伍
尊の同僚である鈴本愛佳がマリア像を模した死体となって見つかってから五日後、尊は仕事の休みを利用して和陽の個展に来ていた。
駅と会社の間、尊が会社から帰るときに曲がる横道よりは駅側にある大通り沿いの雑居ビルの一階にある、小さなギャラリーで個展は開かれていた。
扉を開けて中に入れば壁に並んだ絵画と、彫像か塑像かはわからない立体物が数体置いてある。
尊はぐるりとギャラリー内を見渡すが和陽の姿は見当たらない。一応和陽に今日個展に行くと尊は連絡を入れていた。何時頃行くとは伝えていなかったので、出かけているのかな、と尊は作品を見始める。
油彩だったり水彩だったり、宗教画や肖像画、ストーリー性のある絵など気の向くまま好きに描いたのだろうなと感じさせる絵画たち。
壁から少し距離を開けたギャラリーの中央に置かれた立体物たちは動物や人の塑像で、大きさは置物ほどのものであった。
どれも見れば見るほど尊の美的感覚を刺激するもので、初めて誰かの芸術作品を綺麗だと尊が思えた瞬間であった。それと同時にこの感覚に覚えがあった。十年前のトルソー事件の死体を見たときの感覚である。
この世の何よりも綺麗だと思ったあの感覚。尊は愛佳が死体で見つかった日にまさかと思った仮説を思い出す。
もし本当にそうなのだとしたら。
仮説が確証に変わりそうだった時、出先から戻って来た和陽が尊に声をかけた。
「尊君」
「え? あ、和陽さん」
尊がギャラリーに入って作品を半分ほど見た頃、声をかけられ振り返れば和陽の姿。
「所用で出ているときに来たんだね。来てくれて嬉しいよ」
「僕も和陽さんの作品が見られて嬉しいです」
「喜んでもらえたなら何よりだよ。私は入り口の方にいるから、ゆっくり見ていってね」
はい、と返事をして作品に向き直る。
それから約三十分後、残り半分の作品も見終えた尊は入り口にいる和陽に声をかけた。
「素敵な作品ばかりですね」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
どれも素敵な作品だと心から尊は思う。
しかし思えば思うほど、トルソー事件や連続猟奇殺人事件の犯人が誰なのかわかってしまう。
尊の美的感覚——綺麗だと感じるのはトルソー事件や連続猟奇殺人事件で見た死体だけである。
どんなに有名な作品や綺麗だと言われているものを見ようと、尊はそれらを綺麗だと思わなかったのだ。
この十年頑なにトルソーを模した死体だけを思い続けてきた尊だからわかるのだ。トルソー事件や連続猟奇殺人事件の死体の作り手は彼だと。
「素敵だと言ってくれるのに、浮かない顔をしているね」
「素敵すぎて放心状態なんです」
「そんなにかい?」
ふふ、と笑う和陽を見て尊も薄っすらと笑う。
信じたく無い気持ちと憧れ続けた犯人に会えたという歓喜が綯い交ぜになりどんな表情をすればいいのかわからない尊。
今すぐにでも和陽に話を聞きたいが、ギャラリー内には他の客もいる。場所が悪い。
「尊君?」
「え?」
「顔色が悪いけど大丈夫かい?」
和陽はぼっとしていた尊の顔を覗き込みながら言う。
「あ、大丈夫です。少しぼっとしてしまっただけなので」
「本当に大丈夫なんだね」
「はい。久々に真面目に芸術作品を見たので疲れたのかもしれません」
もう帰りますね、と尊は和陽に言う。
今は頭の中の情報を整理すべきだと尊は思ったのだ。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい、ありがとうございます」
ギャラリーの外まで和陽に見送られ、尊は家へと向かう。
バーで次に会ったときに答え合わせをしよう。しかしその前に情報の整理をして、尊自身が落ち着かなければいけない。
急速に繋がった尊の中のパズル。
尊が思うにトルソー事件がきっと初犯。この十年ひっそりと人を殺してきたのだろうか。たぶんそうなのだ。
大々的に報道されるのが過去に類を見ないという現在進行形で行われている連続猟奇殺人事件だけなので、十年で届けの出た失踪者の中にでも他の被害者がいるのだろう。
この十年何もせず、突然世間の注目を浴びるような殺しをするとは思えないし、なにより十年前より死体の扱い方が上手くなっている気がするのだ。
そしてこの十年で殺した人たちのことはどうやって処理したのか。燃やしたのか、埋めたのか、捨てたのか。素人の考えでは全くもってわからない。けれど証拠も何も見つからないように処理したのだろうなと尊は思う。
十年経っていれば失踪宣告で死亡認定された被害者もいるだろう。遺族は一体どんな気持ちで死亡手続きをしたのか。想像もつかない。
尊はそもそも死ぬこと自体を怖がっても嫌がってもいない。そのせいなのか死にまつわる負の感情が理解できない。死んだ人間をどうして悼むのか。どんな人間もいつかは死ぬのだ。わかりきっていることで悲しむことは尊にはできないのだ。
ギャラリーから歩いて家まで帰って来た尊は、荷物を寝室に置くことすらせずに開きっぱなしのクロッキー帳を手に取る。
この四ヶ月の間に起きた連続猟奇殺人事件のスケッチと尊の想いが全てそのクロッキー帳に詰まっている。
十年前から魅了され続け、死体の作り手である犯人に会いたいと願い思ってきた。
いつの間にか邂逅し、尊から話したとはいえトルソー事件の第一発見者であったことを相手に伝えている。
尊が誰か知っている上でずっと会っていてくれていた。しかも自分が犯人だと気づくかもしれない個展に呼ぶなんて自殺行為までしている。
尊が警察に通報しないと思っているのだろうか。いや、思っているというよりも確信しているのだ。盲目的にずっと想い続けた犯人のことを警察に突き出しはしないと。
きっとバーでトルソー事件の話をした時から、尊は彼の掌の上だったのだ。
「…遊ばれたな、僕」
新たな死体が出るたびに尊はバーで彼に感想を聞いてもらっていた。彼は自分の犯行を褒め称える尊を見て、なにを考えていたのか。
気に入られていると思っていたが、飽きたら替えのきく玩具に対するような感覚なのかもしれない。尊はそう考えると、少し寂しいと思った。
持っていたクロッキー帳をローテーブルに戻し、尊はソファーで横になる。
彼は自分の安全が確保されているからこそ、尊と繋がり続け、個展にまで招待した。
今日のギャラリーでの尊の反応を見て、トルソー事件と連続猟奇殺人事件の犯人に尊が気づいたとわかったかもしれない。
尊は考える。今後自分はどうしたいのかを。次に彼に会った時にどうすればいいのかを。
例え彼が犯人だったとして、尊としては彼から離れる理由にはならない。むしろ側に置いて欲しいと思ってしまう。
長年想い続けた人の側に居られれば尊にとってそれ以上の幸せはない。
平々凡々とした味気ない日々。他人にも何事にも興味が薄く、トルソー事件を考える以外に楽しみはない。
今はそれに連続殺人を考えることも加わったが、一般的な趣味ではない。口に出せば気味悪がられること間違いないことだ。
尊はずっと一人だったのだ。やっとできた理解者を自ら手放すことはできない。
自分が思っていたよりも理解者が欲しいと思っていたのだなと尊は今更ながら自覚する。
どうすれば側に居続けられるのか、考えたって答えは出ない。
尊が彼に真相を迫った時、何を答えてくれるのか。はぐらかされる可能性だってある。
ごちゃごちゃの感情と頭ではまともに考えが纏まらず、尊はもういいやと考えることを放棄する。
次彼と会ったときに思うままに聞こう。どうせ考えたってわからない。
久々に動揺して疲れた、と尊は体の力を抜く。
このまま眠ってしまおう。もう動くことも億劫だ。指先一本動かすこともしたくない。
尊は瞼を閉じて、睡魔が来るのを待った。
◇
和陽の個展に行ってから数日経った土曜日。最早お決まりとなった仕事帰りのバー通い。
和陽は来るだろうか、と不安に思いながら尊はバーの扉を開ける。
店に入り店内を見回すが和陽らしき人物の姿は見当たらない。
いつものように後から遅れて来てくれるのだろうかと尊は考えながらカウンターの椅子に腰掛ける。
「いらっしゃいませ、八重樫さん」
「こんばんは、マスター。いつものでお願いします」
「かしこまりました」
にこやかに注文を受けるマスターに、尊もつられて薄っすらと笑う。
「悩み事ですか?」
「え?」
「浮かない顔をしていらっしゃるのでそうかと。モーツァルト・ショコラ、こちらに置いておきますね」
「ありがとうございます。…顔に出てますか?」
「とても出てらっしゃいますね」
「あー…」
尊が思っている以上にメンタルにダメージを負っていたのか、表情に出ていたらしい。マスターに指摘され、こんな顔で和陽に会いたくないなと尊は思う。
もう来店してしまっているし注文も済んでしまっているので今更帰るという選択肢は選べない。できれば少しでも遅く和陽が来てくれることを祈る尊。
しかし無情にも和陽はすでに来店していた。
「尊君、こんばんは。マスターも」
「いらっしゃいませ、榛名さん」
「いつものを」
「かしこまりました」
尊の隣の席に座る和陽。
この約四ヶ月の間に尊と和陽は隣同士または同じテーブル席につくことが当たり前になっている。
ああこの当たり前が今は憎い、と尊は思う。できれば少しでも距離を置きたい。
「尊君?」
「あ、こんばんは、和陽さん」
「大丈夫かい? 浮かない顔をしているよ」
「不安なことがあるそうですよ。こちらキールになります」
「そうなのか。ありがとう」
マスターがキールの入ったグラスを和陽のもとに置きながら、尊の浮かない顔の理由を和陽に話した。
和陽はそれを聞き、ふむ、と考える素振りを見せる。
マスターはごゆっくりどうぞ、と言い残して他の客の元へ行ってしまう。
「個展のせいかな」
「え?」
「個展に来てくれたとき顔色が悪かったろう? 不安なことというのは、個展のせいで生まれたことではないかなと思ってね」
不安なことが和陽にまつわるものだと素直に認めることが嫌で、尊はどう誤魔化すかと考える。
「当たり、かな」
「…その通りです」
しばらく何か言おうと口を開こうとしたが、尊は上手く言葉を紡げなかった。
そんな尊の様子に和陽は自分の予想は当たっていたのか、と言葉を発したのだった。
「…とても失礼なことを聞きます」
「その質問に答えれば、尊君の不安を取り除けるのかい?」
「はい」
「うん、じゃあ、どうぞ」
あっさりと許可を出す和陽。
尊はあっさりと許可をくれるほど気に入られているのか、面倒だからさっさと済ませろと思われているのか、二つの可能性が頭に浮かんで、後者の理由だったら悲しすぎる、とさらにメンタルにダメージを自ら負っていた。
「トルソー事件と連続猟奇殺人の犯人、和陽さんじゃないですか?」
声のトーンを落として言葉を発した尊。
幸い近い席に人は座ってはおらず、マスターも二人が座っている位置から離れた席のお客さんと談笑しているので、聞かれる心配はない。
「どうしてそう思ったのか聞いてもいいかい?」
にこりと表情は笑っているように見えるが、和陽の瞳は尊を探るように冷たく凪いで見えた。
「直感です。論理的に何か証明するものはありません」
「正直だね。…まあ、今まで色々と話は聞いていたし今更な質問だったかな」
和陽はそう言って薄く笑む。
「うん、尊君の言う通りだよ。犯人は私だ」
なんてことないように言う和陽。
あまりにも普段通りなので尊は一拍置いてから和陽の言葉を認識する。
「結構あっさり認めるんですね」
「まあ、誤魔化されてくれなさそうなことと、なにより十年前のトルソーを模した死体(作品)をずっと愛し続けてくれたファンである尊君に嘘はつきたくないからね」
「ファン…。そうですか」
「ファンだろう? しかも熱烈な。十年もずっと同じものを好きでい続けることは相当な熱意や思い入れが無くてはできないことだからね」
優雅にキールを飲みながら答える和陽。
尊は熱烈なファンと称されて、そうだろうか、と考える。
確かに十年間ずっとトルソー事件の死体に魅入られていたし、今も魅入られたままだ。しかし好いていたのかというとよくはわからない。
尊自身は特に好きだとかいう感情を、トルソーを模した死体に対して意識したことはない。ただ一等綺麗なものだと執着していただけのことだった。
「好きとか思ったことないです」
「トルソー事件の死体のことかい?」
「はい」
「尊君は自覚していなかっただけで、トルソー事件の死体のことを結構好いていると思うよ。ずっとスケッチを描き続けて、作り手である私に会いたいと焦がれ続けていたのだろう? それはもう十分好いていると思うよ」
十年間ずっと同じ熱量を向けていたことは事実だ。ずっと作り手である犯人に会いたいと焦がれていたことも事実だ。
それは好いているということとイコールなのだろうか。尊はわからなかった。
しかし和陽がそう言うのならばそうなのだろう。
尊は自分の思考が堂々巡りになってしまうことの予想がついていたので早々に考えることを放棄した。
「納得いってないって顔をしているよ」
「好いていることが納得、というか理解ができなくて」
「でも事実好いているだろう。この四ヶ月の間ずっと熱烈な事件の感想を聞かせてくれたじゃないか。尊君に初めて会ったときにトルソー事件の話をしてくれことを覚えているかい? その時に一途にずっと私の作品を思い続けてくれている人がいる、と感動したよ。尊君が言うように好きじゃないなら、十年間変わらぬ思いを持ち続けられたその感情は一体どんなものなんだろうね」
どんな感情なのか、尊は考える。
長い時間同じものを追い続けるにはそれなりの思いが必要になることはわかる。愛情、憎悪、悦楽などだろうか。自分は一体どれに当てはまるのか。憎悪も悦楽も違う。となると愛情だろうか。愛情なのだろう。
和陽の言う通り好いていたのだろう。魅了された時点で尊の持ちうる全ての愛情、執着があの死体に向けられてしまったのだ。他のものなど目に入らないくらいに。
比較対象が無いために、好いているかどうかがわからなかったのだ。
しばらく考え込んでいた尊に、和陽は問いかけた。
「どんな感情かわかったかい?」
尊の答えなどお見通しのように笑顔を向ける和陽。
その笑顔に少しばかりの気まずさを感じながら口を開く尊。
「…たぶん好いているんだと思います」
「うん、そうだと思うよ」
さも当たり前のように肯定される。
むしろそれ以外の答えは無いかのような口ぶりであった。
「トルソーも、他の死体も」
「ふふ、嬉しいね」
彼の作り出した死体(作品)は尊を虜にして離してはくれない。
一般的に魅了されるということは、魅了されたそのもの自体に興味関心があるのである。興味関心があると言うことは少なからず何かしらの感情——主にプラスの感情が伴っているはずなのだ。
そのことを今更ながらに自覚し認識した尊。
全てお見通しのように悠然としている和陽を前に、今更自覚した少しの居心地の悪さを感じる尊。
「やっぱり尊君が一番の私のファンだね」
嬉しそうな表情の和陽。自分が一番のファンであることが嬉しいなんて言われて、どう反応したらいいのかわからない尊。
「え、あ。そう思ってもらえると僕も嬉しいです」
尊はそうはにかみながら答える。
和陽はそんな反応の尊を見て、より一層嬉しそうに、幸せそうに笑む。
「かわいいね」
「は?」
「尊君。小動物みたいでかわいい」
唐突にかわいいと言われて戸惑う尊。
和陽からの言葉だと喜べばいいのか、かわいいと言われて心外だと怒ればいいのかわからない。
けれど彼からの言葉だと喜んでいる自分が確実にいるのは事実である。
反応に困っている尊を面白そうに見ている和陽。
「面白がってます?」
「困った反応もかわいいなと思って」
「どうせ小動物ですよっ!」
「あらら、怒ってしまったかな」
怒ってしまったかな、と言いつつ笑みを湛えている和陽に尊は、絶対心にも思ってないなこれ、と気持ちが萎える。
「まあ冗談はこれくらいにして、他に何か聞きたいことはあるかい?」
急に笑みを仕舞って真面目な表情になる和陽。
「え、他…? あ、じゃあ一つだけ」
「何かな?」
「心臓を模した死体を送った相手は誰なんですか?」
ずっと謎に思っていたこと。
約十年ぶりの犯行だというのに、明確に誰か宛に仕立てたあの死体。
何度考えても送る相手の想像がつかなかった。
親しい人をあえて作らないタイプの人間が犯人だろうと考えていたので、余計にわからなくなっていた。
今犯人が目の前にいる和陽だとわかっても、彼もそう易々と親しい人間を作るタイプの人間では無いし、彼の交友関係を知っているわけでも無いので想像がつかないのだ。
「知りたいのかい?」
「はい」
「うーん、秘密、かな」
「秘密…」
「当ててごらん。期待しているからね」
当ててと言うのだから尊の知っている人物なのだろう。しかし如何せん検討がつかない。
和陽との接触は主にこのバーである。彼とマスターがほどほどに仲が良いのは知っているがマスターの線は無い。彼とマスターは普通に店長と常連の距離感であるからだ。
他にこのバーで彼と会話をしているのは尊だが、自分は無いな、と早々に切り捨てる。
そもそも心臓死体が出る前の接触は一度だけ。しかもべろべろに酔っ払った尊が一方的に絡んでいただけのことである。名も知らぬ初対面の酔っ払いに心臓を模した死体を送ることは無いだろう。
となるとギャラリーで見かけた人物の中にいる? それとも尊の交友関係の中の誰かだろうか。
和陽のことである、尊の素性やらなんやらを調べ上げていそうなので可能性として無いわけではないだろう。根拠としては尊の職場にわざわざ死体を飾ったことである。確信犯であろう。
「ヒントは無しですか?」
「無しだね。結構わかりやすいと思うのだけどね」
「無しですか…。わかりました」
「まあ、頑張ってね」
自力で答えを見つけろということなので、尊は頑張って考えるしかない。
とりあえず今日は帰って寝よう。疲れた。
尊はグラスに残っているモーツァルト・ショコラを飲み干して、和陽に先に帰ることを告げる。
「気をつけて帰るんだよ」
「はい。じゃあ、また」
「またね」
マスターに会計をしてもらい尊は店を出る。
自宅への道を歩きながら、和陽から与えられた課題について考える。
心臓を模した死体を送った相手は誰なのか。
本当はいないのが正解なのでは、とさえ思うくらいに皆目見当がつかない。
これは時間がかかる、と尊は思う。
来週バーで会った時にもう一度ヒントをもらえないか聞こう、と決めて考えることをやめる。
バーで会うことができなくなるなんて思わずに。




