パンツの匂い
穂村桜智夫が人生で初めて女の子の下着を嗅いだのは、中学二年生の六月梅雨の晴れ間のことだった。
きっかけは、父の再婚だった。
桜智夫の母は彼が小学五年生のときに家を出ていった。理由は今でもよくわからない。父は「大人の事情だ」としか言わなかったし、桜智夫もそれ以上聞かなかった。聞いても仕方がないと、その頃からなんとなく悟っていた。
それから三年。父は小さな設計事務所を営み、桜智夫は可もなく不可もなくの中学生活を送っていた。部活は帰宅部。友人と呼べる相手は三人ほどいるが、そのうち誰一人として女子との接点がある者はいない。桜智夫自身、女子と話した経験は授業で指名されて教科書を読むときの「はい」と「違います」くらいのものだった。
だから、父が「一緒に住むことになった」と言ったとき、桜智夫の頭の中に最初に浮かんだのは、女の子の姿だった。父の再婚相手には、同じ歳の娘がいるという。つまり、義理の妹ができるということだ。
桜智夫の女の子に対するイメージは、非常にシンプルだった。
可愛くて、柔らかくて、いい匂いがする。
それだけだった。女性アイドルグループ、漫画やアニメ、友人が持っていた週刊誌のグラビアページ。それらを合成した妄想の中の女の子は、いつもふわふわしていて肌が白くて、近づくと花のような香りがした。
その妄想が粉々に砕け散ったのは、同居を始めて三日目の夜だった。
梅雨の合間の蒸し暑い夜。風呂に入ろうとして脱衣場の扉を開けた桜智夫は、洗濯かごの縁に引っかかったままの白い布切れを見つけた。いや、白いと言ってもくすんだ生成り色で、ところどころ薄汚れている。明らかに穿き古されたパンツだった。しかも、裏返しになっている。
なぜかその瞬間、桜智夫の心臓は普段の三倍くらいの速さで打ち始めた。頭では「見なかったことにしよう」と思った。しかし、体は勝手に動いた。指先が布切れをつまみ、顔に近づける。鼻先に触れたのは、想像とはまったく別のものだった。
「うわっ、臭っ」
思わず声に出ていた。鼻をつまみたくなるような、酸っぱいような生臭いような、とにかく表現しようのない匂い。これが女の子の匂いなのか。いや、違う。これは凪菜の匂いだ。つい三日前に初めて会った、義理の妹の。
「何やってんの」
背後から声がした。振り返ると、凪菜がバスタオルを肩にかけて立っていた。濡れた髪から水滴が落ちて、肩のあたりを伝っている。その目は、ゴミでも見るような冷たさだった。
「え、あ、これはその、落ちてたから、拾おうと」
「拾って匂い嗅ぐ必要があるかよ」
凪菜はため息をついて、桜智夫の手からパンツを奪い取った。そして、洗濯かごに放り込む。
「てか、それ昨日穿いたやつ。洗濯物に出すの忘れてたの。悪かったね、臭くて」
「いや、別に、臭くない」
「今、臭いって言ったじゃん」
凪菜はバスタオルを巻き直して、脱衣場を出ていった。桜智夫はしばらくその場に立ち尽くしていた。顔が熱い。恥ずかしさと、別のよくわからない感情が混ざっていた。
これが、穂村桜智夫と凪菜の本当の意味での「出会い」だった。
父の再婚相手は凪菜の母である水野詩織という人だった。年齢は父より五つほど下。初めて会ったときの印象は、綺麗な人だなという程度で、それ以上のことはよくわからなかった。物腰が柔らかく、よく笑う人だった。桜智夫に対しても「桜智夫くん」と丁寧に呼び、無理に距離を詰めてくることはなかった。
その娘である凪菜は母とは似ても似つかなかった。背は桜智夫より少し低いくらいで、髪は肩までの黒髪を適当に結んでいる。顔立ちは整っている方だと思うが、常に不機嫌そうな表情をしているせいで、その利点が半減していた。
初対面の日、凪菜は桜智夫を一瞥して「ふうん」と言っただけだった。その後も、必要最低限のことしか話さない。朝は「おはよう」の代わりに軽く会釈するだけ。夕食のときは黙々と食べ、食べ終わるとすぐに自室に戻る。
桜智夫は最初自分が嫌われているのだと思った。しかし、よく観察していると凪菜は詩織に対しても同じような態度だった。つまり、あれが素なのだ。無愛想なのがデフォルトなのだ。
それでも、桜智夫の妄想は止まらなかった。
同じ屋根の下に住んでいる。風呂上がりの濡れた髪。部屋着のTシャツから覗く鎖骨。夜中に聞こえる、隣の部屋の物音。そういう一つ一つが、桜智夫の脳内で勝手に脚色されていく。
だが、現実の凪菜は桜智夫の妄想を裏切ることばかりだった。脱衣場に下着を放置する。歯磨き粉のフタを閉めない。トイレの扉は半開き。リビングで堂々とあぐらをかいて、しかも時々おならをする。
そのすべてが、桜智夫の知らなかった「女の子」だった。
そして、匂いも。
あの夜以来、桜智夫は脱衣場に入るたびに無意識に洗濯かごを確認するようになっていた。凪菜の下着が入っていると、心臓が変な音を立てる。嗅ぎたいという衝動と、嗅いではいけないという理性がせめぎ合う。しかし、そのほとんどは理性が勝った。あの一度で十分だった。あの匂いは、トラウマと言っても過言ではなかった。
それなのに、だ。
一週間後の夜またしても凪菜のパンツが洗濯かごの上に乗っていた。今度は表向きで、しかも淡いピンク色で明らかに新しいものだった。桜智夫はしばらく睨み合った。いや、睨み合っているのは自分と布切れであって、凪菜ではない。
そして、またしても嗅いでしまった。
「……うわ、やっぱ臭っ」
今度は前回よりはマシだったが、それでもやはり花の香りとは程遠い強いおしっこ臭。桜智夫はそっとパンツを元の場所に戻し、何事もなかったかのように風呂に入った。湯船に浸かりながら、自分は本当にバカだなと思った。
女の子は可愛くて柔らかくていい匂いがする。そんな妄想は、もう捨てるべきなのかもしれない。
だが、その一方で、桜智夫の胸の奥には凪菜の不機嫌そうな横顔が焼き付いていた。脱衣場で見た、濡れた髪の水滴。冷たい目。あの「何やってんの」という声。
臭いのは確かだった。でもなぜか、もう一度嗅いでみたい、もっと女の子の事を知りたいと思ってしまう自分がいた。
今は女の子なんて分からない事だらけだ。でも、わかっていることが一つだけあった。
自分の妄想の中の女の子は、もう凪菜の顔をしていた。




