第5話:判決、そしてプロポーズ
小鳥のさえずりが心地よく響く、アルトワ公爵邸の広大なテラス。白磁のティーカップに注がれた、極上のダージリンティーの湯気がふわりと揺れている。
私は、ポカポカとした柔らかな陽光を浴びながら、王都の発行する最新の新聞を広げていた。一際大きな文字で踊る、一週前の大事件の顛末。
『ブラウ侯爵家、組織的脱税および不当裁判介入により爵位剥奪! 家財は全て没落財産として国庫へ回収。元侯爵令息ジュリアンとミーナ元令嬢、北方の魔鉱山へ移送。終身強制労働刑の執行開始――』
「わぁ……。本当に、跡形もなく一瞬ですり潰されちゃったなぁ……」
マドレーヌをひとかじりしながら、私は他人事のように呟いた。まあ、他人事というか、元婚約者とその浮気相手の自業自得な末路なのだけれど。
あの日、レナード様がブラウ侯爵邸に放った特別監査部隊は、文字通りチリ一つ残さない完璧な仕事をしたらしい。芋づる式に出てきた余罪の山により、かつてあれほど傲慢だったジュリアンと、悲劇のヒロインを気取っていたミーナは、今や極寒の地でツルハシを振るう日々を送っている。
(法を軽んじ、人をハメようとした代償はあまりにも重い。はい、完全無欠のギルティ。ざまぁみろ、ですね)
おかげさまで、私の実家であるローゼン男爵家も、ブラウ家から押し付けられていた理不尽な借金を、レナード様が『強迫による契約の無効』および『不法原因給付』というウルトラC級の法理論で木っ端微塵に相殺してくれた。
今や実家は完全に平穏を取り戻し、お父様とお母様からは「アルトワ検事長閣下に一生ついていきなさい」という涙ながらの手紙が届いている。
私の人生を阻んでいた暗雲は、完全に払い去られた。
今ここにあるのは、前世の地味で後ろ暗かったオタク人生の記憶をも浄化するような、圧倒的にホワイトで平和な日々である。
「お待たせしたね、アリア」
テラスの扉が開き、凛としたよく通る声が響いた。
振り返ると、そこには午前中の司法省の執務を爆速で終わらせて帰ってきた、私の保護者にして世界で最も美しい死神検事長、レナード様の姿があった。
マントを従者に預け、私を一瞥したその瞬間、彼の氷の美貌が一瞬にしてとろけるような甘い微笑みへと変化する。
「レナード様、お帰りなさいませ。お仕事、もうよろしいのですか?」
「ああ。君の姿を一時間見ないだけで、私の脳内法廷は存続の危機に瀕してしまうからね。迅速かつ適正な手続きに基づいて、全ての書類を通常の三倍の速度で裁決してきた。今日の私は、君とティータイムを過ごす完全な法的権利を有しているよ」
「相変わらずセリフのジャンルがニッチすぎます」
クスッと笑う私に、レナード様は嬉しそうに目を細め、私の対面の席に座った。そして、当然のような自然さでナイフを持ち、皿の上のマドレーヌを小さく切り分け始める。
「レナード様。マドレーヌってあんまり切らないですよ」
「さあ、あーん、だ」
「き、聞いてください! そ、それに自分で食べられます!」
「却下だ。君に栄養を補給し、その愛らしい笑顔を維持することは、我が公爵邸における最優先義務に該当する」
有無を言わせぬ超過保護。最初の法廷で出会った時は、冷酷無比なラスボスだと思って生きた心地がしなかったのに、今では信じられないほど甘やかされている。
(……最初は、ただの重度な法律オタクに拉致されたと思ってたんだけどな)
小さくカットされたマドレーヌを口に運びながら、私はレナード様の端正な顔立ちを見つめた。
私の前世のガバガバなゲーム知識や、YouTube仕込みの適当な法理用語を「革新的だ」「素晴らしい」と誰よりも高く評価し、全肯定してくれた人。
理不尽な世界から私を連れ出し、その強大な権力と知性で、文字通り世界で一番大切に守ってくれた人。
そんな彼に対して、私の胸の奥が、最近おかしな音を立てて疼くのだ。
最初は恐怖や困惑だったはずなのに、今では彼の姿を見るだけで、体温が跳ね上がる。
(不覚にも……私、この法律オタクの死神閣下に、完全に恋に落ちちゃってるんだわ)
前世でもしたことのない、本気の恋。自覚した瞬間、急に恥ずかしくなって紅茶に逃げようとした。その時だった。
レナード様が、不意にティーカップを置き、これまでにないほど真剣で、どこか神妙な表情を浮かべた。
「アリア嬢」
「は、はいっ?」
彼の切れ長の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
そのあまりの美しさと真剣さに、私の心臓がドクン、と大きく跳ね上がった。
「本日は、我が王国の司法の歴史……いや、私という一個人の全人生において、最も厳粛なる最終判決を下さねばならない」
レナード様は静かに席を立つと、私の目の前へと歩みを進め――そして、信じられないことに、その場に美しく一歩を退き、片膝を床に突いた。
王宮の騎士が、忠誠を誓うかのような完璧な平伏の姿勢。
「レ、レナード様!? 公爵閣下がそんなところで膝を突くなんて違法……じゃなくて、おかしいです! 立ってください!」
「いいや、立たない。これは我が人生における最高位の法廷だからな」
レナード様は、上着の懐から、恭しく一つの箱を取り出した。通常のプロポーズであれば、それは小さな、ベルベットで覆われた宝石箱のはずだ。
しかし、レナード様が差し出したのは――。
――ドスン。
「……え?」
私の前のテーブルに置かれたのは、辞書を三冊ほど積み重ねたくらいの厚みがある、鈍い金属の装飾が施された、信じられないほど分厚くて重厚な本だった。
「どう考えても懐に入る大きさじゃなかったですよ。というか、これは……?」
「我がアルトワ公爵家に代々伝わる、建国以来のすべての判例を網羅した『王国法大全(私の直筆注釈・特装版)』だ」
「重いっ!!! プロポーズのアイテムとして物理的にも内容的にも重すぎです、閣下!!!」
思わず立ち上がってツッコミを入れる私に、レナード様は至って真面目な顔のまま、その重たい法典の表紙の上をそっと指し示した。そこには、陽光を反射してまばゆい、見たこともないほど巨大で美しいダイヤモンドの指輪が乗せられていた。
「アリア・ローゼン嬢。私はこれより、私の保有する全ての財産、全ての爵位、そして私の全生涯における『執行権』を、君に終身委譲したい」
レナード様は、私の右手をそっと取り、その指先にそっと唇を寄せた。
「私の世界は、君と出会うまでただの味気ない条文の羅列だった。だが、君が私の法廷に現れ、あの凛とした声で矛盾を突いた瞬間、私の世界には光が満ちた。君が必要だ。私の最高法規――妻として、生涯、私と同じ地平で法を語り、隣で笑っていてほしい。……これが、私の生涯を懸けた最終請求だ。君の答弁を聞かせてほしい」
真っ直ぐな、一点の曇りもない、あまりにも彼らしいプロポーズ。
言葉のチョイスは相変わらず狂った法律オタクのそれだけれど、込められた熱と愛は、私の胸のキャパシティを簡単に限界突破させていく。
宝石箱ではなく六法全書を差し出してくるような、世界一不器用で、世界一愛おしい私のヒーロー。
私は、あまりの愛しさに視界が潤むのを堪えながら、クスッと幸せそうに笑った。
そして、前世でやり込んだあのゲームの、そして私の新しい幸せな人生を切り開いてくれた、最高のセリフを彼に返す。
私は、左手を彼の頬にそっと添え、満面の笑みで告げた。
「――異議なし!!!!!」
小法廷ではなく、美しいテラスに響き渡る、私たちの決定的な言葉。
「喜んで、あなたの生涯の最高法規になってあげます、レナード様」
その瞬間、レナード様の顔が、まるで子供のように純粋な歓喜へと染まった。
彼は震える手で、私の薬指に最高級のダイヤモンドの指輪を滑り込ませると、立ち上がり、壊れ物を扱うように優しく、けれど絶対に離さないという強い意志を込めて、私をその逞しい腕の中に抱きしめた。
「ああ……アリア、愛している。君との婚姻契約は、今この瞬間をもって永久に発効された。いかなる上位法をもっても、この契約を覆すことはできない」
「ふふ、破棄したら私が違約金請求しちゃいますからね?」
「その必要はない。私が生涯をかけて、君を溺愛するという義務を完全に履行し続けるからな」
耳元で囁かれる甘い言葉に、私は今度こそ完全に降伏して、彼の胸に顔を埋めた。
前世のゲーム知識と、弁護士YouTuberの動画知識から始まった、私の異世界転生婚約破棄イベント。紆余曲折あったけれど、理不尽な過去を全てひっくり返し、世界一の特等席を勝ち取った。
ありがとう、成歩堂龍一。ありがとう、こたけ正義感。
私の新しい人生の法廷バトルは――文句なしの、完全勝訴だ。
判決、ハッピーエンド確定。胸の中でそう高らかに宣言し、私を抱きしめる最愛の死神検事長の手を、私は強く、強く握り返すのだった。
(第5話・完結)




