終えるとさっさと歩き出した。桜智夫は慌てて後を追った。別に一緒に帰ろうと言われたわけではない。ただ方向が同じなだけだ。しかし、校門を出てしばらく歩いても凪菜は歩調を変えなかった。つまり、二人は並んで帰っていることになる。
沈黙が気まずい。桜智夫は何か話さなければと思ったが、話題の引き出しが少なすぎた。天気の話をするにも傘の話はさっきしたばかりだ。部活の話はお互いやっていない。勉強の話はしたくない。テレビの話は、そもそも家で一緒にテレビを見たことがない。
「数学、何点だった」
凪菜が先に口を開いた。まさかの話題選択に桜智夫はむせそうになった。
「え、なんで数学」
「テスト返ってきたんでしょ。今日。あんたのクラス、二時間目に返してたの聞こえた」
「なんでそんなこと知ってるんだよ」
「廊下で他の奴らが騒いでたから。穂村が赤点ギリとか言って」
桜智夫は天を仰いだ。どうやら自分の成績は知らないうちに学年中に広まっているらしい。それもこれも、騒いだ友人のせいだ。今度会ったら文句を言ってやろう。
「四十二点」
「ばかじゃん」
「うるさいな。数学だけだし」
「他の教科は」
「聞くな」
凪菜は小さく笑った。初めて見る笑い方だった。口の端だけをわずかに上げる、皮肉な笑みだ。でも笑ったことには違いなかった。
「あんた、頭悪いんだ」
「悪くない。平均よりちょっと下なだけだ」
「四十二点はちょっと下じゃないでしょ」
「うるさい」
凪菜はまた笑った。今度は少しだけ長く。桜智夫はその横顔を見て、ああこの人は笑うとこんな顔になるのかと思った。普段の不機嫌そうな顔も悪くないが、笑った顔の方がずっといい。
空からぽつりと水滴が落ちてきた。最初は一粒二粒だったのが、あっという間に数が増える。凪菜は傘を開いた。淡い水色の折りたたみ傘。
「入る?」
凪菜が傘を少し持ち上げて、桜智夫の方を向いた。
「え、いいの」
「風邪引かれたら迷惑。あとで詩織さんに怒られるの嫌だから」
桜智夫はおそるおそる傘の中に入った。傘は二人で入るには少し小さかった。肩が触れそうな距離。凪菜の髪からはシャンプーの匂いがした。匂いの話をするとあの脱衣場の件を思い出すので、桜智夫は必死に別のことを考えた。
「あんた、傘くらい持ち歩きなよ」
「次から気をつける」
「次からじゃなくて、今度から常に」
「はい」
「返事だけはいいんだ」
雨足が強くなってきた。傘に当たる音が大きくなる。二人は自然と歩く速度を上げた。水たまりを避けながら、狭い歩道を並んで歩く。凪菜の肩が時々桜智夫の腕に触れた。そのたびに桜智夫は体を少しだけ硬くした。
「ねえ」
凪菜が急に立ち止まった。
「なに」
「あんたさ、私のことどう思ってる」
桜智夫の心臓が止まりかけた。傘の下で、凪菜の目がじっとこちらを見ている。雨の音がやけに遠くに感じられた。
「ど、どうって」
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
「じゃあ何」
桜智夫は言葉に詰まった。なんと答えるのが正解なのかわからなかった。義理の妹だから、家族だから、そう答えるのが無難なのはわかっている。でも、それは今自分の胸にあるものとは違う気がした。
「わかんない」
正直にそう言った。
「わかんないのか」
「うん。まだ」
凪菜はしばらく桜智夫の顔を見ていたが、やがて傘を握り直して歩き出した。
「正直でよろしい」
それだけ言った。桜智夫はほっとしたような、物足りないようなよくわからない気持ちでその後ろをついていった。
家に着く頃には雨は小降りになっていた。玄関で傘を畳みながら、凪菜がぽつりと言った。
「あんた、ほんと変な奴」
「なんで」
「パンツの匂い嗅ぐ変態に決まってんじゃん」
桜智夫は絶句した。まだ引きずっていたのか。しかも、今の今まで普通に会話していたのに、最後の最後でそれを持ち出すのか。
「もう忘れてくれよ」
「無理。たぶん一生覚えてる」
凪菜はそう言って濡れた傘を立てかけると、さっさと二階へ上がっていった。桜智夫は玄関に立ち尽くしたまま、顔を覆った。
でも、少しだけ思った。一生覚えているということは、少なくとも一生忘れないということだ。それはつまり、自分のしたことを凪菜が覚えていてくれるということで。
それが嬉しいのか恥ずかしいのか、そのときの桜智夫にはまだわからなかった。




